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萩原治子の「この旅でいきいき」Vol.4

ヴォルガ河クルーズの旅 2016年6月(下篇)

モスクワ観光、そして新幹線で再びペテルブルクへ

前回までの記事
Vol.3 ヴォルガ河をクルーズする2016年6月(中編)
Vol. 2 ヴォルガ河クルーズの旅  2016年6月(上編)
vol.1 アイルランドを往く

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6月3日(金) モスクワ到着

船がモスクワ市の北西部にある川の駅の岸壁に固定されると、私たちはすぐに下船、そしてバスで中心部まで行く。下に地下鉄も走っているような、幹線道路を通るので、交通渋滞がひどい。この町では全ての道はクレムリンに向かっている。それも午後2時頃だから、渋滞はまだまだひどくなりそう。予定だと、1時間でクレムリンに到着するはずだったが、2時間以上かかってしまった。特に、あの赤いレンガの塀と塔が見えてから、さらに30分以上かかった。

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ほとんど近くまで行ったのに、バスはクレムリンと赤の広場を左からぐるりと回って、一応、外から全体像を見せるという試みらしかった。クレムリンと赤の広場というモスクワの2大観光地だけでなく、ロシア政府の官庁街もすぐ隣にある。さらにいくつもの巨大な豪華ホテル、ショッピング街も集まっている。やはり、アメリカの政治の町と商業町を分ける考え方はいいことだ。これでは、賄賂につながる誘惑が多すぎるのではないだろうか? 

バスで2時間かかってクレムリン到着

やっと、4時ごろ、バスを降りて、クレムリンの中に入る。中は観光客でいっぱい。そして、2時間以上もバスに乗っていたので、最初のストップはトイレ。ここにも長い長い列ができていた。しばらく列で待っていると、進み方が遅いのに気づく。女性トイレは4つしかないのだ。さらにそこの悪臭!耐え難いものだった。こんなひどい臭いを経験するのは、インド以来ではないだろうか?メキシコでもキューバでもこんなことはなかった。そして、中にブルーの制服を着た小太りの中年女がハイ、次、っと指示している。何かトイレットペーパーの処理について喚いている。ソ連時代の名残だろうと、皆あきらめ顔。

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再集合して、フレスコ画で一番有名な教会(聖母昇天大寺院)の前に来ると、ここにも長い列。ガイドさんはとても知的な感じの女性で、最高峰のフレスコ画を是非見せたかったようだが、私たちは皆反対して、2番目のでいいと言い張る。採決をとって、2番目の教会に入る。受胎告知教会と呼ばれる。ここも中は天井から壁、アーチの側面など、ありとあらゆる壁面にフレスコ画が描かれている。私たちはヴォルガ河沿いの古い教会をこの4、5日毎日観たので、実を言うと「えっ、また教会?」というのが本心だった。

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クレムリンとは城塞の意味。モスクワ川が大きく2回蛇行してヘアーピン・カーブになっているところ。ここに堅牢な砦を作って、外敵を追い払うことが可能になり、モスコヴィッツ公国はロシアの中心的な役割を担うようなる。城壁の中は相当な面積で、この中に、昔はツァーリ、今は大統領の公邸がある。教会は立派なものが2つ、それに兵器庫がある。公邸は一般公開していない。プーチンはここには住んでいないそう。彼はソ連時代の人だから、教会とは関係なかったが、何かの事件から、多少理解を示す行動をしているという。

教会の次は兵器庫が見所。ここは兵器庫として建てられたが、今は、ロマノフ家の宝物庫になっている。18世紀のエカテリーナ女帝頃からの宝石を散りばめた王冠や椅子や杖はもとより、馬車とソリ、ドレス(皆パリ・モードを取り入れた豪華なもので、ある女帝のものは2万着ある)とケープ、アクセサリー、靴などがいっぱい。そういう実用的なものだけでなく、ここは宝石を散りばめ、趣向を凝らしたファーバジェ・エッグが有名。最後のツァーリ、ニコライ2世の家族の写真が中から飛び出す仕掛けつきエッグなど。私たちはこれじゃ、革命が起こるのも仕方がないとため息をつく。

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ピュートル大帝以降、ペテルブルクが帝都だったが、モスクワに住むことを好んだツァーリもいて、2帝都制とも言える状態だった。200年の間、住むところは、それぞれの好みだったが、戴冠式は必ず、モスクワで行われたという説明を受ける。当時、ツァーリたちは2都の間をよく行き来して、途中休憩のための施設も作られた(それで豪華な動く宮殿のようなソリもある)。

クレムリン見学の後はモスクワ・サーカス

クレムリンの中のほんの一部を見ただけで、もう帰る時間。その夜はモスクワ・サーカスを観る。昔高校生の時、ボリショイ・サーカスが名古屋に来て、父が私たち娘3人を連れて行ってくれた。場所は金山体育館。館内はすり鉢式に観客席が囲み、底に円形のフロアーがあり、その上空で空中フランコや綱渡りが繰り広げられる。サーカスを生で観るのは初めてで、そのスリリングな芸や、ピエロや動物などの滑稽な芸だけでなく、その華やかさに目を見張った。それを思い出しながらの観覧だった。

内容は昔とあまり変わらないが、一つだけ目新しいのは、猫の曲芸だった。猫に芸が出来るなんて!というのが皆の一致した感想。しかしアメリカではここ20年、サーク・デ・ソレイユの斬新なサーカスが本道になっているから、このオールドファッションなサーカスにはあまり感激しない。それにチケットのお値段も安くない。観客の半分以上は外国からの観光客らしかった。(この原稿を読み直していた2017年の1月、アメリカで140年続いていたリングリング・ブラザーズ・サーカス団が解散すると報道される。経営困難の理由は動物をオリに入れて芸を仕込むのは動物虐待と反対する動物愛護運動で、象が解放されたためというが、原因は他にもあるだろうと思われる)

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6月4日(土) 「赤の広場」を見学

翌日は「赤の広場」見学予定。また朝バスで川の駅から中心部まで行く。クレムリンと赤の広場は背中合わせのお隣さん。ここに入るにも持ち物検査がある。エアポートのように、バッグを感知機に通す。大抵係りは一人で、もったいぶってやっているので、すぐ長蛇の列ができる。資本主義になって、近代化は進んだかもしれないが、「時は金なり」という哲学を身を以て、学ぶには時間がかかるものようだ。そういう混雑を予想して、ガイドさんはバスを降りる前にしゃべり続けて、説明をする。

赤は何の色?

赤の広場の「赤」は赤レンガの赤でもなく、共産党の赤でもなく、ロシア語で美しいという意味を持った赤色から来ている。でもここの赤レンガの赤はとびきり赤い。何を入れてこの色を出しているのだろう? ここは昔からマーケットが開かれていたところだそう。町の中心で、お城の横の広場で皆自分の商品を売り、受け取ったお金で生活必需品を買っていく。そして、すぐ横にGUM(グムと読む)というソ連時代からのデパートがあった。施設はそのままで、今はショッピングモールになっている。中はヨーロッパのどの都市にもある有名ブランドのお店が並び、カフェ、レストランもいっぱいある。外国からの観光客だけでなく、地元の人々、地方からのお上りさんもたくさん来ている。赤の広場では今日はブックフェアが開かれていた。ちょっと雨模様で、寒い。レーニンの廟には参拝者の長い列ができている。地方から来た人は是非みたいと思うらしい。どういう方法か公表されていないが、レーニンのミイラがガラスケースに入っているそう。こう言う人気があるところでも見学時間は何曜日と何曜日の何時から何時と制限されている。ソ連の官僚スタイルがこう言うところにも残っている。

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この町はペテルブルクより、人口は3倍くらい(150万でまだ増加中)の大都市だが、町の景観は良くない。ソ連時代の「ブルータリズム」と呼ばれる殺風景な巨大ビルが並び、色もコンクリート色かベージュ。ソ連時代の首都の街並みには残念ながら、華やかさはない。私たちは広場の真ん中でランチを含む自由時間のため解散。私はランチを食べる前に聖ワシーリィ教会に入ることにする。このモスクワ・シーンの象徴的な教会をじっくり見てみたかった。ところが、入場券を買う人の列ができている。共産圏の日常生活に欠かせなかったこの「列」。ソ連崩壊後まだ25年だから、染み付いた慣習はなかなか抜けないらしい。ここでも30人くらいが並んでいるのに、切符売りはたった一人、そんなに失業率が低いのか?と疑ってしまう。こう言うやり方に何の疑問も感じないだけなのだ。15分並んでやっと切符を手に中に入る。

聖ワシーリィ教会

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この教会はペテルブルグの町よりも古く、16世紀にイワン雷帝がカザンという町からモンゴル人かを追い出し、奪い返したのを記念して建てられたもの。中は継ぎ足し継ぎ足し造られたのか、迷路のようになっている。地図もくれないから、適当に人々の後について、階段を上がったり、低いアーチのドア・ウェイを潜ったりして、大小の塔(外観はカラフルなオニオンドーム)の下にある大小の祈祷室のイコン画、フレスコ画を見て歩く。なかなか素晴らしい。塔の外観はオニオンドームで、オニオンの下の首の部分に細長い窓が4箇所、5箇所切ってある。それらが室内の明かり取りになっている。ロシアは北に位置していて太陽光線は弱いから、少なくともその位の明り取りがないと、中は真っ暗だろう。西欧のステンドグラスも、ここの厳しい気候のため、実用化にはならなかったよう。窓に今はガラスがはまっているが、建設当時はもちろん、だた開いていたのだと思う。塔を中から見上げると、てっぺんにはイエス・キリストの顔が描かれている。世界創造の神として、私たちを見下ろしている。イコン画の前辺りの高さに吊るされた古式風銅製シャンデリア。その光でイコン画は光っている(これは漆塗料を使っていると思われる)。フレスコ画は多少修復しているだろうが、古くて、色あせているところもある。何と言っても、窓ガラスがない設計で、室内と言っても風雨にさらされてきたのだから。また階段は石の塊で、段は30センチくらいあって、登り降りも楽じゃない。イコン画の素晴らしいのがいくつもあった。

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外に出てから、改めて、建物を見上げると、オニオンドームの鮮やかな色、その形、大小のオニオンの配置(左右対象ではない)の美しさ、それに外壁のレンガはここも赤いレンガ。それもここのはピンクっぽい。この気候の中で、人々はその美しい光景に涙しただろうことは想像できる。それもあの忌まわしいモンゴル人を追い出したロシア国のツァーリ第2号、イワン雷帝!万歳! 感無量だっただろう。
その日だって、6月なのに、黒い雲に覆われた寒いくらいの夏の日だった。

その時、陽気な音楽が聞こえてきて、結婚式の一団が音楽に身体を揺すりながら、写真を撮っていた。中でも一人、長身の男性が面白おかしく、身体をくねりながら、踊って、皆を笑わせる。西洋にはよく宮殿ジェスター、道化師が登場する。オペラ、リゴレットがそうだ。この結婚式にも、そういう役者が雰囲気を盛り上げるため、雇われウロウロ付き纏う伝統なのかもしれない。そういえば、10年ほど前、アメリカ映画で人気を得たロシア人喜劇俳優がいた。道化師の伝統があるのだろう。

グムのカフェでブリニのランチ

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そのあと、グムに入って、急いでランチをとる。ここはアメリカで言えば、田舎のちょっと古くなったショッピングモールのような雰囲気だが、よく見ると立派。3階建ての3棟が並行し、その間を3箇所に通路が結んでいる。どちらを見ても、両側にびっしりと店が並び、2、3階はアトリウム式に真ん中が空いていて、ガラス天窓に覆われている。なかなか美しい。時間がないので、適当にカフェに入ると、先進国ならどこも同じ、プラスチックでカバーされた写真付きメニューがある。良さそうなものを指でさせば、注文も簡単だった。私はまたイクラが乗ったブリニをオーダーする。ハーブティーとセットになっている。すぐに赤色したハーブティーの入った透明ガラスのポットが出てくる。ハイビスカスティーで中にフレッシュミントの葉がいっぱい入っている。レモン・ウェッジとシナモンスティックも入っている。少し甘みがあり、美味。外は雪が舞いそうなお天気で、風通しのいい教会の中を1時間も歩いいた後だったので、感激。何倍注いでもまだ残っていたので、残りを紙コップに入れてもらった。皆親切。私もチップをはずむ。ブリニも作りたてで美味しかった。

有名なモスクワ地下鉄を見学

赤の広場入り口近くの地下鉄駅の横でグループは再集合。午後は有名なモスクワの地下鉄を見学する。数人が参加したくないと言って、行き先のアラバットというところまで彼らはバスで行くことになる。参加しない理由は以前見学したことがあり、ものすごく長くて急なエスカレーターで深い地下に入っていくので、怖いそう。確かにここで転んだら、大怪我になりそうなものだった。辺りは薄暗いし。

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よく知られているようにここの地下鉄駅は大理石でできていて、駅ごとにスタイルが違う。ウクライナ地方をテーマにしたのや、革命の勇士をテーマにしたところもある。 まず建築的に天井がかまぼこ型になっているのがいい。多分地下深くをグルグル回る穿さく機で筒状に掘ったから、こうなっているのだと思うが、かまぼこ型天井の地下鉄はパリでもワシントンDCでも美しい。綺麗に磨かれた、または彫刻を施した大理石の壁(駅によって、テーマがあり、特徴を出すようにデザインされ、素材の種類、色、スタイルが違う)、柱、プラス、大理石の彫像、モザイクの入った壁や通路、豪華なシャンデリア。少し古臭いスタイルではあるが、想像以上の豪華さに驚く。

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電車も頻繁に運転されているし、乗り換えも簡単。これこそ、ロシア国民が誇るロシア革命政権のレガシーと言えるだろう。スターリンは「庶民のための宮殿」としての地下鉄建設を目指した(スローガン)と言われる。工事が始まった1930年代には(フルシチョフは実行責任者の一人)、地方の若者が競って、この国家事業に参加したそう。第2次大戦中モスクワは、ナチの空襲を頻繁に受けたが、庶民はこの地下鉄を防空壕とした。日本の裏庭に掘ったものなど、比ではない。

アラバット商店街

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アラバットという繁華街の駅で地下鉄見学は終わり、自由時間になる。ここは一番評判が悪かった。3流の商店街という感じで、ここにもプーシキンの新婚時代の家がミュージアムになっているが、我々はロシア人のような熱狂的ファンではないから、入る人もいなかった。マクドナルドがあり、ロシア人の列ができていた。私は仲間の女性とそぞろ歩いていたが、1軒の宝石屋に入った。ロシアの宝石といえば、琥珀だが、この店にはなかなか美しいデザインの本物の貴石を使ったアクセサリーがガラスケースの中に並んでいた。その中に小さい紫のアメジストと黄色のシトロン石を2重に繋いだ長いネックレスが気に入って見ていると、売り子の女性が近づき、すぐ取り出して、見せてくれた。そして彼女はすぐにカリキュレーターを持ってきて、数字を入れて、私に見せる。あなたのためなら、30パーセントオフにしてあげるというのだ。それで私はこれをたった130ドルで買ってしまった。数年前に比べると、ルーブルは半値。もともとこうしたクラシカルな宝石類を好む国民だったよう(タタール人の影響–(中)を参照)。クレムリンの中の兵器庫に飾ってあった夥しい数の宝石類やエッグを作っていた宝飾職人の伝統がここにはあるのだ。それで私はとてもいい買い物をしたと嬉しくなった。

その晩は音楽会に行く

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このクルーズには2人のロシア人のクルーズ・マネージャーが同船している。彼らの主な仕事は翌日の日程についての説明だが、個人的なお願いも聞いてくれる。例えば、私がモスクワからペテルブルクまで新幹線に乗りたいと言えば、その切符を手配してくれる。もう1件はカリフォルニアからの女性3人グループとモスクワでオーケストラの音楽会に行きたいと相談する。二日目の夜、チャイコフスキー・シンフォニー・ホールで音楽会があり、プログラムも「シェークスピアとシャスタコヴィッチ」とある。この切符を手配してもらい、アラバット商店街の見学の後、船に帰るバスを途中下車する。これにマネージャーの一人、ダーシャが付いてきてくれる。コンサートの前に食事をしないといけないし、帰り道もある。彼女はコンサート・ホールには入らず、ロビーで待っている。テレビが置いてあり、中のコンサートが中継されるので、私たちとしても、それほど、申し訳なく思わなくてよかった。ところが、このコンサートは普通の音楽だけを演奏するものではなく、シャスタコヴィッチがこの曲を作曲する過程をちょっとしたドラマに仕立て、俳優が2、3人出てきて、演技する(コスチュームもつけて)。これをすべてロシア語でやるので、私たちにはちんぷんかんぷん。途中から音楽も入るのだが、お芝居も所々で入り、そのたびに音楽は中断され、全く音楽をエンジョイできない。休憩時間に、それまでその中継を観ていたダーシャはもちろん、私たちに同情してくれる。後半に期待をかけたが、同じような感じなので、私たちは諦めて、船に帰ることにする。タクシーを頼むのだが、4人までしか乗れないので、ダーシャは地下鉄で帰るという。こんな時間にとんでもないと、私たちは2台目のタクシーを頼んで一緒に帰る。つまり、皆とても親切なのだ。ダーシャの英語はまあまあだが、今、何かの修士の勉強をしているとかで、知識は豊富で知的。そして、日本的な奥ゆかしさがある。食事中、孤児院でボランティアをしているという話が出て、ここ60年間戦争があったわけではないのに、なぜ孤児がそんなにいるの?と質問すると、彼らはソーシャル・オーファン(社会的孤児)だという。ロシアの社会では自殺率も高いし、ウオッカの飲み過ぎで死ぬ人(主に男性)も多いという。それで政府が孤児院を経営しなければいけないという。これは深刻なこと。こういうロシアの社会事情についてはヴォルガ河クルーズ中に毎日講義してくれた女性の大学教授も言っていた。ロシア社会で生活力のある男性不足は深刻で、知り合いの金持ち女性は自身は相当贅沢な身なりをしているのに、旦那は安物ばかり。それを咎めると、いい身なりをさせると、言い寄ってくる女性を防ぎきれないからと、冗談のような話を深刻にしていた。

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6月5日(日) トレチャコフ美術館

翌日はクルーズ最後の日で、幾つかのツアーの選択肢があった。私が選んだのは、トレチャコフ美術館。朝は9時からバスに乗って、モスクワ市内もクレムリンの南方向、川向こうの地区に行く。9時半に到着した時にはすでに美術館の外には50人以上の行列ができていた。10時開館を待つこと30分、しかしすぐには入れない。警備のため、持ち物検査があるからだ。検査する機械は一つ、係員も一人。ここでもロシアのソ連時代に出来上がった官僚的慣習がまだ変わっていないことがわかった。ギャラリーに入って、絵画を見始めたのは10時半すぎ。

このガイドさんはロシア美術を勉強した人らしく、とてもよく知っている。そして、次の90分、彼女が観せたい有名な絵画、アーティストの説明、その時代、ほとんどが具象画で、国民画派とも呼んでいいものについて、彼女はしゃべりっぱなし。お陰で、私たちは有意義な時間を過ごし、名画の印象を心とiPhoneに収めることができた。

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それどころか、私はこの日初めて観たロシアの歴史画というものに虜になった。レーピンとかスリコフとか、結構日本でも知られている画家らしいが、アメリカでは見聞きしたことはなかった。彼らが描く大判(時には部屋の壁いっぱい)の歴史的イベントの一こま、瞬間を描いた絵は迫力があった。息子を殴り殺してしまって嘆くイワン雷帝、レーピンのヴォルガの舟引きや裸足のトルストイのポートレート、スリコフの「シベリア征服」、ピュートル大帝が息子に勘当を言い渡すシーン、それに最後は日露戦争の時、バルティック艦隊に乗っていて、日本軍に撃沈されて殉死した反戦アーティスト、ヴェレシュチャギンの日光東照宮の絵(ニコライ2世について訪日したらしい)とか、ナポレオンの軍が敗退した後の雪の戦場の絵とか。風景画にもいいのがあった。シシュキンという画家の「樫の林の雨」とか、レヴィタンの「永遠の平和の彼方」、「春を告げるルーク鳥がまたやってきた」という絵など。また中産階級の市民生活の雰囲気を出した「桃と少女」とか、魅力的な絵画もある。後で調べると、ピュートル大帝自身が美術品の蒐集を始め、国産アーティストの養成を始めたそうだが、19世紀にはそれが実り、このミュージアムにあるほど、ロシア人アーティストによる内容の濃い作品群が生まれた。私が気にいった歴史画の歴史の経緯が分からないが、ツァーリにとって不都合な題材が堂々と絵になっている。また19世紀半ばから「移動派」と呼ばれる画家たちはロシア内を移動しながら、平民の生活を描いた。中には、もちろん帝政に批判的なアーティストもいただろう。彼らは「強制労働」の対象にはならなかったのか?いろいろ興味深い。

ピュートル大帝が帝都をペテルブルグに移した後も、ツァーリの戴冠式はモスクワ、また好みでモスクワ住まいの帝もいたので、この美術館とペテルブルクのロシアン美術館には全く同じ絵が飾ってあるという。つまりアーティストは2枚同じ絵を描いたのだ。ちょっと変わっている。アーティストとしては本望だったのだろうか?しかしお陰で、私は大急ぎで見て回った印象的な絵画の数々をもう一度ゆっくりとペテルブルクのロシアン美術館で鑑賞することができた。

ボリショイ劇場近辺

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午後は自由行動。私はボリショイ劇場の辺りをうろつく。ボリショイ本劇場の右側は工事中で、仮の歩道が作られ、その端から端まで、舞台俳優たちの大きなポスターがべたべた貼られていた。また、反対側はボリショイ小劇場で、そこにも俳優、女優のポスターが並んでいた。チェーホフ以来、いかにも舞台芸術が盛んな国と見て取れる。ボリショイ劇場の建物をぐるりと回ると、後ろ側には瀟洒なレストランと歩道に沿ってカフェを発見する。お茶をするのに丁度いい時間と空腹具合だったので、すぐにテーブルをもらう。6月のモスクワは花の季節。ここにもお花がふんだんに飾られていた。ピンク、白、紫、薄緑色など。特に今は石楠花が花盛り。その植木鉢が並んでいる。それに白いテーブルクロスに藤の椅子。まるでパリのように洒落ている。ここで私は白ワインにピロシキをつまむ。

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船に帰るバスを3時に革命広場のマルクスの銅像の前で待つ。共産主義政権は崩壊したが、マルクスはまだ英雄扱いということか? ソ連崩壊後、完全に失脚したのはスターリンだけか?

お別れパーティー

船では5時から、お別れパーティが開かれた。皆、昼間行ったところがすごく良かったと報告し合う。マネージャーからのいろいろな報告の後、1週間くらい前、ヴォルガ河を下っている途中で、ご愛嬌に出されたロシアについての知識のクイズの結果が発表になり、私の名前が呼ばれる。26問中23正解だったという。ご褒美に赤ちゃんの顔がついた板チョコを貰う。後ろの方に座っていた私のところまで、チョコレートを持ってオルガが来て、私は立ち上がり、ハグして、キスを受ける。左の頬にキスするとき、彼女は「3回よ!」とささやいたので、私は次に右の頬を出し、また左を出してキスを受ける。やはりロシア人も基本的には西洋人だと思う。乗客からは一斉に拍手とちょっと歓声。見回すと話したことのある人たちが手を叩く真似をしたり、シャンペーン・グラスを持ち上げたり、近くでは皆おめでとうと言ってくれる。この英語圏のグループ80余名の中で、東洋人の女が一番になったのだから、皆一様にちょっと驚いたよう。仲良くなったカナダ人夫婦の奥さん(著名な大学教授)は「っていうことは、貴女が一番ロシアのこと知っているってことになるわね」と言って、まじまじと私の顔を見た。

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6月6日(月)クルーズ旅の終わり

そして翌日は船を降りる日。朝は8時半までに朝食を終え、部屋は8時15分までに開け渡さないといけない。それぞれの居住都市に帰る飛行機の時間はまちまち。一応午後までは船に残っていられる。また朝3時とかに出発する人たち(アメリカの西海岸組)もいるが、マネージャーは「私たちはお腹を空かせたままあなたたちを下船させない」と宣言して、船は彼らのために特別の朝食を用意する。

私はタクシーを呼んでもらって、予約を入れておいた赤の広場近くの4つ星ホテルに向かう。この3日間毎日同じ道を通って中心部に通ったわけだが、この朝はラッシュアワーだったので、特に渋滞していた。このタクシーは道路の混雑ぶりを示すGPSを搭載していて、若い運転手はそれを見ながら、実に上手にナビゲートして、30分で赤の広場近くのホテルに到着。途中メドヴェデフ首相を乗せた車がサイレンを鳴らしながら、走り抜けたにもかかわらず。

モスクワの高級ホテルに1泊

ロシアに来てから、ずっとクルーズ船で寝起きしたので、やはり一流ホテルにも泊まってみないとと、クレジットカードのポイントを使って予約を入れておいた高級ホテルにチェックイン。荷物を預け、赤の広場に行く。この日は火曜日で10時からレーニンの廟が一般公開される。しかし、そこに着いた時にはすでに長い長い列ができていた。その日はだんだんお天気が崩れ、気温がどんどん下がっていた。多分10度くらいの気温で、雨混じりの冷たい風が吹いていた。とてもその中でレーニンのミイラを見るために30分も待ちたくないので、諦め、近くのメトロポール・ホテルに行く。このホテルは1910年建設でアートデコ調の外装、内装で有名。また真ん中にあるレストランの天井は高く、ガラス張りでアートデコ特有のステンドグラスのような装飾が施してある。朝食しかやっていないので、翌朝の予約を入れて、ホテル・ナショナルに向かう。地図で見ると、大通りを2回横切った対角線上にあるのだが、大通りは片側4車線ある広いもの、そして歩行者は地下道をくぐる。車先行の街らしい。でも冬はこの方がいいのかもしれない。地下道の中に、驚いたことに小綺麗な飲み物の自動販売機が並んでいて、日本語が書かれていた。販売機のみならず、売っている飲み物も全て日本のものだった。

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ホテル・ナショナルでランチを食べ、アートデコ調の内装の写真を撮り、また氷雨降る街に出て、今度は赤の広場の一角にそびえ立っている赤いレンガ造りの建物に入る。ここはロシア国歴史博物館とある。3階にある展示室には主にナポレオン戦争の資料が多くあった。あまり興味はなかったが、改めて、ナポレオンがここまで攻め込んできて、越冬できず、惨敗した史実を考えるチャンスとなる。ポーランドから東、ペテルブルク、モスクワまで大平原が広がる。平原というのはその字の通り、真っ平らなのだ。だから、ナポレオンの強い陸軍はグイグイとモスクワまで攻めることができた。だが、冬の寒さはフランス人の想像を超えたものだったのだろう。

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食糧のない空っぽの町を諦め、後にしたが、スモレンスク辺りでロシア軍の追い討ちを受け、軍のサイズは10分の1位までになって、降伏する。ロシアがナポレオンを討ったことはロシア人の非常な誇りで、1812年という年はチャイコフスキーが同名の曲を作曲しただけでなく、何かと引き合いに出される。これでロシアは東の大国、強国としての地位を確立する。ピョートル大帝が西洋式軍隊結成を国政の最優先にしてから、100年でロシアはそれを成し遂げた。この後、私は夏日本に帰ったとき、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読む。その小説には、それから100年も経たない1905年に、無敵と言われたロシアのバルティック艦隊が日本に負ける。力づくのせめぎ合い、そのたびに何万という若い命が虫けらのように死んでいった。人間はこういう歴史を経ないと学べなかったのだろうか? ボブ・ディランの歌を思い起こす。ここ70年一応平和は維持できてきたが、またいつかは起こるのではないだろうか?

夜は市民向けオペラを鑑賞

夜はニュー・オペラというところでオペラ「ユージン・オニーギン」を観る。もちろんできればボリショイ劇場のオペラかバレエを見たかったが、あいにくその晩はオペラどころか、月曜日で休館日らしかった。でもプーシキンの戯曲にチャイコフスキーが作曲した、このロシアらしいオペラを観られることは幸運だった。劇場はホテルから歩いて30分くらいのところにある。雨上がりの月曜日の夕方、普通のモスクワ市民が住んだり、働いたりする地域を歩くのは悪くない。驚くことは、ソ連時代70年間も宗教は禁止されたはずなのに、あっちこっちに金色のドームがついた教会の塔が見えること。しかも近づくと、教会の建物もよく維持されている。宗教が日常生活に戻っても、そうすぐに信者が増えるわけではないと聞いたが(たった20%)、教会は明らかに健在と見える。

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ニュー・オペラは地方都市のオペラファンが集まるカレッジの講堂のようなところだった。客席はせいぜい500人くらい。このオペラの筋はプーシキンというより、チェーホフもののよう。つまり、19世紀の田舎の有産階級の家族の中に起こる恋愛、失恋の話。舞台は奥深いが、舞台装置はミニマル。衣装もオニーギンに恋するタティアナはピンクのドレスから始まって、その上にヴェストやコートやリボンをつけて、うら若い18歳から円熟した伯爵夫人までを演じる。このソプラノの声は美しく、そして大きい。マイクを通さず、生の声があれほど、大声が出ることに私は感心してしまった。声はいいが、感情があまり入っていない。オニーギンも悪くなかったが、これは冷血な男だから、あまり面白くない。よかったのはオニーギンの友人で途中でオニーギンと決闘して、銃殺される妹の婚約者。このテノールはよかった。それとお父さん役の60代のバリトン。かなり有名なオペラ歌手らしく、観客の中には大ファンがたくさんいて、拍手喝采だった。容姿もいかにも田舎貴族の風貌。何しろ私は前から5列目だったから、ソプラノは耳を塞ぎたいくらいよく聞こえたし、この老バリトン歌手の品のある顔もよく見ることができた。

全体として、この晩の体験は好感がもてるものだった。雰囲気としては昭和40年ごろ、杉並公会堂でやる都民交響楽団のコンサートのようだった。出し物、ユージン・オニーギンは私の好きなオペラの一つで、これで4回目くらい。前の3回はニューヨークの4千5百人も入るメトロポリタン・オペラハウスで、ソプラノはルネー・フレミングとかアナ・ネツブレツコだったから、公演の質については比較にはならないが、素朴な感じがよかった。ギリシャ神話や封建時代を舞台にしたオペラが多い中で、19世紀も後半だが、市民生活の中の話をオペラにした新しいタイプのオペラができたというのは、誠に喜ばしい。

また歩いてホテルまで帰る。雨は止んでいたが、寒い。街には人通りもあまりない。夜11時というのに、空は真っ暗ではない。

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ホテルの近くにある大きな建物(ソ連時代のものらしい)には、軍人らしい警備員が何人も立っていた。その前を歩いていた時、歩道のそこの部分だけ、磨かれた花崗岩の敷石に双頭の鷲のマークを認める。クルーズ中にやったロシアについてのクイズの1問に現ロシア国の紋章は?というのがあった。ロマノフ王朝の紋章が双頭の鷲というのは有名で、双頭の間に金色の王冠が付いている(ロシアだけでなく、オーストリアのハプスブルグ王朝も同じような紋章)。では今の政権では何か? ロマノフ家が双頭の鷲を紋章としたのは、ウラル山脈辺りから西のヨーロピアン・ロシア、東のシベリアの両方に睨みを利かせるためという説明だった。だから私は今のロシア国もそれを継承したに違いないと考えたのは、正解だったよう。その翌朝の朝食の予約は9時なので、8時に目覚ましをかけて、寝る。部屋は広く、寒々としていたので、暖房を入れて寝る。このホテルは4つ星で、ロビーなど、古い良き時代(革命前)のものだが、あまり流行っていないようだ。


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6月7日(火) モスクワから新幹線でペテルブルクへ

今日でモスクワを後にする。午後1時の新幹線でペテルブルクに戻る。二つの帝都を結ぶ鉄道は、19世紀にニコライ1世の命令で建設されたもの。ニコライは地図に定規で真っ直ぐな線を引き、この通りに造れと命令したという。その時、定規が少しズレてモスクワの北になっていたので、その通り、建設された時、駅はクレムリンから10キロ離れたところになったと、昔どこかで読んだ。そのくらい皇帝の権限は絶対だったという例えに使われた。またアンナカレーニナが自殺するのもこうした鉄路。一度は乗ってみたいと思っていた。船でそのことをマネージャーのダーシャに話すと、チケットは前もって買っておいたほうがいいというので、ビジネス・クラスの切符を頼んだ。9000ルーブルで普通クラスの倍だが、元共産圏の国では、資本主義国から来た人は少々多めにお金を使うと効果は10倍に値するし、ことが楽に進む。

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正午すぎに駅(レニングラードスキ駅)に着くと、ホームにはまだ入れず、隣接した小モールで時間を潰す。雰囲気は3流国の駅。売店にはプーチンの顔が入ったTシャツが沢山売られていた。人気があることがわかる。

ヨーロッパの大都市の駅のほとんどがそうのように、ここも終着駅形式。つまり、列車は皆終着か始発、すべてのホームは駅の構内から、外に向かっている。この日は朝から氷雨模様だった。温度は6月7日というのにたった8度。30分前に電車が指定のホームに入ってくる。私たちはまだ入れない。この電車はモンゴル辺りから来たものらしく、降りてきた乗客はモンゴル系の顔がほとんどだった。中には中国人、韓国人もいただろう。風采はいかつく(女性も)身なりは労働者風。モスクワになぜこんなに集まってきているのだろう? モスクワの人口は1200万とも1500万とも言われる。オポチュニティを求めて、連日何万と田舎からモスクワにやってくるのだろうか?

終着駅の欠点

私の切符はビジネス・クラスで指定席だから、急ぐ必要はなかったが、一番先頭の車両という不運。冷たい雨を顔に受けながら、大きく重いスーツケースを引っ張って、反対の手には肩から手荷物バッグをかけて、傘をさして、進む。100メートルの長距離だった。しかも、乗る時、切符とパスポートを見せなくちゃならない。婦警のような格好の人がチェックして、入れてくれた。新幹線は外も中もなかなか良かった。私が持っていた5年前のLonely Planetには、4本の夜行と昼間と夕方に1本ずつの運行しか載っていなかったが、今は昼間も6本走っている。乗客は皆ビジネスマンタイプ、それに奥さん。中は暖かく、シートはカムファタブル。私の席は窓側。発車して、しばらくすると、60歳くらいの男がやってきて、ここは自分の席だという。私の切符はAで窓側と思ったのだが、Bが窓側でAは通路側で、彼が正しかった。正直言って、すっかりリラックスして、リクラインした椅子でぬくぬくとしていた私は不機嫌になり、足の両側に荷物もあったし、ブスッと立ち上がってそれを動かし始めると、この男、ロシア語で何か言って、私は窓側に座っていていいことになった。これは本当に嬉しいホスピタリティだった。私は動かなくて良くなったのだし、窓側に座って外の景色を見たかったのだから。それもこの電車に乗った理由の一つだった。彼には何度もお礼を言う。

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機内食ならぬ車内食がサーブされる

しばらくすると、飛行機のスチュワーデスのような制服を着た若い女性が回ってきて、飲み物と食事の注文を取る。その時白い布のテーブルクロスとナプキンがテーブルに敷かれ、シルバーウェアーが並べられる。そして、私にはワインが運ばれ、次にチーズとパテのような前菜も配られた。しばらくしてから、メインコースとサラダが乗ったトレイが運ばれた。ダーシャがビジネスに乗ると、飛行機のような食事が出るのよっと言っていたことを思い出す。それだけでなく、外への電話、着いた駅でのタクシー、ホテルの予約などもやってくれるそう。私は必要ないと思って、頼まなかったのは間違いだったと後で知る。

沿線はずっと平原。らしいとしか、わからない。線路の両側は高い木が2重3重に植えられ、ほとんど周りの景色は見えない。ある人の話だと、これはソ連時代からで、スターリンの政策の一つだったらしい。外国人だけでなく、国民にも何事もできるだけ、隠すというのが彼のやり方だったのだ。時々垣間見えた景色には、村にも教会の金色に光ったオニオン型ドームが見えた。

ペテルブルク駅着、タクシーの問題

4時間後サンクト・ペテルブルクの駅に到着。モスクワと違って、暖かい。それに晴れている! 列車から降りて、タクシー乗り場に行くと、そのあたりに、10台くらいのタクシーが並んでいる。(一列ではない)。運転手がいない車や、すでに乗客が乗っているのや、いろいろ、どれにしようかと迷っていると、誘いに来る。ホテルの名を言って、幾らか?聞くと、高いことを言う。二人目も同じよう。その1台に乗って、プシュカ・イン・ホテルへ行く。モスクワでもペテルブルクでもどうも流しのタクシーというものがない。皆、電話で呼ばなくてはならない。予約なしで、ホテルや駅で、そこに待っているタクシーに乗ると、ぼられる。その日はここでもモスクワでもぼられた。

プシュカ・インにチェックイン

プシュカ・インはヒストリック・エリアもモイカ川(運河)の東側にある。隣はプーシキン・ミュージアム。彼が最後の5年間、家庭生活を送った家で、31歳のとき決闘で撃たれた後、帰宅し、2日後亡くなったところ。デスマスクもある。モイカ側の反対側は5分歩くと宮殿広場があり、エルミタージュ、冬の宮殿の裏になる。私はここに2晩泊まる。この町にはまだ見たいものが沢山ある。嬉しい!!!

血の上の教会を見学

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この3日間の観光の第1番は血の上の教会。このロシアのおとぎ話に出てくるようなカラフルな外観(モスクワの聖ワシーリィ教会を模している)の教会は、言うまでもなく、1881年にアレキサンダー2世が暗殺された場所に建てられたから、こう命名されている。英語名を訳すと、「流血の地の救世主教会(Church of the Savior on Spilled Blood)」。アレキサンダー2世は1861年に農奴解放をした皇帝である。それだけでなく、司法制度、教育制度、検閲制度などについても斬新的改革を進めたが、それが市民に受け入れられず、暗殺未遂が6回もあったというから、ロシア社会の複雑さがうかがえる。農奴たちは解放されても、それがどういうことか理解できず、また自立生活の術を知らなかった。教会の上に冠された幾つものオニオンドームは美しい色のタイルで包まれ、内部はありとあらゆる壁にフレスコ画が施されている。建てるのに24年かかり、修復に27年かかったと言われる。というのは、第2次大戦中、ナチスによる空襲で、多大な被害を受け、戦後、300人のアーティストが27年かけて、素晴らしく修復したのだった。それで入場料は高い。正教会の教会には椅子を置かないため、中はそれ程広くないが、そのフレスコ画の密集度に、その美しさに驚く。

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夕飯は韓国料理

ホテルからこの教会まで、歩いて30分、途中韓国料理店が2、3軒並んでいるのに気づく。ホテルの川向こうには日本領事館もあるし、どうも韓国街になっているのかもしれない。モスクワの駅でも韓国人らしい人を多く見かけた。この人たちは今の韓国または北朝鮮から移動してきたコーリアンなのか、ジンギスカンの末裔のタタール人なのか、それともウズベキスタンなどのモンゴル系の国の人なのか私にはわからない。または中国人も混じっている可能性も大いにある。同じ共産主義の2大国だったのだから。私はニューヨークを離れて、3週間目に入り、そろそろアジア料理が食べたくなってきていた。それで、この韓国料理店で夕ご飯を食べることにする。でも美味しくなかった。

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6月8日(水) ロシアン美術館

日本語のオーディオガイドは?

第2日目は昨日行った教会のさらに先(南)に行ったところにあるロシアン美術館に行く。この建物は革命まえはニコライ2世の弟、ミカエル大公の住居だったパレス。横に100メートルくらい広がった3階の建物の前は100メートルくらいの芝生の前庭になっている。何と言っても、この国のものはスケールが大きい。オーディオガイドを借りて、観て回る。私は一人で行く時は、必ずこのオーディオガイドを借りる。特に大きいミュージアムではこれがないと、上手に回れないし、もちろん内容理解が難しい。ここにも日本語はなかった。この国ではロシア語、英語、ドイツ語が普通で、これにフランス語とスペイン語が加わることもある。紙のガイドブックでは中国語版が加わることが多く、日本語版は減りつつあるようだ。時代の流れで、今は中国人観光客の数は圧倒的に多い。日本人は日本人のツアーに入って観光するしかなくなってしまう。そういう観光ツアーの日程は短く、一人でゆっくりというわけにはいかない。ピークを越した日本国の人々は、グローバルな時代のサバイバル法を見つけなければ、どんどん取り残されてしまうのではないか?

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このロシアン美術館は名が示すように、ロシア人アーティストの作品を集めている。モスクワのトレチャコフ美術館のペテルブルク版である。その項で書いたように、同じ絵画がたくさんあった。トレチャコフで大急ぎで垣間見た名画をここでは、気ままに、時間をかけて見て回ることができた。

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最後にロシアのフォークアートの展示もあり、ヴォルガ河クルーズ中に見た19世紀のロシアの田舎の木工細工や赤糸を使った刺繍とかに、さらに1時間以上も使ってしまった。しかし今回が最初で最後のロシア旅行と思っているから、仕方がない。

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水餃子の店を探して

外に出たのは2時過ぎ、いつの間にかお天気は崩れ、雨がしとしと降っている。それに寒い。ランチはクルーズで一緒だったブラジル人母娘が教えてくれたペルメニという水餃子の店を探す。GPSで調べたところ、ロシアン美術館をさらに南に行ったところだが、タクシーを拾えないので、歩く。30分くらい歩いて、やっとたどり着いたレストランは全く普通で、ローカルの人が気軽にランチを食べるようなところ。しかもお目当てのペルメニはメニューに一つしかない。スープに入っているもので、4センチの白い水餃子が12個くらい入っていて、刻んだディルがかけてある。これがモンゴル人支配の時にもたらされたものかの判断は難しかった。悪くはなかったが、30分も雨の中歩いてくる価値はなかった。値段はたった150ルーブル、約250円。まあ仕方がない。外に出ると、雨はまだ降っていて、タクシーは捕まらないから、また同じ道を歩いて引き返す。途中で気がついて、iPhoneのGPSを頼りに、右に行くところ、左に曲がって、ネフスキー大通りに出る。お土産物や、毛皮屋、本屋、などを覗いて、温まりながら、宿にたどり帰る。今晩の待望のオペラを前に、少しお昼寝をする。

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待望の新マリインスキー劇場でのオペラ鑑賞

6時ごろ、隣のレストランで夕食を食べ、タクシーでマリインスキー新劇場に行く。古い劇場も有名だが、この新劇場は2014年に完成したばかりで、評判はすごくいい。今晩の出し物はヴェルディの「アッティラ」。私はこのチケットをインターネットで1ヶ月前に購入した。1週間前に始まったホワイトナイト・フェスティバルの一部で、プログラムが発表されたのは、5月半ば。いつもパリや、ナポリやミラノのスカラ座のチケットを買うインターネットのサービスでは取り扱いがなく、マリインスキー劇場のウェブサイトに入って、口座を開けて、メールアドレスを残し、発売と同時にメールを貰い、購入が可能だった。こうしたメールとクレジットカードでの購入には神経を使うが、ヨーロッパについで、ロシアでも信頼できるウェブサイトがあると知るのは、嬉しい。旅行の可能性が広がる。
この新劇場、そのウェブサイトで写真を見て、これはマスト・シー(Must
See)と決める。だがプログラムの発表が1ヶ月前というのは、どういうことか?驚いたことに指揮者はあの有名な、新マリインスキー劇場建設プロジェクトの主役、ワレリー・ゲルギエフだった。ヴェルディの「アッティラ」は東欧が東からやってきたフン族に攻められる話だが、ロシアがモンゴルに攻め込まれたことと状況は似ている。

新劇場の内装

マリインスキー新劇場は新しいだけに、まだどこも光り輝いている。一番の特徴あるデザインは、入り口を入って、階段を上っていくと、オーディトウリアムを囲む湾曲した壁全面が赤っぽい黄色のオニックスで囲まれているデザイン。薄い板状のものらしく、裏から光が照らされているので、全体黄色に輝いている。オニックスは日本語で縞瑪瑙という自然石。木の年輪のような縞、または細胞血管模様があっちこっちに入っていて、それがまた美しい図柄になっている。

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始まるまで15分、まずは英語のプログラムを100ルーブルで買う。さらにギフトショップがあり、覗くと、人でいっぱい。記念にと人々はいろいろ物色している。スカーフや人形、オペラグラスにカード類。私は山盛りになった人形の数々から、赤いトンガリ帽子をかぶったお腹が出たピエロの飾り(クリスマスツリー用?)を買う。何かとてもロシア風に見えた。
席についてプログラムを開いて今晩のキャストを見ると、何と、アッティラを歌うバスはイルダー・アブドラザコフとある。ニューヨークのメトロポリタンオペラで私は彼のプリンス・イゴール(これも南からトルコ系に攻め込まれるお話)を観て、すっかり気に入ったバスだった。ボロディンのオペラでロシアのプリンスをこの格好いいロシア人が歌ったのだ。その次のシーズンではフィガロをも歌った。本筋より100年くらい現代にしたプロダクションで、いつも燕尾服を着た彼は現代風フィガロがよく似合っていた。

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オーディトウリアムの中は全て木製。ロスアンゼルスのディズニー劇場の中もそうだったことを思いだす。あそこはフランク・ゲイリーの設計で、使っている木はカリフォルニア産のレッドウッドだった。ここは普通の木色のウッドで、周りの壁、床、チェアーの背もたれの後ろに同じ白っぽい木が使われている。この方が音響効果はいいだろう。席数は3,500でほとんど満員。ほとんどロシア人のようだ。舞台もそう大きくはない。

舞台装置は効果的にミニマリスト的にデザインされていた。両袖から真ん中奥に背の高いブロックのようなものがいくつも並び、シーンによって、それらが移動する。アッティラを歌ったアブドラザコフは素晴らしかった。風貌も体躯も立派な武将らしく、声もよし、歌ってよしだった。ソプラノはこの役には少し、年がいきすぎているし、声は悪くないが、高いところから、急に低くなると、声の質が全く変わって、台無しだった。

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終わったのは夜10時20分。外はまだ明るい。ここまで送ってくれたタクシーが外で出迎えてくれている。オペラの時はこういうアレンジメントがいい。ゆったり余韻を楽しみたい。暮れていく空を見て、ホテルの前でタクシーを降りてから、モイカ川を渡り、宮殿広場まで歩いていく。暮れかけた半球の空をバックにエルミタージュ、冬の宮殿を後ろからカメラに収める。

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ホテルに戻って、寝る前に目覚ましを朝3時15分にかける。日の出を見るためだ。念のため、カーテンを半分開けて寝ると、3時ごろ目が覚めてしまった。空は真っ暗ではない。着替えて、暖かく着込んで外に出る。3時30分。その日の日の出は3時32分と、私のiPhoneの天気予報サイトが教えてくれる。外はまだ薄暗いが、宮殿広場の方に歩いていくと、反対側の道には結構の数の車が走っている。バイクもいる。広場を横切ってネヴァ川に出ると、そこにかかっている橋が勝鬨橋のように開いている。すぐに思いだす。

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交通主要地にかかった橋の多くははね橋になっている。それぞれ開閉する時間が決まっている。この冬の宮殿の前、対岸のクンストカーメラに向かう橋は日に2回開閉し、朝は3時半に閉まる。その閉まる時に出くわしたのだ。ラッキー。その瞬間をカメラに収め、ネヴァ川沿いを歩く。ぐるっと回ってホテル近くに戻って、振り返ると、宮殿の屋根の上の空が、日の出で真っ赤に染まっていた。赤い雲がむくむく湧き上がっている。カメラのシャッターを押し続ける。雲はどんどん姿を変え、色も真っ赤から、徐々に青みを帯びてくる。

プーシキン・ミュージアム

朝9時すぎに起きて、急いで、シャワーをして、身支度、荷造りをして、隣のレストランで朝食をとる。そして10時に開く、隣りのプーシキン・ミュージアムに行く。すでに20人ほど待っていた。ここでもオーディオセットを借りる。ツァーは最下階から始まる。今回の旅の前の私はプーシキンはアフリカ人の血が入った詩人というくらいの知識しかなかった。予想に反して、彼は真のロシアのヒーローである。ロシアのシェークスピアと呼ばれる。トルストイよりもドフトエフスキーよりも国民に好かれているようだ。アフリカ生まれの彼のひいおじいさんは、トルコ戦争の時、ロシアの軍人に買われ、ペテルブルクに来る。ピュートル大帝の目に止まり、宮廷に入る。ピョートルに気に入られ、フランスで正式な軍人訓練を受け、帰国、そのあとロシア人のお嫁さんを世話される。1799年生まれの3代下のアレキサンダー・プーシキンになると、肌は白く、混血には見えない。髪は少し縮れている。彼は貴族の子弟として、教育を受ける(エスカテリーナ・パレスの近く)。早熟で、早くから文才に長けていて、その書物が思想的に左寄りで、現政府に批判的ということで、コーカサス辺りに島送りになる。その後、文豪として活躍するが、名高い美人の妻に対する中傷の名誉挽回の為の決闘を受け、撃たれ、数日後に死ぬ。

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この家は彼の人生の最後3年間の過ごしたところ。エルミタージュの宮殿には、歩いて5分の場所である。小さめの家で、私たちは地階から2階の家族が暮らした部屋を見学できる。食堂、応接間、ミュージックルーム、子供部屋、書斎、ベッドルーム。最後の部屋には彼のデスマスクが展示されている。ここでもロシア人の見学者が多いのに驚く。帰ってから、彼の作品のいくつかを読む。一番有名な短編小説は「大尉の娘」。これによって、19世紀のロシアの僻地の生活がしのばれる。またオペラになった「ボリス・ゴドノフ」「スペードの女王」「ユージン・オニーゲン」の原作。それに未完成作品「ピュートル大帝のニグロ」はエチオピアから連れてこられたひいおじいさんの話。とても興味深い。また映画「アマデウス」で有名になったモーツァルトとサリエリの葛藤の物語の元となったそのタイトルもズバリ「モーツァルトとサリエリ」という戯曲も書く。

エアフランスで帰国

11時タクシーで飛行場へ。これで楽しく、冒険的なロシア旅行は幕を閉じる。
帰りはエアフランスのパリ経由でニューヨークに帰る。帰りもペテルブルクとパリ間の3時間にシャンペーンと細長い箱に美しく入った西洋弁当(前菜にパスタ・サラダとデザート)とホット・サンドイッチのランチを楽しむ。旅の楽しみは限りない。

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帰国後追記#1

ニューヨークに帰ると、メトロポリタン・オペラハウスではアメリカン・バレー団の公演中だった。評判を呼んでいた出し物は「ゴールデン・コッカレル(黄金の鶏)」というリムスキー・コルサコフ作曲のバレエ。プロダクションはデンマーク王室バレエのもので、その振り付け、コスチューム、舞台セットで評判になったもの。プログラムを読むと、お話の原作はこれまたプーシキンだった。舞台セットもコスチュームもあのオーサムな赤が基調のロシア調で素晴らしかった。

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追記#2

アイゼンスタインの名画「イワン雷帝」では、そのコスチュームの豪華さの目を見張る。それは歴史検証がされたものだと信じる。しかし、美男、美女の俳優たちが皆、長いつけまつげをつけているのには、ちょっと首をかしげる。無声映画時代の男優のよう。マトリョーシカのカワイ子ちゃんたちも皆、長いまつげのメークアップ。これはどういう現象なのだろうか?スラブ人は目が小さいからだろうか?

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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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