なぜ踊るのだろう?
高見麻子14回目の御命日に
ダンサーが自分に問いかけるとき、それは自分とはどういう者なのか、なにが好きで、どうしてこの世に生まれたのだろう、なにをしていきたいのだろう、次の人生があるとしたら、いったい何をこの生からの贈り物としてもっていくのだろう、という根本的な人生の問いとなっていくように思う。
私にオディッシー舞踊の扉を開けてくれた、師、高見麻子(1960-2007)は、まだ20代で踊り始めた初期のころからはっきりと書いている。
踊ることは「一生をかけて学ぶもの」である。職業というよりは、もっと私と密接なものだ。もっと重要なものだ。師匠、グル ケルチャラン モハパトラは、芸術、美の究極に人生を通して近づいているのだ。私はその永遠の真髄ともいえる究極を私自身、歩んでいきたいのだ。そこには、コスチュームも飾り物も照明も大きな舞台も必要ない。私が目指しているのは、舞台芸術ではなく、私個人の真の芸術だ。(麻子の20代のノートより、当時62歳のケルチャラングルジーを訪ねた折)
インド古典舞踊も舞台芸術として学ばれているので、エンターテイメントと隣り合わせになっている。いっぽう、お寺で神様に奉納されてきたという踊りの原型もある。麻子が大切にしてきた踊りは、スピリチュアルな道としての踊りだ。ふたつは薄いがはっきり区別された層で分かれている。
最晩年、2007年5月のこと、麻子はあるバラタナティアムの大家と再会した。シュリランカ出身のシャマラ モハンラージ師がサンフランシスコベイエリアを訪れ、踊りを披露した。そのとき麻子はかなり具合が悪く療養していたが、公演に行くことができたのだ。シャマラジーはバーラサラスワティの高弟だった。シャマラジーのドキュメンタリー映画を観ると、踊りのスピリチュアリティを大切にしていることがよくわかる。ステージで踊る前に踊り子は、よく気持ちを落ち着けて、捧げることに集中するように昔は教えたそうだ。(シャマラジーは2015年7月14日に74歳で逝去)
麻子のノートより。
2007年5月13日
昨夜のシャマラのパフォーマンス、行ってよかった。アマラとマイティル、ありがとう。
小さなステージは、ろうそくとお花で飾られ、飾り布が後ろの両脇にかけている。最初のガナパティの音楽が終わると、幕の影からシャマラが出てきた。緑のブラウスに黄色いサリーを着て、幕の中央に立ち、目はまっすぐこちらに向かって開かれている。
と、ふわりと顔が和らいでゆっくりと笑った。微笑んだと言うべきか。その微笑みは,作り笑いや媚びたものとは全く違っていて、気高く、慈愛に満ちあふれ,
「ようこそ。」
と、これから私たちの行く世界に誘っている女神のそれのように思える。その微笑んだ顔がすっと元の表情に戻ったかと思うと、その首がかすかに左右にリズムとともに揺れだす。動いているのかいないのかわからないような微妙な動きでありながら、すでに踊りが始まっているのだ、とわかる。
一曲、また一曲と、短い物語を読んでいるように、物語が語られる。すらりとした細い肢体、長い腕。細面でほほ骨が高く。
どう考えても、60代だと思う。それが、表情を操るうちに彼女の顔から年齢が消える。その大きな目には輝きに満ち溢れて、少女のようになってしまう。
ーーー それが踊りだ。その踊りを習っていたときに体がタイムスリップするんだ。何度も見た。そういうの。
とにかく、“存在感”につきる。若いとか、年とってるとか、きれいな顔してるとか、太ってる、やせている、大きなステージ、いい照明、生演奏、録音音源など。
ーーーー 「踊りが観る者の胸を打つ」というのは、そんな物から完全に超越したところにある、
と私はいつも思う。
シャマラの手がすっと上がる。右手が、左の腰あたりから斜めにまっすぐ右上にあがる。一曲のうちに何度もその振りが出てくるのだが、何度見てもおんなじで,というのは、その速度,始まりから終わりに至るまでの行程(?というのか)が、同じところをたどる。力みのない、それでいて、いさぎよい勢いに溢れている。
1998年か1999年の春,私はチェンナイのシャマラの家で、なんと「Krishna ni begane」を習った。なんと、というのは、この曲がバーラサラスワティの十八番で、この曲はほとんど誰も教わってない、という曲なのである。私はバーラが歌ったこの曲が大好きで、習うんだったらこれしかない、と思って行った。
縁を結んでくれたムクンドの祖母サヴィトゥリ ラジャン氏と家族のみなさまに感謝している。そして、私がバラタナティアムのダンサーじゃないってこともあり、
「まあ、別にこの日本人に教えたって毒にならないだろう。」
と思ってくれたのかもしれない。
毎回、クラスに行って彼女の足に挨拶をするたびに、彼女がバーラにチャネリングするのを感じた。彼女の合掌の姿の美しさは、それが本当に合掌の威力を発揮しているからである。形だけでない、彼女の魂と直結していてそれが流れ出てくる、ところなのである。
踊るたびに、私の内側で麻子の声がこだまする。
田中晴子 11/3/2020
photo: Toshiko Takeuchi