20年前に投げられたバトン

20歳くらいの時、「記録」をすることに異様に執着する時期があった。

記録媒体は写真やビデオ。
映す対象は、学校までのいつもの登校通路、
家の台所の深夜2時、
いつものリズムで階段を下りる足音、階段のきしみ、
朝、山鳩の声で目が覚める南向きの窓から差し込む光、
居間でご飯食べた後にくつろいで話す母の横顔

私の生活圏の軌軸であったり、家族が対象であることが多かった。


私が残したかったものは、なんだろう?

今、激烈に対象物に感じている、この感情、思い。

私しか感じていない世界。残したいけど、目に見えないもので
どうしたら、どうしたら、どうしたら残せるのか、刻み込めるのか
瞬間冷却保存できるのか、まだ違う、これではない、と毎回思いながら
せめてその対象物を残すことに努めた。

対象は物であったり、人であったりした。

私は残したかったのは、今しか存在しえない関係性だったのかもしれない。

関係性は目にみえないし、
変わっていくし、消えていくとわかっていたから。


私と対象物、人の間にある移ろいゆくものや、私の意志とは関係なく、どうしようもなく変化していくもの。


じゃあ何故そこまで執着したのか。
それはきっと私が不安定だったから。

今、私が属している世界への執着。今の私を構成している、要素のひとつひとつがなくなってしまったら、私はどうなるんだろう?
私を取り囲んでいる、私が感じている世界が変化していくこと、消えてしまうことへの恐れ。

思い返すと、当時の私の不安定さが
ひりつくくらい、身の回りを記録することへの執着を生んだのかも、と思う。


安定した自我、軸をしっかりと持つことは
流行りかもしれないし、自分の強味を売ったり買ったり値引いたり
「これが私です」と大々的に看板を掲げられることは、確かに必要だと思うが、不安定さが生み出すものもある。


ひりひりとした世界の最中にしか見えないものがあるし、
ゆらぎの感性の中でしか生まれないものもある。
それは生きるという観点からみると一種の充実感ともいえるかもしれない。
後から振り返って思う。

渦中を過ぎたから、今こうして冷静に分析できる。
ああ、私はどうしようもなく変化していくもの、移ろいゆくものを、どうにかして残したかったのだなと。

20年以上経て気が付いた。
その時の行動の意味なんて、当時者にはわからないことが多いかもしれない。

でも意味が分からない行為でも
抑え込まずに、どうしてもやらなくちゃだめなんだ、なんかわかんないけど、そうしたいんだ、必要なんだと、
ちゃんと私が認識したこと、そして
多少なりとも行為に移したという事実は
誰にみせるでも、説明するでも、得をするわけでもないことをしてくれてありがとう、と今の私を温める。


20年前の私が、分からないながらも
生まれる衝動、執着をせき止めずにをいてくれたから、20年を経て、ようやく今の私が言葉にできる。
投げかけられたバトンを受け取ったかのように。
よく分からないものを全力で投げてくれた
当時の私に感謝したい。


そして記録をすることへの、ひりつくような執着がなくなった今
あの時間を少し羨ましく思う。


https://ameblo.jp/haretahi12/entry-12672872181.html

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