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自分から逃げないために、日本から脱け出した

私が日本を出たのは19歳の夏でした。在日コリアンとして、セクシャルマイノリティとして、このままこの国にいてもどうしようもないと直感していました。自分がどう生きればいいのか、答えを導き出せるような学問の分野は日本の大学にはほとんど無いし、本当の自分のままで真っ向から勝負できるような舞台も技量も無かったのです。支えてくれる家族も友達もいたけど、それだけじゃ通用しない、この社会では大して遠くまで行けない、とは分かっていました。

どんなに頑張っても「普通」にはなれない自分が、「普通」の目標を持っても仕方ない。自分にしかできないことをやるしかない。小学校を卒業するまでには、ぼんやりとそう気付いていました。初めは、割と漠然とミュージシャンを目指すことを答えとして思春期を過ごしていたのですが、高校生の頃には何をするにしてもひとまず日本を出るしかないと確信したのです。海か大陸か一つ分くらい距離を置かないと、余計なもので感覚が鈍って窒息しそうでした。文化も言語も違う環境で、一から自分を創造し直すことが、願望というよりはむしろ生き残るために絶対に必要だと体感していたんだと思います。

日本の学校がイヤすぎた

教育はずっと滋賀の公立学校で、特に塾やら英会話やらに根気よく通ったこともなく、家族は関西弁オンリー、誰も英語も朝鮮語も話せませんでした。それでも、中学生の時には洋楽のロックやパンクを毎日聴いて歌って、自分でも辞書を駆使して英詩を書いていました。中3で初めて訪れたアメリカで思ったより自然に周りの英語が理解できたことを覚えています。高校時代は電車通学の途中などにハリーポッターの原書を夢中で読んでいたので、アメリカの大学のウェブサイトを見て独力で留学の情報収集をするのには苦労しませんでした。両親から海外の高校に進学することを一度提案されていたことと、何人か留学経験者から直接話を聞いたりしていたので、ごく自然な流れだったと思います。しかし実際には留学に憧れるというよりも、日本の生きづらさのほうが数倍強かったのは確かです。

小さい時から周囲の大人の期待に応えるのが得意だっただけに、何かできないことがあってがっかりされるのを苦痛や恥だと感じるように育ったと思います。それが、思春期を迎えるとあえて期待を裏切る振りをするようなひねくれたコドモになりました。優等生に見られるのがイヤで、数学の勉強を完全に放棄したり、先生が手を焼きがちな同級生と積極的に友達になったり。教師の間違いを見つけたり真っ向から反論したりすることを密かな悦びとする、本当にクソ生意気な中学生ですが、日本の教育思想も制度も全く肌に合っていないことにうんざりしていました。社会科の教師が「日本は単一民族国家ですから…」と言い放った時には、「じゃあアイヌ民族はどうなんですか」と言い返さずにはいられなかったような生徒です。大人の思い通りに育つのは癪に障るけど、本当は誰よりもすごいことを成し遂げたい。独立心を養いつつ、物事の本質を見極める練習をしていたんだと思います。

母は大卒ですが、父は高卒なので、そもそも大学への憧れも必要性も感じて育っていません。進路なんか別にどうでもよくて、滋賀県でトップ2、3位ぐらいの高校を選ぶことで、適当に折り合いを付けたつもりでした。「とりあえずこの程度の高校にでも入っとけばみんな納得するやろ」と思ったからです。もともと大学進学する気も無かったのに進学校に入ったので、受験勉強に当然のように立ち向かう周囲のクラスメイトとはすぐにズレを感じました。模試やら大学見学やらの学校行事も、自分にとってはとことん時間の無駄で、そもそも文系と理系に分かれて授業選択をするということに違和感があったのです。英語はもちろん、古典も化学も好きでした。

別に大学は行ってもいいかなぐらいには思っていたのが、はっきりと日本の大学には行きたくないと感じたのは、まだ15歳の頃です。初めて受けさせられた高1の模試で、授業は全部英語で行われるという早稲田の国際教養学部にA判定が出た時に、受験そのものがアホらしく感じました。これから3年間何を目標にして夢中になればいいのか。数学が必要な国立大はD、E判定でしたが、大学名も専攻分野も、示された選択肢の中から選ぶということに何もときめかなかったのです。このまま日本の大学に行っても絶対に満足できない、むしろ潰されてしまう、と予感しました。「入るのは難しいけど卒業は簡単」という日本の大学では間違いなく物足りなくなる。反対に「入るのは簡単やけど卒業は難しい」というアメリカの大学で、本気で勉強したくなったのです。同級生がみんな大学受験に向けて準備を進める中で、私は高2の1学期には既にアメリカに大学留学することを決めていました。

3年掛けた脱出準備

アメリカの大学に入ると決めてからは、単純に高校の成績で入学の可否が評価されるということで、わりと真面目に授業を受けるようになりました。英語は1年生の時に英語科の先生から「お前はもっとできんのに、なんでやらへんねん」と言われてから、ムキになって毎週の小テストまでみっちりこなしていた上に、2年生の時にALTとして配属になった日系アメリカ人の先生がイケメンで、放課後の個人授業まで頼み込んでいました。一番嫌いな数学も、2年生で最後の微分・積分のテストで94点を取ってから丁寧に縁を切り、高校卒業時には評定平均で学年2位でした。誰も留学の進路指導をしてくれる先生がいなかったので、見返してやろうという気持ちもあったと思います。

ただ、卒業してすぐ大学に入る準備はできていませんでした。当時バイトしていたスイミングコーチの仕事が楽しくて、もっと続けたかったのです。シフトを増やして稼いだお金で、学校生活から解放された生活を満喫していたと思います。具体的にどこで何をするかも決めあぐねていました。期待に応えるのは簡単やけど、自分は本当は何がしたいのか。音楽よりも、実際にもっと緊急の課題に向き合う必要があるはず。

両親には直接カムアウトさえしていなかったものの、二人とも全然問題無いことは分かっていたので、これはもう、LGBT運動の本場のサンフランシスコに行ってセクシュアリティやクィア理論を学ぶしかない、と覚悟を決めました。当時は、オランダを初めとして片手で数えるほどの国でしか同性婚やパートナーシップ制度が確立されていませんでした。それでも、フェミニズムを土台として、セクシュアリティ研究は欧米の大学に浸透しつつあり、副専攻として開設している大学もネットでちらほら見つかったのです。

私は学問と同時に運動の現場経験を得たかったので、中学時代から好きだったバンドがサンフランシスコ出身ということもあり、最終的にサンフランシスコ州立大学という選択肢一つしか思いつきませんでした。自宅にインターネットが無かったので、情報収集も出願も、全部バイト先のパソコンから自分で行い、入学許可通知を受け取りました。後で知ったのは、アメリカの高校生も滑り止めを含めて複数の大学に併願するのが普通らしいです。TOEFLも問題無かったので、書類審査が通らないというシナリオは想像すらしてなかったと思います。

2006年8月18日、高校卒業から1年5ヶ月後、ようやく私は関空から日本を脱出しました。留学を決意してから既に3年が経ち、満を持しての渡米だったと思います。

いよいよ本領発揮

それからは水を得た魚のように経験と実績を積みました。英語を磨き、課題をこなし、サークルを立ち上げ、学生寮のスタッフとして働き、SF市内のNPOでボランティアに関わり、他の大学やプロの運動家とも交流し、社会学に没頭し、在日コリアンの仲間と出会い、日本の社会運動と繋がり、コリアン・アメリカンのコミュニティに参加し、クラブで遊び、ボーイフレンドを何人も作り、失恋も乗り越え、ありとあらゆる宗教やジェンダーや民族やセクシュアリティや社会階級のバックグラウンドを持つ友達を作りました。気が付くと4年が過ぎ、社会行動科学部を首席で卒業していました。誰の期待に応えることも裏切ることもなく、自分のやりたいことにだけ熱中する機会を与えてもらえたことには、本当に感謝しています。留学費用の何倍分も濃密な経験をしようとあらゆることに首を突っ込んだのは、やっぱり関西人の「元は取ってなんぼ」の根性かも知れません。

22歳の時に生まれて初めて出会った在日の仲間たちとは、Eclipse Risingという団体を設立して、アメリカを拠点に社会正義と民族解放の活動を行ってきました。東日本大震災の直後には、日本多文化救援基金を立ち上げ、米国内で募った義援金を被災した移住労働者や高齢者、シングルマザー、障がい者、朝鮮学校の方々に送りました。最近では、旧日本軍の元従軍慰安婦の記憶を伝える像を、慰安婦正義連盟のメンバーとして2017年にサンフランシスコ市に寄贈し、その後の関連活動でも中心的な役割を果たしています。名前も国籍も日本人なので、それまで自分が朝鮮人だという自覚はあったものの、民族意識としては薄いまま育ったと思います。やはりセクシュアリティの問題の方が身近で緊急でした。サンフランシスコに来たことでこの仲間と出会い、ゲイとして、在日として、自分の「才能」をフルに発揮できる場所を見つけられたことは、日本を抜け出して一番良かったことだと断言できます。

大学を卒業した後10年間は、さらに学問を究めるため、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで修士号を取り、ニュージャージー州最大の公立大、ラトガース大学で博士課程を始めました。(偶然にも高校時代のイケメンALT、ギブソン先生はラトガース卒でした。)韓国にも3週間語学留学に行き、2年間ほどニューヨークにも住んでみました。これまで出版した論文は5本ほど、大学講師歴は6年になります。研究と教育、どちらも賞を頂くほど成長できました。現在は博論も仕上げの段階に入っていて、2021年の5月に社会学博士として卒業予定です。

研究テーマとしては、アメリカを拠点とするコリアン系の平和・統一運動について、在日として自ら携わりながら、特にLGBTのメンバーが草の根で培っている影響力のポテンシャルに焦点を当てて分析しています。この活動を通じて、これまでアメリカ各地のコリアンコミュニティに仲間を作り、2011年には共和国(北朝鮮)への訪問団にも参加しました。自分を含めて、既存の民族意識や国家体制からは排除されてきた朝鮮系の移民や子孫が、全く新しい民族統一の方向性を示している。家父長制や資本主義、人種・階級差別を正面から批判し、「国家」「民族」「主権」などの概念そのものに疑問を投げ掛けるこの研究は、今後の刊行を前提にいくつかの大学出版社と交渉中です。

これからやりたいこと

今後は学術界の組織や体制から少し距離を置いて、大学教授ではなくフリーの研究者・教育者・アドバイザーとして活動を広げていきます。10年もアカデミアに身を置くうちに、自分が大切にしていた直感や独立心、瞬発力と好奇心が鈍りかけていたと思います。LGBTや在日コリアンなど、自分の所属するコミュニティに貢献するのはもちろん、自分と世界の在り方について逃げることなく悩み抜くための知識と能力を必要とする人たちに、理論と実践のヒントを投げ掛けていくことが私のミッションです。

同業の研究者・教育者だけでなく、人権活動や社会運動に携わる方、国際問題に興味のある方、学ぶということと真剣に向き合う高校生・大学生・社会人の方、あるいは留学など次のステージへの道しるべをお探しの方など、お互いに感化し合えるたくさんのご縁がありますように。どうぞよろしくお願い致します。

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