2021.2.14 差別とどうやって立ち向かう?

森会長にまつわる云々の中で、もやもやしていることがあるので言語化に挑む。

おそらく文中で、攻撃と取れるような表現も出てくるだろう。

でも、本意はそこになく、むしろこのもやもやを同じように抱いているかもしれない誰かにとって一歩前にすすむ足掛かりになってくれることを願う。

問題の整理

森会長の発言の一部である、「女性は話が長い」という点について、色々と思うところがある。

問題の根本は大きく分けて2つあるように思う。

「女性」という言葉で多くの人をひとくくりにしたこと、
そして、発言が誰かを不快にすることへの想像が足りなかったこと。

時代がどうとか、
切り取ったからどうとか、
そういうのは副次的な問題であって、

やはりこの「女性は話が長い」という一文だけで、十分問題と言える。

それはつまり、どこで誰がどういう文脈で言ったとしても、
上記のような「ひとくくりにしたこと」と「想像が足りなかったこと」への責任は負うべきだ。

彼の立ち位置からして、副次的に色々な問題へと発展しているが、
根本はこの二つだろう。

(これらの根本的な問題について、後ほど深く掘り下げたい。)

まず整理したいのは、
彼の立ち位置について、
そして発言が問題視されたというその点について。

少なくとも、オリンピックの責任ある立場の人間が口にすべき発言ではなかったのは、誰の目にも明白だ。

でも例えば、この発言が「タクシーの中で話されたこと」だったとしたらどうか。

つまり、発言が「公に発されるもの」と認識できなかった場合、ということ。

私がここで問題提起したいのは、
いつでもどこでも発言に責任を要求されるのはしんどい、
ということ。
これは誰にでもご理解いただけるのではないだろうか。

「女性は話が長い」という一文が、一生のうち口からこぼれ出てしまう可能性について、いちいち怯えるのはおかしいと思う。

そこで想定される反論としては、
「そういう根本理解があるから口から出てしまうのであって、根本理解が間違っていることに問題がある」
という意見だ。

もっともだ。

でも、一つ冷静に考えると、こう考えることもできる。

ある理解において「間違っている」ということを、
一体、誰が断言できるだろうか?

ということ。

「女性は話が長い」というのはもちろん、全くの偏見である。
疑いようもなく失礼な物言いで擁護する猶予はない。

しかし、
人間の認識において「間違う可能性」を排除することは不可能なのではないか?

暴論であることを承知で言うが、
もしも仮に何十年後の科学的見識において、
生物学的に女性とされるホモ=サピエンスは、
日常の集団会話を短く終わらせることができない傾向にある、
というデータが出るとしたらどうか?

そういうことを言っているのではないことは分かっている。
が、私はそう言うことについて言及してきたい。

価値観の変化

人間の認識において「間違う可能性」を排除することは不可能なのではないか?

それは色々なレイヤーにおいて現出する論題なのだが、

例えば時代について。

いわゆる「老害」という差別用語が存在するが、
老害とは、時代の変化についていけず硬化し、かつ態度を改めない存在、
というイメージを圧縮した言葉である。

もちろん「態度を改めない」ことが問題であるのに加え、
概ね若者や弱者に対し「高圧的なスタンス」をとることも問題とされがちだ。

問題の本質は「態度を改めない」ことと「高圧的なスタンス」が問題であるにもかかわらず、その利便性と殺傷力の高さから「老害」という言葉が使われる。

「老害」はなぜ老害になってしまったのか。

色々なケースがあるだろうが、
一般的な分析としては「時代についていけない」ことが大きい問題とされる。

価値観というナマモノは、時代とともにガラガラ変わる。

見聞きする会話での推論になってしまうことを許して欲しいのだが、
「女性は話が長い」という発言が「許されていた(とされる)らしい時代」というものがあったとする。
「老害」は、そうした時代に「最適化」した人生を送ってきた。

ここまでは悪じゃない。

そして現在、
「女性は話が長い」という発言が「許されないらしい時代」になったとしよう。
「老害」は、この変化に適応できなかったという。

この点だけにおいてまず議論すると、

例えば50年後、60年後、
仮想現実の実生活化がどんどん進み、
我々が暮らしている地球上から、
バーチャルの世界へ実存からして移住できる科学が実現したことを想像して欲しい。

私たちはその時、70歳や、80歳だとする。

ある日、誰もいなくなって荒れ朽ちた公園で、
一人、カップヌードルをすすっていると突然、
ワームホールが目の前で開き、
「旧現実界」にある少年が不時着する。

驚いている老人の前で少年は服の埃を払ってこう言う。

うっわ、こっちの世界に間違ってきちゃったわ〜。
え、何、この旧老害、なんかヒモみたいなの食ってる。キッモ。

そしてその様子が「新現実界」で瞬く間にライブ中継、拡散され、即座に炎上してしまう。

なぜか。

それはどうやら、「ヒモの権利を主張する諸団体」からの抗議が殺到したのだという。

全くわけがわからない。

そして話は2021年に戻ってくるのだが、
これほどまでに価値観が変わった世界に、
果たしてついていくことができるだろうか?

私はついていける自信がない。

ここで言いたいのは、
「価値観の変化についていけないことは絶対的な悪であると言い切れない」ということ。

そして、「老害」という言葉もまた、差別であるということだ。

言葉の絶望

人はコミュニケーションの中で言語を生み出し、発展させてきた。

それは情報の圧縮精度をより高めることへのやむなき探求の歴史でもある。

哲学はずっと、「生きる」「死ぬ」「宇宙」「自然」などの、不可解な現象に対峙し、どう言語化するかについて頭を捻り、言葉を受け継いできた。「我思う、故に我あり」という境地に達するために費やしたデカルトの人生時間、かつソクラテスから繋いできた思想の長きバトン。これをたったの一文に凝縮するという圧縮率、言語化というのはそれだけで大いなる発明であり、究極の遺産なのかもしれない。

しかし同時に、デカルトの人生や思想、ソクラテスからデカルトまでの時間の全てを、この一文から読み取り、取り扱うことは不可能だ。

言葉にはそういう悲しい性質がある。

朝日

という人単語でも、人がそれぞれ違うイメージを持つだろう。

ただ、朝日のイメージをめぐって起こる論争など聞いたことがない。

それは朝日に自我がない(と、今日ではされている)からであり、
もし朝日に意思があれば話は別だ。

2月1日に登った朝日と、
2月2日に登った朝日、
それらは違う意思を持っているかもしれない。

そして1日の朝日はこう言った。
僕が姿を現すと、人間が有り難そうにこっちに拝んできて、すごく気分が悪かった。僕に勝手なありがたいイメージを持たないで欲しい。僕は引っ込み思案で、本当はみんなから見られるのは嫌なんだ。惑星の軌道のせいで・・・。

そして2日の朝日はこう言った。
雲が厚い。地表では雨が降っているらしい。それは私のせいではないのに、なぜ私に文句を言うのですか? 朝から暗くて気分が悪いって? 知りませんね、言うなら雨雲に言うべきです。大体、朝日というのは根暗な性格なんです。明るくて当然だなんて、イメージの押し付けはやめてください。

私たちは、朝日とどう議論すべきだろうか。
できるだけたくさんの朝日たちを土星の輪っかに呼んで、
そこでみんな並んで意見を言い合う必要があるかもしれない。
私たちは日頃の朝日へのイメージを改める必要がある。
毎朝見られると思っていた我々の方にこそ、問題があったのかもしれない。

ちょっと例が飛躍しすぎた。

犬で例えたらどうか。

「犬」という言葉。
従順なイメージ。肉食で、毛が多く、独特の体臭に、エサを前に垂らすヨダレ。
犬がしゃべったらどうか。
SNSで発言できたらどうか。
テレビで抗議するかもしれない。
政治に躍り出て、犬の権利を守る運動を起こすかもしれない。

「女」という言葉。
どんなイメージをお持ちですか?

犬と女を並べるのは失礼でしょうか?
どうなんでしょうか?

「男」という言葉。
どんなイメージ?

言葉がそれぞれに歴史を歩み、背負ってきたイメージ、
それぞれの環境の中でかわされ、流通して生まれた価値。

言葉は圧縮されたものであり、
同時に、情報を取りこぼしてしまう悲しいものでもある。

言葉に対して、人によって色々なイメージを持っているということ。

それは近年の爆発的多様化の中で正当化され、正義を獲得してきた。

同時に、この圧縮の際に取りこぼされた情報へも、目を向ける必要が生じてきたのだと思う。

言葉に対して、人によって色々なイメージを持っているということは、紛れもない絶望だ。

イメージとはそのまま「意味」へと直結する。

同じ言語を使いながら、それぞれに違う意味をさしながら会話する・・・

その会話は成立しますか?

成立しないはずです。

会話とはそもそも、本当の意味では成立できないものなのでしょう。

つまり、ここで言いたいのは、

「言葉が通じないのは万人にとっての絶望である」ということ。

時代や社会の変化によって変化する意味やイメージのその前に、
前提として立ちはだかっているのはこの絶望だ。

ある言葉に込める意味が人と異なってしまうこと、
ある言葉で受けとる意味が人と異なってしまうこと、
それは拭ようもなく言語人間において遍く起きる絶望のことである。

これは決して、森会長の発言擁護を補強するための言説ではない。

むしろフラットに議論の場を開くための前提として、皿を置く前に敷くテーブルクロスのように広げておきたい絶望の共有なのである。

ひとくくりにするという罪

言葉とは、ひとくくりにしてしまうものである。

それは時に罪となる。

それゆえ、想像以上に大きなものを対象として話してしまうことがままある。

そのことについて、私たちは一体、どこまで自覚的でいなければならないのだろう。

例えば前述の朝日の例や新現実界について考えれば、
それはあまりに無謀な拡大と回収であることは理解に易い。
しかし「犬」を例に取ると少し考えるべき命題であるような気がしてくる。

つまりきっと、「言葉でひとくくりにすることの罪の有無について自覚的でいるべき範囲」というものは、非常に曖昧で、環境や社会、によって漸次変化するものである。

価値観の変化、というものなのだろう。

ここで先ほど述べた「価値観の変化についていけないことは絶対的な悪であると言い切れない」ということを思い出す。

合わせると、「言葉でひとくくりにすることの罪の有無について自覚的でいるべき範囲を誤認しまうことは絶対的な悪であると言い切れない」ということになる。

言葉でひとくくりにすることの罪と罰の線引きは、各々に委ねられている。

そしてまた、言葉というものはそもそも多くのイメージを孕んでいるものであり、同時にすくいきれない意味を生んでしまうものであり、こうした齟齬は万人にとっての絶望である。

言葉という通貨でコミュニケーションをしているにもかかわらず不利益を被ったとしても、それは双方にとっての損失であるとも換言できそうだ。(やや暴論だが)

でも、言葉でひとくくりにすることは、どう足掻いても罪になり得る。上記のような暴論が通ったとしても無罪放免とはならない。

それは大きな矛盾だ。

やはり、言葉の担い手同士、それぞれ「感情」があり、「意思」があり、環境を操作したり、あるいは適応したいという「欲求」があるから。それが、フラットな視座の獲得を困難にさせる要因だろう。

ある男性が「女性は話が長い」と発言することで、

「女性」と自認する全ての存在を対象に「話が長い」という、発言男性の主観的感情によるイメージが上乗せされる。

この段階ではまだ問題は発生していないはずだ。
なぜなら、「人はそれぞれに言葉にイメージを持ち」「時代の変化に遅れてしまうことは罪ではなく」「言葉に齟齬が起こるのは万人にとっての絶望」だから。

しかし、

この発言が当該の女性に「届く」ことで問題が起こる。

それは「女性」側が抱いている女性自身の、また「女性」という言葉へのイメージとの齟齬が解消されていないという問題だ。

ここでもし、発言を受けた対象に「反論の場」が開かれていれば、それは各々の自由で発言すれば良い。そこにもし「男性」や「老害」への差別発言が含まれていたとすれば、その時々で再精算して議論をすればいい。

(あの場が、女性が反論できる場だったのかどうかは、客観的には計り知れない)

ただし、「女性」という大きな対象に対して放たれたこの発言は、いかにして「全ての自称女性」に反論の場を開くことができよう。それは不可能だ。(とりわけ日本は議会制民主主義なので。)

つまり、今、多くの人々が反論していることは全く議論の途中であるというだけのことであり、かくいう私も今、こうして自分の考えを文字に起こしてまとめようとしているのであり、その議論に参加しているのである。

森会長が向き合うべき自身の罪とは、単に「女性という言葉でひとくくりにしたこと」にとどまらず、「反論の場が開かれていない/開かれる可能性がないにもかかわらずひとくくりにした罪」なのだと私は思う。

もう一歩踏み込むと、

反論の場が開かれる可能性がないという「想像に至らなかったこと」。

これが根本的な問題だ。

想像が足りないことの罪

どんな鳥も、想像力より高く飛ぶことはできない。

寺山修司の言葉だが、
これは単に想像力の素晴らしさだけを語っているのではないように私は思う。

想像というものには際限がないということ、その無限性についても、リア・プロジェクションで映し出しているように感じる。

想像はどこまででも膨らませることができる。

ここでは、想像力が足りないことの罪について述べるが、
逆説的に、我々はいつでもその罪を背負いつつあるという絶望についても述べることになる。

想像が足りないなんてことはいつでも起こりうる。

事故や忘れ物などのアクシデントは、大体が、考えて入れば防げたことが多いだろう。

人を傷つけてしまうことも同じだ。
相手の気持ちになることさえできれば、不用意に傷つけるなんてことは起こらない。

仮に「あえて」相手を傷つけることに意図があったとしても、その方法が果たして最善なのかどうか、考える余地はもう一歩前の段階であったのかもしれない。

仮にそれでも「あえて」相手を傷つけることを選んだとしても、本当の本当にそれで今後のお互いの人生が全て円滑に進むための最良の方法なのかどうか、冷静に考えることはできるかもしれない。

今日はうまくいっても明日は?

しばらくうまくいっても10年後は?

来世では? 地球の環境は?

このようにして、人はいくらでも想像の範囲を拡大することができる。

つまり想像なんて、いくら想像しても足りる時など来ないのだ。

人間を相手に考えるとすれば、地球上70億人全ての感情や個性と向き合って想像しなければならないことになってしまう。

であれば、想像が足りないことへの罪を問うということなど、本来、あってはならないのではないか?

どこまで想像すれば想像が足りたことになるのか。

想像は、止めることでしか止まらない。つまり、想像者の「意思」が関わってくる。

もう少し、想像についての想像を深めてみよう。

想像が想像を呼ぶ。その度選択肢が増え、その選べなさの前に立ち尽くし、無限の絶望の度が高まっていく。

しかしある時、「これでいいんだ」と思える/思い込めるだけの状況(感情・精神・環境・社会などの要因)によって、どれか一つを選択=有限化する。そうすることでしか一歩を踏み出すことはできない、絶対に。一度想像の風船が膨らんだら、あとは空気を抜く(有限化する)か、破裂するのを待つ(放置)かどちらかだ。放置している間も人間の思考は続くので、選択肢は増え、無限の絶望は高まっていく。

想像力とは、コントロールできなければ恐ろしいものでもある。

コントロールというのはつまり、「選択」のことであり、あるいは「最適化」「省略」とも言えるだろう。

例えば環境によって選択肢を狭める、つまり最適化するとか。

例えば以前考えたことについて再考するのを省略するとか。

増えすぎた選択肢を減らすということは、無限の絶望に処方できる唯一の薬だ。

自己肯定感とか、生きてるだけで奇跡とか、
こういう、よく聞く言葉が必要になるくらい、現代人は生きることへの問題提起を拭うのが難しい。

自己啓発本が売れるのは、端的に言い表された=圧縮率の高い言葉が大きく売り出され、スポンジのように開かれた私たちの心の穴に、鋭く突き刺さってくるから、それゆえ信憑性を持ち、多くの人にとって核心的なメソッドだと「勘違い」されるからだろう。

これはもちろん、選択肢が増えすぎた私たちへの処方薬として提案される有限化の一例である。断捨離、ミニマリスト、ルーティン、ビジネス哲学、それぞれの分野で生きる人々に最適化し圧縮された言葉が提供されているにすぎない。モノが足りなくて困っている人に断捨離は響かないし、不労所得で一生食える見込みのある人にビジネス哲学は不要だ。

これも言葉の持つ悲しい性質の一側面である。

無限に開かれた「可能性」を、閉ざして狭める「選択」が時と場合によっては救いになるということ。

つまり、「想像してしまったあれこれ」を「忘れる」ことが救いになるパターンもあるということ。

これこそが、想像を止めるということ、そしてその「意思」なのである。

いくら想像しても足りる時など来ない。
だから絶望で破裂する前に自分の「意思」で想像を止める。
それは防衛のために、生きるために必要なスキルだ。

もっというと、自己という一つの生命体を社会の中で生かすために必要な能力だ。

でもやはり、想像が足りないことは罪なのである。

なぜなら、社会で生きているのは自己という一つの生命体だけではないから。誰か/何かが被害を被ったとき、そこに正当性がなければ加害者に責任が生じる。意図的に被害を与えることは言うまでもなく罪だが、意図せず被害を与えてしまった場合も、被害の事実が消えない限り、加害者には責任が生じる。

この「責任」こそが「想像が足りないことの罪」なのだ。

でも、想像が足りるか足りないかなんて、誰が決めることができるだろう。法律では、そこを裁くことができない。だから裁判というシステムの中でそのバランスを取ろうとするのだが、果たして真の意味で正しいバランスなどあるのだろうか。

想像なんて、いくら想像しても足りる時など来ないのだから、
想像が足りないことへの罪を問うということなど、本来、あってはならないのではないか?

でもやはり、想像が足りないことは罪なのである。

これは大きな矛盾だ。

これでは、罪を救いとして甘んじる人が続出してしまう。
まるで収入がなくて万引きし、留置所で暮らすことを望むような。
しかしこういうケースは悲しいが、よくある。
誰にでも起こり得る。

これこそが、我々がいつでも背負いつつある、想像に関する絶望である。

我々は毎秒、自責の念に駆られながら生きている。

そこから自分を救えるのは、想像を止めるということだけだ。

我々は「想像を止める技術」を誰から学ぶ?

学校教育ではむしろ、想像の枝葉を広げることが美徳とされる。

あきらめる方法を、我々は誰からも教わらない。

だから宗教やルーティン、自己啓発本や週刊誌の見出しの「切り取られた言葉」たちに救われるのではないか?

この構造には何の罪もない。

むしろ、美徳という圧縮からこぼれ落ちた人々にとっての受け皿だ。

つまり、想像が足りないことがすなわち罪になるのではなく、「想像の正しい止め方をわからないこと」が、この罪の核心なのである。

芸術的なスキル

想像のブレーキが壊れてしまうから、変なところで急ブレーキをかけたり、ブレーキがかからず園児の列に突っ込んだりしてしまうのだ。

私はこれを単に、教育の問題に押し留めたい訳ではない。

先ほど「時代」について述べたのと同様、ブレーキの有りようも時と場合によって変化してしまうからである。

自転車のブレーキと飛行機のブレーキが同じ機械でできていたらどちらかが困るのと同じように、
それぞれにあったブレーキが必要だ。

雪道ではブレーキに加えて、チェーンを巻くなどの措置も必要だ。

人の想像も同様に、あの手この手を使って、その場その場で「最適化」した行動をとる必要がある。

無限に拡大する想像の枝葉を、
時に大胆に、時に繊細にハサミを駆使し、
芸術的なセンスで盆栽に仕上げる剪定スキルが常時必要ということだ。

これが、現代人に求められる根本的な生活スキルだ。

断言する。

芸術的なセンスで盆栽に仕上げる剪定スキルが常時必要。

これはあまりにも絶望的すぎやしないか。

前提に辿り着くまでに途方もない分量を要したが、
ようやく本当に言いたいことが見えてきた。

つまり、私がここで言いたいのは、

要求されるスキルが高すぎるということ。

そして、

それを持ち合わせていない人間に罪を問うことは正しいのかどうかということ。

私が懸念してやまないのは、

こうした発言の炎上が起こるたびに、

一部の過剰な反応によって形成される空気が、

後に引けないほどの膨大な量の新しいマナーを作り上げ、

それに適応できない人々が、

次から次へ脱落していく社会がすぐそこまできているということ。

人は集まって生きればそりゃ、色々な問題が起こるだろう。
みんな違うんだもの。
その度議論が起こる。それはいい。

でも果たして、その議論の中で自分が発した言葉がどこに向かって進み、

どんな道を切り開いてしまうのか、

よくよく考えた方がいいよと私は言いたい。

みんなが同じだけ可能性=絶望=想像力を持っている。

同時にそれぞれにとっての圧縮=選択=あきらめが必要だ。

言葉は万能じゃない。

言葉はテレパシーじゃない。

言葉は間違う。

言葉はナイフだ。

言葉は死なない。歴史とともに生き続ける。

言葉は通貨に過ぎない。

そして、人は生まれながらにして平等で自由な権利を持っているのであるからして、同時に裁き合う権利を持っている。だがそれは乱用していいという免罪符ではない。

言葉が氾濫してコントロールできないことは誰にでも起こりうる。

言葉とは人そのものであるから、つまり人は自身そのものをコントロールすることが容易でない

憎むべきは私たちの間に横たわっている、これらの絶望的な「問題」であって、その解決に向けた建設的な議論をすべきだ。

口撃を受けた時に、私たちはどう立ち向かうべきか。

大いなる齟齬と矛盾と絶望を抱えあった他者同士の間で、果たして真に平等で健全で建設的な議論とは起こりうるのだろうか。

森会長の放った言葉、
その「言葉」に込められた悪意だけが問題なのでは決してない。

私たちの間にある圧倒的な分断と、分断が助長され、修復不能な段階まできているこの社会そのものに究極の問題があるのではないだろうか。

そして、高度で高速な社会の変動や、膨張する可能性地獄に「適応できない人々」が、不器用な諦め方をしていってしまうのが非常に心配だ。

私たちはいつでも誰でも、どこにいても、罪を背負いかねない。

だからといって全ての罪が無効になると言いたいのではない。

そこに目を向けつつ議論しているかどうか。

その議論もまた、一つの圧縮であり、取りこぼしが必ず生じることへの罪の意識を背負わなければならないということだ。

この罪は誰に赦される?

「この罪」が何を指しているかを明確にしよう。

森会長の発言に対する罪、
それはつまり、想像が足りないことの罪であった。

しかし、想像が足りないことの罪を問うことは不可能だ。
であるにもかかわらず、ある種の圧縮を用いで断罪するということはすなわち、また取りこぼす何かが生まれるということだ。

そして、この取りこぼしはまた別の問題を生むだろう。

「この罪」とは、そのことである。

例えば、森会長のケースで言えば、
発言で傷ついた当該女性(女性と自認する全ての存在)は、名誉毀損などの罪で、日本の法律によって裁くことができたとしよう。(思考ゲームとして)

よってこの裁き自体は、法のもとで行われるのであり、法に守られる。つまり赦される。

そしてこれは判例を生み出す
つまり社会のルールを一歩変えるということだ。

それはつまり、「女性は話が長い」という文章が法律で禁じられるということになる。そのこと自体に私個人的には特に異論はない。

少々飛躍するが、
先ほどの例で挙げた「旧現実界」の「ヒモの権利」を思い出してほしい。

「カップヌードルを公衆の面前で食べるということはヒモの権利を侵害するものである」とされ、法律で禁じられたとする。

その時私たちはどう感じるだろう。

価値観が揺らぐ事件になると思う。

まあ、こんなことは起こりえないし、論点のすり替えとも言える。

でも、こういうことを私は考えたい。

「法律によって私権の制限が一つ増えるということ」についてだ。

何度も言うが、「女性話長い論」を支持したい訳でも、その反論に対してポリコレを投げ返したい訳でもない。ただ単に、法律が個人の権利を制限することのへのシンプルな恐怖感を感じるのだ。

陰謀論や軍国化懸念に繋げたいのではないが、
現に我々の知らないところで法律はどんどん変わっていく。
気づかないうちにカップヌードル禁止法ができていても驚くまい。

その時日本の人々は立ち上がれるのだろうか?
国会前で「カップヌードル食わせろ!」と叫ぶ若者たちを、白い目で見る人々の姿が目に浮かんでしまう。

私もその時、考えると思う。自分の人生にとってカップヌードルは必要か、不要か。

でもこれは、極端な例なのであって、日々刻々と私たちの権利の姿は変わっていく。

今は「法律」というレイヤーでの話をしているが、わたたちを毎日縛っているのは必ずしも法律だけではない。「空気感」と言うものに私たちは大きく左右される。

「女性は話が長いって口にしちゃいけないんだってね、息苦しい世の中だよ。」

で終わらせないためにはどうしたらいいか。

それを考える必要があるだろう。

なぜなら彼はきっと、今あげた例と同じように「私権を制限される」としか思っていないのだから。

これまで上げてきたような根本的な問題、横たわる絶望、これからの社会への懸念など、話あうべき議題は腐るほどある。

腐ってこっちが死ぬ前に、むしろ殺し合いが起こる前に、
腐る原因を根本から変えなければならないのではないだろうか。

そこには果てしない努力と、絶え間ない想像、可能性への絶望、諦観を乗り越えた先にある闘争が待っている。

それはつまり、選挙ということなのではないか?

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