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「非日常」という“空間”が自分を保つ

「日常」と「非日常」がこの世界を分けるならば、「非日常」を貪欲に追求したい。


資本主義上に成り立つぼくたちの「日常」は、歳を重ねるに連れて生きづらさを感じる。

人間関係に苦しみ、自身のキャリアに悩み、時間に追われる窮屈な日々が「日常」を形作っている。

勝者に脚光が当てられ、勝つためのハウツーが世の中に溢れることで、過程を伴わない結果主義の温床になっている。

ただ一方で、結果を追求して過程を組み立てていくことは面白いし、人間関係やキャリアを時間という有限性のある中でもがきながら築くことも楽しい。


とはいえ冒頭で述べた通り、ぼくは「非日常」を好んでいる。

「非日常」は文字通り「日常」ではないことで、「日常」で良くも悪くも煩わしさのある事柄が排除された“空間”だ。
「日常」に存在するあらゆる事柄を忘れ、頭から足先まで身体と脳も全て没入すること。

これが「非日常」であり、他者からジャッジされることもなく、正解のない素晴らしい“空間”だ。

ぼくは具体的に「非日常」を大学4年目にして見出した。
①サッカーをする、観る
②読書(ネット記事も含む)
③映画を見る


そして何よりサッカーを本気ですることから離れつつある今、“サッカーをする”ことは自分にとって、とても大きな「非日常」だと気付いた。

失って気づくものとでも言っておいても良いかもしれない。

これはただサッカーをしたい、試合をしたい、ということではなく小さな瞬間に賭けたいということ。

この気づきは、やっと最近言語化できるまで整理出来て、こうやって端的に書けている。

ここまでの内容は、下記に添付する以前書いた内容とは別軸にあり、上書きされたわけではない。

最後に、「日常」ありきの「非日常」なので「日常」が嫌いなわけもなく否定をするわけでもない。ただひとつ自戒を込めて言うとすれば、「日常」に縛られて生き急ぐことはしたくないということ。

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