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何色にもなる可能性が今日にはあるのに大人はそれを忘れてしまうから

夏に人が情緒なく消費した気配が残る、誰にも忘れられた秋の海が好きです。夏の海に行けなくなったかわりに秋の海の良さを知れたのは収穫。秋の旅が一番。

大人になるとだいたいの人は生き方の幅が決まっていくから「ねぇまた?」と言われることを繰り返すようになる。自分にとっては進化したり新鮮な出来事のつもりなのだけれど第三者からするとカテゴライズとしては同じで「ねぇまた?」なのです。こんなの好きじゃないし興味すらないと拒絶したくなる環境に無理やり押し込まれでもしないと、ねぇまた?からは脱出できない。

知らない自分を知りたくて、知らない自分を知らないまま死ぬのがこわくて、違うことを経験してみたくてたまらない。期間限定で派遣仕事とかアルバイトとかやってみたいなとたまに思う。1年に1回は思ってる。でもきっと楽しいのは2日目までで、3日目には飽きて、4日目には遅刻して、翌週にはお給料いらないからもう辞めますって言い出す未来が確実。

今年、夏の間だけ慣れない服装に変えて、それをコスプレと呼んで楽しんだ。そうしたらたかが服なのに見える景色が違うし人の対応も変わるしいいこともあったし嫌な思いをすることが増えたりもして、服装を変えるだけで人生の流れが変わるものかとしみじみ思った(そういうことを書いて発信しているくせにね)。あいにくコスプレには3ヶ月で飽きたのと嫌な思いをすることが増えすぎたので元に戻したけれど、友達からは「社交的に生きたほうがいいからあのコスプレに戻しなよ」とちょっとだけ怒られた。

慣れ親しんだ自分から脱却したほうがいいことはたくさんあるのだと思う。そうでもしなければ知らない自分を知らないまま。元に戻ろうとするのが人の本能だから、そうやって指摘してくれる人がいないとまた私は非社交的な服装しかしなくなる。きっと同じ様に、少しのプライドやこだわりを捨てることで毎日がガラッと変わることは他にも山ほどある。

もっと自由にたくさんのことを選びたい。あいにく今日という時間は1回しか生きられない。朝起きたら今日のプランを3種類から選べるくらいの可能性はいつでも持っておきたい。本当は今日の生き方なんて3種類どころか無限にストーリー立てできるのだから。仕事なんて行かずに、今から旅の支度をして秋の海へ泳ぎに行ったっていい。遠くの誰かに会いに行くこともそのままそばにいて永久に帰ってこないことも1分で帰ってくることもできる。時間が引き起こすなりゆきの出来事なんかに楽しみと未来を頼っていたら、人に与えられた可能性の2%しか生きないことになりそう。ねぇまた?にならない何色にでもなれる可能性が今日にはあるのに大人はそれを忘れてしまうから、私はそれを忘れたくない。