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 別れを告げたとき彼の影を盗んだ。
 彼の影と生活するうちに私が欲しかったのは彼自身ではなく彼の影だったのではないかと思えてきた。影は声を出さない。静かに私のそばにいる。私を傷つけることもなく私が誰を傷つけることもない。平和な日々。影は私に何も望まず、私も影に出来ることを心得ているから不可能なことは始めから望まなかった。時には影の存在を忘れ、時には影と一緒に眠った。影を彼から引き離すことに成功した瞬間から私はとても楽になり、同時にさみしくなった。今では、自分は影を大切にすることしか出来ない人間なのだと理解しつつある。
 彼は影を奪われたことにも気づいていない。彼の影は私が作り出したものだから当然だ。彼がそれを失って困ることはない。私は彼を触媒に影を生みだしそれを自分に帰属させた。正確なところは分からない。もしかしたら私が彼から引き剥がしたと認識しているだけで影は最初から私についていたのかもしれない。ただ影を意識出来るようになるために彼から引き剥がすというイメージが必要だっただけで。いずれにせよ、全ては自分の中だけで起きていることだ。人は自分の思い込みから抜け出ることは出来ないのだから。反応の前後で触媒自身は変化しない。他人は触媒に過ぎず、変化させることは出来ない。他人との関わりの中で変化させられるものは自分の居場所だけだ。自分が動くことは出来るが他人を動かすことは出来ない。至極当然のことだが勘違いしがちなことでもある。
 自分の望むように変わってくれるのではないかという期待。まず報われることはない。相手が思った通りの人間でなかった時、選択は二つしか無いように思われる。関係を見直すか、自分が相手を受け入れるか。
 プラトンの『饗宴』で言われているような「魂の片割れ」は自分に適合する他人のことだ。男と女、男と男、女と女で一つだった人間が神の怒りを買い切り離された。最初から一つだったのだからぴったりと当てはまる。本当にそんな他人が存在するのだろうか? 科学的には信じがたい。まさにおとぎ話だ。
 私は自分に都合の良い彼の一面を影に蓄える。嬉しかった言葉やしてくれたこと、楽しかった思い出、幸福を感じた瞬間。それらは彼からは切り取られ私の持ち物になり影の食事になる。影は私にぬくもりをくれるが、私はそれさえも自分が作り出したものだと自覚している。自覚は孤独と同居している。おとぎ話を信じる気持ちにもなれず、かといって自分が変わることも出来ず、付き合ったり別れたりを繰り返している私の諦観と停滞。他人は私のそばを通り過ぎ、過去から手を振るイメージをもたらすだけの存在に過ぎないのか。影は何も言わない。ただそばにいて、私の問いに頷いている。

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