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2022年10月3日 月曜日


 家から車で10分ほどの距離に山と田園が見晴らせるカウンターに座り心地の良いソファが並ぶ落ち着いた雰囲気のカフェがある。平日なら空いているだろうと思いブレイク・スナイダーの『SAVE THE CATの法則』とノートと万年筆を持って日暮れに出掛けた。店に入るとカウンター席の奥に若い男女が並んで座っている。一緒に来ているのに二人して黙って自分のスマホを眺めている。電車で隣り合う他人のようだなと思いつつ私は入り口近くの一番手前の席に座りメニューを眺めた。声の小さい気弱そうな店主がオーダーを取りに来る。夕方だったのでカフェインレスコーヒーとベイクドチーズケーキを頼み、本の続きを読もうと開いたところで高齢の男女が店に入ってきた。70歳過ぎと思しき男性は店中に聞こえる声量で話しながら店に一つしかないテーブル席に腰かけた。二人とも注文を済ますとまたもや男性が大声で話し出す。どうやら二人とも絵を描く人間のようで、絵について話している。
「僕はね、絵というのは娘みたいなものだと思ってるんですよ。例えばあなたが大切に育てた娘が二十歳になった時に男性があなたの娘をくださいと言ってやってくる。あなたはとても良い娘に育ってくれたからあげたくないとは言わないでしょう。とても良い娘に育ったから男性にもらわれていって嫁ぎ先の家を明るく照らしてくれたらという気持ちで見送るでしょう。絵が売れるというのはそれと同じなんですよ」
「その通りですね」
女性は相槌を打つが私は首を傾げてしまう。もやもやしたものが墨汁を零したように胸の中に広がっていく。娘の幸せや娘の意志は存在していない男の幸せのみが尊重されている世界の話をしているようにしか聞こえない。女性の人生は男性のためにあるわけではない。女性は男性を支え家庭を守り明るく照らすために生まれ育てられるわけではない。子は親の「作品」ではない。人は誰しも自分の幸福の追求のために生きていい。親が子に願っていいのは子の幸せだけだ。憲法第十三条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあるように娘も個人として尊重されるべきだ、親や男に人生を決められることなく。絵を娘に例えるのは娘に人権を認めていないのと同義だが、無自覚に行われる道具然とした扱いにかつて娘であった高齢女性は「その通りですね」と答えていた。女性に対する人間性の否定はこのような形で親世代から子世代へと自覚なく再生産され続けるためにいつまで経っても女性は望んでもいない役割を強いられ続け、自由や個性から遠ざけられている。(社会構造的な制限はあまりに自然に引き継がれ文化に溶け込んでいるので不利益を被る女性自身無自覚に受け入れて疑問を抱くことなく次世代へと引き継いでしまっている。)
 絵はペーパーナイフと同じく目的があって生み出される。つまり本質が実存に先立つ。しかし、人間は違う。実存が本質に先立つ。この会話の中で女性は誰にも(同性である高齢女性にも)人間扱いされていない。シモーヌ・ド・ボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と的確に皮肉ったように、女性は男が作る社会の中で「女」にさせられ道具のようにあらゆる役割を担わされている。男が思う存分個人として振る舞っているその横で私たち女性はいつも「女でいる」。
 この会話を聞いて最近読んだ漫画の印象的な場面を思い出していた。『作りたい女と食べたい女』という細部に配慮が行き届いた真摯で誠実な良漫画なのだが、第一話で料理が好きで弁当を持参している女性に同僚の男性が「いいお母さんになるなって思って。俺も彼女には弁当作ってもらいたいななんて笑」と言い、その発言に料理好きの女性が(自分のために好きでやっているもんを「全部男のため」に回収されるの、つれ~な~~)とショックを受ける。(しかしここでも女性は男性に何も言い返さない。)このようなことは日常茶飯事で、自作料理の写真を男に送ろうものなら「今度作って」と当然のように言われる。図々しいにも程がある。男性諸君にはくれぐれも身の程を弁えていただきたい。
 それから結婚した知人のほとんどが当然のように夫の姓に改名したことや夫の実家近くに引っ越していった(嫁いでいった)ことなんかを考えた。あと女友人の「女なんか好きな男のために自分の子供を殺せるんだから。男が出来たら男が一番になるよ」という発言も。(私自身は全く同意しかねるが。)
 女性は男のために存在しているのではない。好きな男に尽くすことが女性の幸せだと思ったら大間違い。
 日本はまだそんな当たり前のことをわざわざ言わなければいけないレベルなんだなと痛感させられた。異を唱えなければ賛同と受け取られてしまう。いじめを傍観しているのは黙認しているのと同じことだ。黙っている(そもそも「人間」扱いされていないことに気づいてすらいない)女性が多すぎるのも問題だ。
 高齢男性は向かいの女性に店中聞こえる声量で気分よく自分の考えを話し続けている。「女性らしい」高齢女性はまるでクラブのママかホステスのように愛想のいい相槌を打ち相手に気分よく話をさせている。男性がここは払うから、と申し出るとそんな、申し訳ないですと一度遠慮してみせ、いいからいいからと立ち上がる男性にありがとうございますと言って華を持たせる。よく見る形式、最早一つの型と言って差し支えない。接待料だろう。男性が支払いを終えると「貴重なお話をお聞かせいただいてありがとうございました」と慇懃に礼を言って店を出た。


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