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きぼうの光

 今日の午後5時55分、南西の空にきぼうの光が見えると理科の先生が言うのでそれを見るためだけに部活に行った。特別何がなくとも部活中はもっぱら空を見上げているから、グラウンドにいればきっときぼうを見逃さない。
顧問は驚いた顔でわたしを見た。けれど見ただけで、声をかけたり気にかけたりはしなかった。いつも通りグラウンドを2周してから輪になって準備体操をする。部長の掛け声とみんなの雑談が寒空の下に広がる。足はどう、と隣の同期がささやくように聞いた。悪くない、とわたしは答える。
「よかった、じゃあもう飛べるんだね」
安堵の表情で言う彼女に、
「まだそこまでは」
と正直に答えると申し訳なさそうに
「そっか」
と言って神妙な顔になった。わたしは騙したようで心苦しくなる。それと同時に、悪くない、というのは最悪の時に比べれば、という意味だと心の中で言い訳する。嘘は言ってない。たしかに今は、最悪の時よりは、悪くない。
先輩も後輩も久しぶりに顔を出したわたしにどう声をかけたものか分からないようで、部長の困っている様子に気がついた同期がストレッチをしているわたしに駆け寄って聞いた。
「練習、どこまで参加する?」
もう日が暮れていて、薄明の空に黒くなった山の輪郭がぼんやりと溶けていく。薄墨を零したような空の低い場所に宵の明星が控えめに輝いている。
「今日は様子見で出てきただけだから練習には参加しない。はしっこで自主練するから、わたしのことは気にせず練習始めてって部長に言って」
「分かった」
それだけ言って走っていった。
 闇に紛れてみんなの姿がどんどん見えなくなっていく。声と騒がしい足音だけが離れた場所から聞こえる。自分の身体を見るのが精いっぱいだった。11月の下旬にもなると日暮れが早く、空気は冷たく、授業が終わると一瞬で冬の夜になった。動きを止めるとすぐに体温が下がって凍える。
 身体が冷えないようにグラウンドの隅を行ったり来たりとだらだら走っていた。やがて人影もグラウンドに並べたハードルも高跳びのマットもバーも、何もかも闇に飲まれて見えなくなった。
 星が綺麗だった。
立ち止まって空を見上げると泣き出したくなった。グラウンドの隅でただ身体を温めるためだけにひたすら足を動かしている自分がむなしくて、みんなの楽し気な声が羨ましくて、そこにいない自分が悔しかった。
 わたしはもう飛べない。少なくとも、昔のようには。
 あの時掴んだ空の青さは今や黒く塗りつぶされて、痺れるような冷気が足を止めた身体を一瞬で覆う。熱が奪われていく。光が失われていく。
空はあんなにも明るかったのに、蒼穹のゆりかごから落ちて宇宙の闇に飲まれてしまった。
ふと、視界の端に動く光を認めた。
「あ、きぼうだ……」
南西の夜空に強い光がゆっくりと流れていく。あまりに大きな光だったからすぐにそれが飛行機でも流れ星でもなく、きぼうだと分かった。慌ててみんなのほうを振り向くけど、片づけをしていて誰も気がついていない。どうしよう、叫んでみんなに教えてあげようか。迷っている間にも光はどんどん校舎の屋根をなぞるように弧を描いて流れていく。わたしは叫んだ。雑談している暗闇に向かって思い切り叫んだ。
「ねぇ! みんな! 空見て、きぼうが見える!」
ざわめきが止み、一人二人と声をあげた。やがてそれが歓声に変わっていく。反対側で練習していたサッカー部も足を止めて空を仰ぐ。グラウンドにいた誰もが上空をよぎる力強い光を見ていた。指をさす者もいれば、手を振る者もいた。
 きぼうは、想像していた何倍も光っていた。光り続けていた。ゆっくりと校舎の上を飛んで、だんだん見えなくなった。遠くへ離れていった。
 わたしの中にある言葉が浮かんだ。
 希望はずっとそばにいる。見えなくても、ずっと、わたしの周回軌道上を回り続けている。

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