431.あなたはこの世界に存在しているとみなされているのか?
コミュニケーションは知覚だ、とピーター・ドラッカーは説いている。
コミュニケーションは相手が知覚していることで成立する、つまりは”受け手がコミュニケーションを成立させている”といえる。
名著『マネジメント』で書かれている内容とのこと。
また、仏教の公案にこのようなことも書かれている。
「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」
答えは否。
音はしない。
音波は発生するが、誰も聞く人がいないとそれは音ではない。
これは言い得て妙である。
この世界の大抵のものは、人間が認識、知覚していることからそのものに価値付けされている場合が多い。(お金の価値がその代表格かもしれない。)
誰にも知覚されないと、それは存在していないことになる。
この世界は、世界を認識している人間が創り出した知覚の世界で、存在しているものだけを存在していると定義づけしているだけにすぎない。
この世界に存在するということ
仕事上、僕はブランディングに携わっていることが多い。
自分自身をどう発信しようか、この人をどう見せようか、あのお店をどうブランド化していくか、このサービスはどのような価値とメッセージを発信していくべきか……。
このご時世、個人法人有名無名問わず、発信していることが当たり前の世の中になってきている。
SNSは、もはやあなたの名刺代わりになってきているほどである。
例えば、こんな活動をしていますという人に出会ったとする。
こんな事業に取り組んでいますという会社経営者と知り合ったとする。
しかし後々インターネット上で調べてみて、何一つ情報が出てこない場合、その人がどれだけ良い人でも我々は思わず疑ってしまう。
この人の言っていることは本当なのか、と。
ニッチな世界だと有名な人もたくさんいることは承知している。
僕自身の勉強不足ももちろん否めない。
ただ、ほんの一部の人だけにわかればいいという仕事は少ないとは思っている。
わかりやすく伝えたいなら、まず何よりあなたが何者であるかが明確に捉えられることは必須だと考えている。
この世界に存在していますというのであれば、今や相対して会って話すことだけでは足りないのかもしれない。
不思議な世の中になってきたものである。
だから僕は、発信を続けている。
あなたは存在しているといえるのか?
さて、一介の会社員ではなくなり個人事業主として活動していて、今後法人化を目指している僕にとっては、自身が存在しているという発信は趣味を超えてもはや仕事と捉えるべき活動となっている。
果たして僕は存在しているのか?
哲学的な問いかけのようで、割と本質を突いているかもしれない。
自身の存在を証明するには、それも知覚する人がいるから成り立つのである。
誰かが僕の姿を見て、声を聴いて、対話をして、僕はこの世界に存在していると、他者を通じて知ることになる。
つまり、こんな事業をして、こんな会社を経営していますと言ったとしても、調べると何も情報が出てこない場合、僕の仕事は誰にも知覚されないこととなり、要するにこの世界に存在していないとみなされるわけだ。
あなたは存在しているのか?
それは何が知覚されて、存在しているとみなされるのか?
あなたの仕事は知覚されているのか?
何をやっているのかわからない人になってしまっていないだろうか?
その観点で形を作るのが、ブランディング。
それこそ個人法人、有名無名問わず、人生に必要だと感じた人が順々に、先回りして取り組んでいけばいいと思う。
一生懸命生きている僕やあなたは、紛れもなく、今そこにいるのだから。
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