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【短編小説】ノーシード

 「いませんね、1匹も」
医師の言葉に、拓哉の息が止まる。

まるい円の中は、雪原のように真っ白だった。
これまでの40年間の人生、自分の存在そのもの、全てが否定された気がした。

そこにいるはずの、踊るように海を泳ぐ数え切れないほどの生命体が1匹もいないなんて、想像さえしなかった。



ブライダルチェックを受けよう、と言い出したのは、5歳年下の彼女だった。

5歳年下、と言っても、彼女は35歳、拓哉は今年40歳になる。

彼女に出会うまで結婚になど一切興味がなかった拓哉にとって、「ブライダルチェック」なる言葉は初めて耳にするものだった。

彼女が見せてきたスマートフォンの画面には、性感染症検査、風疹抗体検査などさまざまな検査項目が並んでいる。

とは言え、この検査の最大の目的は、下世話な言い方をすれば、女は妊娠する能力を、男は妊娠させる能力があるかを調べることだった。

拓哉は快諾した。一部の男なら感じるかもしれない不安など、拓哉には一切なかった。

拓哉には、人には言えない過去があった。13年前の出来事がよみがえる。鼻にまとわりつく、ゆりの花の匂い。白い大ぶりの花びらから堂々と突き出しためしべの凹凸を、劣情さえもって思い出す。

もう名前さえ覚えていないあの子を泣かせ、顔も覚えていないあの子の家族を失望させた自分の体の奥には、何万匹の、どれほどまでに活力に満ちた命の源があるのかと思うと、わくわくさえした。

毎晩のように恋人を歓喜させている「あれ」の力を画像にして見せつけることができるなんて、楽しみでさえあった。

「じゃあ俺も、行ってくるわ」

軽い気持ちで答えて、拓哉はベッドに寝そべりスマートフォンをいじりながら、小さなテーブルに正座して雑誌を眺める彼女、枝野葉月の黒々とした髪の毛を見つめる。

こんな地味な女と結婚することになるとは、数年前の拓哉からは想像もつかない結末だった。

これまで付き合った女たちは、みんな明るい茶色に髪を染め、ラブホテルにまでヘアアイロンを持ち込んでせっせと巻いていた。

目の前にいる葉月は、長いストレートの黒髪をゴムで一つに束ねているだけだ。

結婚そのものよりも子供を楽しみにしているようで、「初めての妊活」などと書かれた雑誌をせっせと読んでいる。ブライダルチェックもそこから見つけたようだった。

同棲している1DKのアパートの部屋の隅には、東京には似つかわしくない、赤色のハイビスカスの鉢植えが飾ってある。ハワイ好きの拓哉の母親が実家の庭で栽培しているもので、鉢植えにして送ってくれた。恥ずかしくてすぐにでも捨てようとしたが、葉月は存外気に入り、熱心に世話をしている。鉢植えの根元には、ハイビスカスの和名らしい「仏桑華」と書いたプレートが挿してあった。

たくさんの女の子と付き合ったが、東京で育つハイビスカスにも笑わずに、毎日水やりして話しかけてくれるような優しい女の子は初めてだった。

「そんなに子供が欲しいなら、まずはやることやらないとな」

熱心に「妊娠」したがって雑誌を読む葉月に、拓哉はもよおして背後から抱きつく。葉月は35歳なだけあって、かつて20代の頃に抱いた女たちのような体の弾力はない。ふわりと溶けていくような柔らかさは、それはそれで魅力的だ。

「やだあ」

と、葉月は身をよじったが、服の下に差し入れられた拓哉の手を振り解くことはなかった。

部屋の明かりを消し、小さなシングルベッドで葉月を抱く。水の入った袋のようにゆるゆると落ちていく葉月の胸を、左右からかき集めるようにして揉みながら、拓哉は思い返している。

40歳になって、ようやく結婚を決意できた。これまで付き合った女たち、特に30代になってからは、それはもう、激しい勢いで散々と結婚を急かされたが、拓哉は断固としてうなずかなかった。結婚してくれないとわかると否や、女たちは瞬時に拓哉を切った。

未来が決まるのが嫌だった。

結婚してしまうと、これから先の未来ががんじがらめに固定されてしまう気がした。業務用プリンタの製造と販売を行う会社のいちサラリーマンとして人生を終えることなんか、あり得なかった。

これからあるかもしれない、輝かしい未来。転職したり独立したり起業したりして、ユーチューブやツイッターやインスタグラムで見るような、華やかな成功が、自分にもいつか訪れるのではないか。

今住んでいる、東京の端っこの1DKのアパートなんかじゃなく、湾岸のタワマンとかそんなとこに住めるような人生が訪れるのではないかと、漠然と希望していた。

その希望を叶える前に、結婚するわけにはいかなかった。そんなふうにして成功した自分なら、たとえ40代になろうとも可愛くて性格も良い女子大を出たばかりの20代前半の女の子と、出会って付き合って結婚できるのだから、焦る必要はないのだと思っていた。

馬鹿だった。自分でも、鼻で笑ってしまう。でも当時は本気でそう信じていたのだから、若さとは怖いものだと思う。だから女とは付き合いはしても、絶対に結婚だけはしなかった。35歳までは、それで全く問題なかった。

30代後半で、一気に風向きは変わった。

会社にも女にも、突如、見向きもされなくなったのだ。会社の愚痴を言い合う場所だった喫煙所が、いつの間にか子持ちの情報交換の場になっていた。会社内の女とも付き合っては捨てることを繰り返していた拓哉の噂は社内じゅうにとっくに広まり、結婚し子供がいる同世代の男たちは、そんな拓哉をあからさまに避けた。

行きにくくなった喫煙所から、「マルイチも廃盤になるらしい」「松浦は東部長とやり合って異動だって」など、メッセージツールでは共有されないようなオフレコ情報がうっすら聞こえてきて、拓哉は焦る。

ウロウロと会社の外の路上で煙草を吸いながら、かつて喫煙所の常連で、今では部長まで昇りつめた上司の言葉を思いだす。

「いい加減、落ち着け。結婚して家庭をもて。男は結婚して家庭を持たないと、一人前とはみなしてもらえない。時代は変わった。確かにそうだ。だが、家族持ちの連中を見ろ。あいつら、女房と子供の人生背負ってんだ。面構えが違う。いつまでもフラフラ遊んでる独身男より、あいつらに仕事任せようって、そりゃなるさ」

37歳が、明確な分岐点だった。会社から言い渡された異動先は、販促部だった。

20代前半は営業部、20代後半から30代前半は商品開発部。さあ、次は企画か広報あたりかと踏んでいたのに、まさかの販促部だった。

かつては自分が開発する側だった製品の、カタログやパンフレット、説明書を作ったりする部署の仕事など、ちっとも面白くなかった。数年前、ほとんど毎日会社に泊まり込んで作った拓哉渾身の製品が、あっさりと後輩たちによってリニューアルされているのを見て、拓哉は憤怒した。

「まじ、ないわ。あの設定、切るとかあり得ない」

後輩たちが作った新製品の仕様書を見て愚痴る拓哉に、販促部のメンバーたちは誰も同意してくれなかった。淡々と、各自の作業に取り組んでいる。時折、冷ややかな目線が送られるだけだった。

あれ? と、まるで倉庫のように薄暗い販促部の天井を見ながら、拓哉は思う。

このままでは、まずい。

これまで軽蔑してきた、仕事ができない、多くは独身で得体の知れない窓際おじさんたちの姿を思い出す。インスタグラムどころじゃない。あっちに行ってしまう。やばい、と拓哉は思った。

薄暗い販促部で出会ったのが、今の彼女、枝野葉月だった。葉月は中国語ができるとかで、中国版の説明書やカタログ作成に重宝されていた。

メガネをかけた地味な女で、異動したばかりの頃はあり得ないと思っていたのに、フォトショップの使い方を丁寧に教えてくれ、一人残業する拓哉を唯一手伝ってくれる葉月に、次第に心惹かれていった。

深夜まで残業し、一人でタクシーに乗ろうとする葉月を奥に押しやり、無理矢理同乗した。ぐいっと、体ごと隣による。これまで付き合った女たちは、みんな、こういう強引なことが好きだった。

特に会社の女なんかは、会社の同僚と、そうじゃない一線を超えるこの瞬間を大いに好んだ。好みの男だとかそうじゃないとか、どうでも良くなる瞬間。会社の人間なのに、というスリル。日常から非日常に飛び立つこの瞬間に、あいつらはひたすら飢えていた。

葉月もそうだろうと思った。拓哉の残業を手伝ったりするのも、二人きりの薄暗いオフィスを楽しみたいからだと、そう思っていた。

だから葉月が悲鳴を上げた時、拓哉は驚いたし、腹をたてた。

「なんですかっ」

葉月は叫んで、奥のドアを開けて逃げ出そうとする。拓哉は慌てて、葉月の手を握りしめる。

「え。嘘でしょ。俺のこと好きなのかと思ってた」

こういうのも、女は好きだった。これまでどの女も、飲み会のトイレでこう言えば、会社では寄せていた眉間の皺を解いて、相好を崩した。

「好きじゃないですっ!」

タクシーの運転手が、バックミラーを見ながら呆れたようにため息をついているが聞こえる。

「俺は好きだけど」
「嫌いです! きもいです!」

そう言った葉月の手を、拓哉はもっと強く握りしめた。絶対に、この女を落としてやると、タクシーのルームライトに艶々と反射する黒い髪を見ながら、猛然と思ったのだった。

付き合ってすぐに、葉月は「早く結婚したい」「子供が欲しい」と言った。昔ならうんざりしていたのに、なぜか今の拓哉にその言葉はすんなり届いた。

つまはじきにされた喫煙所の連中に、また仲間に入れてもらえるかもしれない。結婚して子供ができれば、会社の女たちを食い荒らした過去などなかったことにされ、まともな人間として再び受け入れてもらえるかもしれない。

まともな男としてのコースに戻る、ラストチャンスになるかもしれない。広報や企画で華々しく活躍する同世代の男たちの、女房だとか子供だとかの人生を背負っているらしい頼もしい背中を見ながら、自分もその一員になれることを拓哉は夢想した。

結婚や子供にほの温かい希望を抱く葉月と違って、あくまで出世の手段と考える自分を、拓哉は非道だとは思わなかった。むしろ、そんな自分を誇らしくさえ思った。葉月の抱く夢も叶え、自分の野心も叶える。そんな自分を、男らしくて格好いいとさえ思った。


だから、目の前に広がる真っ白な雪原を見た時の絶望は、言葉にさえできなかった。

会社帰りに、軽い気持ちで訪れたクリニックの医師は、淡々と言った。

「見当たらないんですよね、精子が」

かち、かちとマウスをクリックする音がする。医師は六十近い男で、拓哉の絶望になど全く関心がないようすで、パソコンを見たまま言った。

「男性側が原因の不妊も、よくあることです。不妊カップルの半数はそうだと言われています。あなたの場合はね、無精子性といって、射精された精液の中に精子がいない状態です」

「いない」

拓哉は、自分で確認するように、つぶやく。小さな声は、まともな音を形成しない。

「あのう、そんなわけ、ないんです」

拓哉の花に、ゆりの花の匂いがよみがえる。泣きじゃくる女。背後に塔のようにそびえ立つ、黒々とした仏壇。襖の向こうで、ひっそりと息をひそめる女の両親たち。

「もう一度、調べてもらえませんか」
「だいたい、結果は同じですよ」

面倒そうに医師が言うので、拓哉は思わずカッとなり、強い口調で言う。

「だって、昔」

言いかけて、やめる。とても人に言えるようなことじゃなかった。ダラダラと、前髪の隙間から水が流れ落ちる感触がして、思わず腕で額を拭っていた。



「ジャジャーン」

帰宅した葉月は、検査結果の用紙をテーブルの上に広げた。

「年齢が年齢だけに心配してたけど、何も問題ないって。安心したー」

拓哉は何も言えずに、黙ってテーブルの前に座っていた。葉月はさっさとキッチンに移動し、ガサガサと買い物袋の中身を開けている。

全く大したことではないように、それが当たり前であるように、葉月は言った。

拓哉の目に、滲むように、葉月の用紙に書かれた文字が歪んでいく。

「正常」「異常なし」。

ずらずらと並んだそれらの言葉が、自分には与えられなかったものだという事実が、受け入れられなくて、ただ座っていることしかできない。

「拓ちゃんも病院行ってくれた? どうだった」
「行ってないよ。忙しいんだから」

瞬時に答えていた。考える間も無く、口がそう言っていた。だってあり得ないことなのだから。あり得ないことを、言う必要なんかないと、拓哉は強く思った。

「あれ? 予約したのって、今日じゃなかったっけ?」
「なんか変な病院だったから。明日、別のとこ行ってくるわ」
「そうなんだ」

葉月はそれきり問いかけずに、キッチンで夕食の支度をしている。フライパンに火をつけ、まな板で野菜を切る音が聞こえる。しかしその背中が、何か言いたげな空気を含んでいる気がして、拓哉は気づまりでポケットのスマートフォンを取り出す。

無意識のうちに、ネットのブラウザにアクセスしている。

「男性不妊」、「無精子症」。

そんな言葉を自分が検索する日が来るなんて、夢にも思っていなかった。スマートフォンを持つ手が震えて、うまく言葉が打ち込めない。

「あ、そうそう。うちのハイビスカスちゃんいるじゃん。拓ちゃんのお母さんに聞いたんだ。受粉の方法」

コンロで何かを炒めながら、葉月は言う。

「受粉? なんで」

実家でハイビスカスを栽培していた母親が、黄色いめしべの先端にチョンチョンと綿棒で花粉をつけてやっていた光景を、拓哉はうっすらと思い出す。

「なかなかうまくいかないのよ」

母親は言った。事実、拓哉は実家のハイビスカスが種をつけたところを見たことがなかった。ハイビスカスは一日花だ。咲いたら、その日の晩には終わってしまう。

あんなに卑猥にめしべを突き出しているのに、受粉もできないで終わるなんて、虚しい人生(花生)だと、昔なら笑えたかもしれない。今は、笑えない。

「かわいそうじゃん」
「え?」

葉月の言葉に、思わず強い口調で問い返していた。葉月は驚いた様子で振り返り、わざとらしいくらい明るい口調で言う。

「一日しか咲かないのに、受粉できないで終わっちゃったら、かわいそうじゃん。種を作ってあげたいなあと思って」

「かわいそうかな、やっぱり」

声がうまく出なかった。

「え?」

葉月は聞き取れなかった様子で、フライ返しを持ったまま何度も拓哉に振り返る。

「受粉できなかったら、種が作れなかったら、やっぱり、それって、かわいそうかな」

そんなことない。
拓哉にフォトショップの使い方を教えてくれた優しい葉月なら、そう答えてくれるのではないか。一縷の希望にすがって、拓哉は声を振り絞って尋ねる。

「かわいそうだよ。この世に生まれてきた意味がないみたいじゃん」

葉月は軽く言って、笑う。

深く傷ついたとなど言えるわけもなく、拓哉はただ、スマートフォンを強く握りしめた。



あってはならなかった。次の日にはもう、別のクリニックへ風を切って猛然と向かっていた。平日しか開いていないクリニックに「仕事を休んで行くなんて」と始めは渋っていたのに、今では慌てて半休をとり、スーツのまま病院へ向かっている。

あり得ない、あり得ない。拓哉は胸の内で叫びながら、アスファルトの地面を強く蹴り飛ばすようにしながら歩く。

だって、俺にはあの女とのことがあるのだから。仏壇の前で、泣き崩れた女の声を思い出す。顔面にぶちまけられたほうじ茶の、冷たい液体の感触。仏壇に供えられたゆりの花の匂い。

「責任取ってよ!」

脳裏に響く、あの女の声。

新宿駅付近にあるというそのクリニックへ向かうため、職場最寄りの大手町駅から丸ノ内線に飛び乗る。地下鉄の暗い窓の外に目を当てながら、まるで唯一の希望のように、かつての記憶を探っている。

当時は、存在を消したいくらいうざったく思ったのに、今では恋しくさえ思っている。

「拓ちゃんの子だよ!」

そう絶叫した彼女に、今では縋りつきたいくらい、腹の底から会いたいと思っている自分がいる。

二軒目のクリニックでも、医師は渋い顔をした。

「いないですね」

今度は若い医師がいいと、わざわざ若い医師の写真が載っているクリニックを探した。ユーチューブでもやっていそうな、拓哉より十歳は若そうな茶髪の医師だった。

「いないですね。精子が、全くいないです」

それでも、結果は同じだった。医師が示すパソコンのモニターに映る画像には、白い丸だけが写っている。

一瞬、その丸の中の細い糸くずが、動いた気がした。

「あっ」

思わず、拓哉は声をあげた。今のが精子ではないかと、痛くなるまで目を見開いてモニターを凝視する。

何万匹なんて言わない。一匹でいい。たった、一匹でいい。たった一匹でも、拓哉の遺伝子を、DNAを持ち、運搬し、受精を果たし、未来に存在をつないでくれる奴がいるのなら、もうたった一匹でもいい。

糸くずのような一匹を大事に試験官に入れて、保管してやくれないかと心底願った。

「今、なんか」

拓哉はそう言って、すがるように医師の鼻筋の通った横顔を見る。しかし瞬間、医師はモニターの画像を切り替えた。

「これが正常な画像です」

まるで見せつけるように、数え切れないくらいのおたまじゃくしがそこにはいた。先程の糸くずなど、糸くずでしかないことを証明するように、そこには全く別の、大きな頭を持ち、糸のような胴体をうねうねと踊らせて自在に液体の中を移動する、生命力の塊のような生き物が無数に泳いでいた。

パッと、画面が切り替わる。

「これが、あなたのです」

無。無だった。精子だと思った糸くずは、画面についた汚れだった。ふっと、書類を捲る医師の起こした風で、それは飛んで消えていった。
残酷なまでに、そこには誰もいなかった。

「そんなはずないんです」

医師の顔を見る。若くて、見た目のいい医者なら、きっと拓哉の犯した罪のことも、わかってくれるのではないかと思った。だから、言った。

「あの、これって、昔はいたのに、いなくなるってことはありますか。自分、実は、昔」

拓哉は言葉に詰まる。医師は拓哉の言葉を待っていたが、話さないと見ると、細い眉を寄せて首をかしげた。

「うーん、この数年の間に、大きな病気をしたとか、ホルモン治療をしたとかがあれば、その可能性もなくはないですが」

医師の言った言葉のどれかを、拓哉は探そうとした。大きな病気をした記憶を、ホルモン治療をした記憶を、自分の中に必死になって探した。捏造さえしようとした。

だけど、どんなに記憶を探っても、見つからなかった。医師はまだ何か説明していたが、拓哉の耳には届かなかった。

病院を出て、駅までの道をふらつきながら歩いた。まっすぐ歩くのも精一杯だった。

「うえーい!」

若い二十代くらいの男女が、体をぶつけ合いながら目の前を横切っていく。かつての自分を思い出す。合コン三昧で、好き勝手にやりたい放題やっていた自分。なぜか笑ってしまう。本当の絶望は、涙さえ出ず、笑ってしまうということを初めて知った。

会いたい。あの子に会いたい。必死になって、その名前を思い出そうとする。もう名前さえ覚えていない、数えきれない合コン三昧の日々で出会った、あの子。

入社して三年。名前だけは有名なメーカーだったから、合コンには事欠かず、拓哉は毎晩のように男女を集め、合コンを繰り返していた。

そこで、あの女に出会った。女の名前を、必死になって思い出そうとする。当時は、蛯原友里や押切もえを代表とするキャンキャンOLとやらが流行っていて、あの子も御多分に洩れず、髪を茶髪に染めくるくると巻いて合コンに現れたのだった。なぜ選んだのかも覚えてないくらい、平凡な流行どおりの見た目をした女だった。

女はすぐに拓哉のことを「彼氏」、「付き合っている」と言ったが、拓哉は軽い気持ちだった。その子とホテルに行くようになっても、相変わらず合コンを繰り返し、他の女の子とも寝ていた。

その子は群馬の実家から都内の会社に通っていて、なんの中身もないアルバイトと変わらないらしい事務の仕事をして、口を開けば「仕事辞めたい」「早く結婚したい」「実家でたい」と繰り返していた。

デートのたびに、都内の駅前の不動産屋の窓ガラスに貼られた物件を見て「こことかどうかな?」などと言ってきて、拓哉はうんざりしていたが、一人でも多く性行為ができる女を確保していたかったため、スルーしていた。

見た目も他の子と区別がつかないくらい特徴もなく、夢も希望もなく「結婚したい」「仕事辞めたい」しか言わない女なんかと、結婚なんかかけらさえも想像していなかった。

なのに今、拓哉はあの女のことを、必死になって思い出そうとしている。

あの子は、なんて名前だったか。「あ」がつく名前だった気がする。あき、あい、あゆみ、ありさ、あさみ……、だめだ。思い出せない。

駅までの道もわからなくなるくらい、ショックで働かない頭を必死に振り絞りながら、拓哉はあの子のことを考えている。

あの子に「子供ができたの」と言われた時も、「そんなわけない」と失笑した。

二十代の後半になると、子供ができた友人が周囲にちらほら現れ始めた。友人たちは、口々に言った。

結婚なんかしない方がいい。自由がなくなる。子供なんか生まれたら、人生終わりだと思った方がいい、と。

事実、これまで毎週末フットサルやバーベキューに出てきた友人たちが、結婚した途端、まるで存在そのものがなくなったかのように休日から姿を消した。

自分はああはならないと、決めたばかりだった。もっと遊ぶ。もっと自由でいる。せっかく仕事も遊びも楽しくなってきたのに、

結婚なんて、まだまだ早い。子供なんて、あり得ない。そう思っていた。
だから、発する言葉は決まっていた。迷う必要もなかった。

「すみません。堕してください」
「おろす?」

女は、信じられないと言った表情で顔を上げた。女の背後の仏壇に置かれた二つの遺影が、こちらを睨みつけているように見えた。

女は、家族を味方につけようとしたのか、わざわざ高崎の実家まで拓哉を呼び出した。女とはとにかく彼氏を実家に呼びたがるものだ。結婚の言質を一秒でも早く取るために。これまでの経験でわかっていたので、女の実家には絶対に行かないと決めていたのだが、今回ばかりは様子が違った。

「訴える」「会社に言う」などと電話口で言われて、仕方なく、群馬県高崎市にある女の実家まで菓子折りを持って出向いたのだ。

女は両親にはあえてなのか隣室のリビングに待機させ、拓哉と仏壇の置いてある和室で一対一で向かい合っていた。仏壇に供えられた大輪のゆりの花が、甘い香りを放っている。線香の匂いと混じり合って、葬式のようだった。

足元に置かれたほうじ茶はとっくに冷め、拓哉の持参した菓子折りは指一本触れられずに畳の上に放置されていた。隣のリビングからは物音ひとつしないが、女の両親が息を殺して聞き耳を立てているのが、気配でわかる。

「え、無理だよ普通に。産みたい。私。拓ちゃんとの子供」
「えーと。ごめん。俺は、そこまでじゃ。っていうか、うん。まだ、無理っていうか」
「まだって何。もう、27じゃん」

もう? その言葉に引っかかって、頭の中に不満が溢れ出す。

もうじゃない。全然、もうじゃない。まだ、だ。まだ、27だ。

全てはこれからだ。何もかも、始まったばかりだ。遊びも仕事も女も、これから全く別の、あたらしい世界が、次々訪れるのだから。こんな仕事で、こんな女で、終わるわけがなかった。決めていいはずが、なかった。

「あのさ、っていうか。きみが、そこまで真剣だったとは思ってなくて。その、俺と家庭を持つくらい真剣だったとは、思ってなくて。だって、他にも気なってる男がいるって、言ってなかったっけ?」
「言ってないよ! 昔の話でしょう」

女は叫んだ。が、拓哉は納得できない。確かに、言っていた。出会ったばかりの頃、「本命は会社にいるんだけどねー」などと、ラブホテルでブラジャーをつけながら言っていたのではなかったか。

女はヤるとすぐ重い気持ちを押し付けてくるようになる。だから、セックスの後に明るくそう言ってくれた彼女を、拓哉は手軽でちょうどいい存在と思ったのではなかったか。ぼんやりと記憶が霞む。背後の仏壇の、見知らぬ老人と老婆が、笑った気がする。

「っていうかさ」

拓哉は頭をかいた。

「本当に、俺の子?」

女は目を見開いた。その目は一瞬で赤くなり、みるみる涙が溜まっていく。

「クズ!」

ビシャっと、冷たい液体が頭から浴びせられた。女は足元に置かれていたほうじ茶をかけてきた。幸い、お茶は冷めていて火傷はしなかった。額からダラダラとお茶が流れ、ゆりの花も仏壇の写真も、溶けるように視界の中で滲んでいった。

拓哉はうつむいて殊勝な顔をして見せながら、内心はほくそ笑んでいた。この程度の罰で済むのなら、安いものだと思った。

女の実家を出たその帰り道の高崎線の車内で、すぐさま着信拒否してメールも受信拒否にした。会社に電話が来たらどうしようと数日はビクビクしていたが、なぜかその後、女からは何もアクションがなく、その出来事は終わった。

新宿駅に着いた拓哉は、無意識のうちに路線図を眺めている。かつて、一秒でも早く逃げ出したかったあの女の実家のある「高崎」の文字が、今は唯一の拠り所のごとく、輝いて見える。

27歳のあの時から、すでに13年も時が経っているなんて、信じがたい事実だった。

まだまだこれからだと思っていた27歳から13年後も、拓哉は同じ会社におり、独立も起業もせず、湾岸のタワマンにも住まず、役職の一つにもつかず、それどころか出世街道を外れた薄暗い窓際部署に追いやられている。

変わらなかったんじゃないか?

あの時、決断していても、何も変わらなかったんじゃないか?

むしろ、13歳の子供がいる40歳の自分だったら、どれだけ会社に信頼してもらえただろうと、不意に足元が崩れていくような衝撃を感じる。

この13年、スマートフォンは何回変えたかわからないが電話帳のデータはそのまま移行している。いまだに拓哉の電話帳は大学時代の先輩、「浅野正樹」から始まるのだから。

新宿駅南口の巨大な路線図を前に、必死になってスマートフォンの電話帳をスライドする。あき、あい、あや、あゆみ、ありさ、あさみ……、会ってどうする。

訊きたかった。

あの時、本当に妊娠していたのか。あの頃の自分には、女を妊娠させる能力があったのか。遺伝子を残す力があったのか。ただ、時間の経過で失われたのか。それとも本当に自分は、生まれつき欠損した人間なのか。

結婚するためだけに、仕事を辞めたいがためについた嘘だったのか。もしくは、他の男の……? 考えたくない可能性に、拓哉は頭を振る。

訊いてどうする。

ぐるぐると頭の中を問いが巡る。路線図の下には券売機があり、立ち止まったままの拓哉を迷惑そうに人々が避けていく。あの時の子供は、どうなったのか。堕してしまったのか。産んでしまったのか。

スマートフォンをスライドする手を止める。もしあの妊娠が本当だとしたら。自分の中にも、かつて命のバトンを繋ぐ能力があったのだとしたら、この絶望を乗り越えられるだろうか。

どんっと、強い衝撃が走って、拓哉は大きくよろめく。謝りもしないで、ぶつかった男が去っていく。ヨドバシカメラの黒い紙袋を持って、リュックからはポスターらしき丸めた紙筒がはみ出している。チェックシャツを着た小太りの男。

「っんだよ! キモオタ!」

拓哉は舌打ちする。これまで、ああいう男より自分は遥か上の存在だと思っていた。ああいう男は、絶対に結婚なんかできないし、女を抱くこともできないし、ましてや子孫なんか絶対に残せない。

だけど、何人女を抱こうとも、結果、子孫を残せないとしたら。あいつらと自分は、何も変わらないのではないか。同じじゃないか。そう思うと、ゾッと全身に鳥肌が立つ。

拓哉は立ち上がり、改札に向かって走る。緑色の看板ではなく、オレンジ色の看板を探している。湘南新宿ライン、高崎行の文字を探す。

群馬からはるばる新宿まで通勤している客で車内は混み合っており、このまま2時間近く立っているのかと拓哉は絶望したが、大宮を過ぎると徐々に乗客は減り、上尾で座ることができた。

目の前の優先席では、見るからにオタクとしか思えない紙袋を抱えたもっさりしたメガネの男が、固く目を閉じて眠っている。

自分はあれとは違う。合コン三昧で、持ち帰り三昧で、会社の女の子たちともイチャイチャして、あんなのとは違うと、オスとして最高に優れていると思っていたのに。不意に、視線を自分の股間に落とす。スーツのズボンの下で、大人しく項垂れているそれ。

これまで自分の人生を支配してきたと思っていたこれが、全く無意味な長物で、尿を出すためだけの器官だったなんて。耐え難い事実だった。中学時代から見つめてきた、手のひらいっぱいの生命力の証。男であることの証。誇らしくさえあった、命の源。

いつの間にか窓の外からビルは消え、住宅地も消え、真っ暗な田んぼだらけになった。田んぼの水面が、時折電車のライトにちらちらと光る。喫茶店で、ラブホテルで、ファミレスで、時には会社の給湯室で、向かい合っては泣かせてきた女たちを思い出す。

「結婚してくれるって言ったよね」
「いつになったら結婚してくれるの」
「女にはタイムリミットがあるんだよ。私、子供、欲しい」

そう言われるたびに、鼻で笑い、誇らしくさえ思った。女たちに求められてやまない相棒のことを。どんなに女たちが一人で子供を欲しがったって、できっこないのだ。ここから放出される命の源がない限り。

泣きじゃくる女たちから目をそらし、密かに股間に視線を落とすと、拓哉はほくそ笑んでいた。自分の唯一の友人であるように、それを頼もしく、愛おしくさえ思った。でもそれが偽物だと分かった途端、惨めで憎たらしくて、切り落としたくさえなる。

「お待たせ」

不意に、女の声がして拓哉は顔を上げた。正面の優先席でうなだれていたメガネの男が、顔をあげる。

「トイレ、遠かった」

女は言いながら、よっこらしょと男の隣に腰を下ろす。女の腹は、ボールでも詰め込んだみたいに膨れていた。女のショルダーバックには、「おなかに赤ちゃんがいます」と書かれたキーホルダーがこれみよがしに揺れている。

拓哉は息をのむ。負けていた。あんな男に。あんなダサい男でも、子孫を残せるのに。あり得ない。これまでは、あり得なかった。絶対に。だけど、今は違う。自分にはできないことを、あの男はしている。

正面の男は、女が隣に座るとその大きな腹を見つめ、心なしか誇らしげに微笑んでいる。すでにオスとしての役目を終え、あとはメスに食べられるのを待つだけのオスカマキリのように、穏やかな表情で。

不意に、ポケットのスマートフォンが震える。葉月からだった。画面に表示された文字に、拓哉の頭は殴られたように痛む。

「受粉、成功!」
「タネがつきました!」

かつて花があった場所に、小さな膨らみがついた画像が送られてきた。

ハイビスカスのくせに、と思う。ハイビスカスにさえ受粉できたのに、俺にはできない。

不意に、写真の隅に映る、「仏桑華」のネームプレートに、拓哉は吸い寄せられる。「華」の文字に、目を奪われる。そうだ。あやか。彩華だ。桑原彩華。花みたいな、ハイビスカスみたいな名前で、そんな女を妊娠させたことに、一瞬、不思議な因縁のようなものを感じたのを、突如思い出す。

「まもなく、高崎。終点です」。アナウンスを耳に、拓哉は電話帳を一気にスライドする。桑原彩華。その名前を発見した瞬間、迷わず通話ボタンを押していた。

何を確かめようとしているのだろう。自分は空っぽじゃない、無力じゃない、存在する意味がない、無意味な存在じゃない。それを確かめたかった。高崎駅を出て、すぐさまタクシーに乗る。

「あそこ、右で」

忘れたと思っていたのに、ありありと、そのルートは思い出された。汗ばんだ手で握りしめた、ねぎ味噌せんべいの紙袋の感触を思い出す。

耳に当てたままの電話から、無情なアナウンスが響く。「この番号は現在使われておりません」。

しかし拓哉はタクシーを降りることをしない。

「そこ、左で」

まるで誰かに導かれているように、呼ばれているように、拓哉の口はなめらかに道を指示する。

タクシーを降りると、ズンズンと住宅地を歩く。すでに時刻は19時となり、住宅街は各々の夕食の匂いがぷんぷんと混じり合っていた。

終電の時間を確かめることさえしなかった。ただ、一秒でも早く、答えを知りたかった。追い討ちをかけるように、スマートフォンの通知が震える。

「検査結果、どうだった?」

彼女からのメッセージに、思わず叫ぶ。

「うぜえ!」

傍の街路樹のツツジの花にさえ、無性に腹が立って、ビジネス鞄で力任せに殴りつける。

「俺は花、以下かよ!」

和やかな食卓の笑い声がうっすらと聞こえる住宅地に、拓哉の声が反響する。

「子供を作れないのは出来損ないかよ!」

一人で叫ぶが、とっぷりと日の暮れた住宅地に歩いている人などおらず、誰も拓哉になど気がつきもしない。目の前に現れた「桑原」の表札に、拓哉は縋り付くように、もたれかかる。やっと辿り着いた。

小さな庭の向こうに、リビングが見える。カーテンの隙間から、温かいオレンジ色の光が漏れている。食器が優しく触れ合う音と、テレビの笑い声が聞こえる。

拓哉は必死に耳をすませる。そこに、探す。子供の声を。13年前に自分が無下に捨てた、もしかしたらあったかもしれない、遺伝子のかけらを。自分の命の証を。

拓哉の指がインターフォンに伸びる。しかし、戻る。何度かそれを繰り返している。彩華に会いたい。彩華に会って、訊きたい言葉が、頭の中でぐるぐると廻り続ける。

「あの時の子供、本当に俺の子だったの?」
「もし、俺の子だったとしたら、殺してしまった?」
「俺の、最後の、唯一の奇跡だったかもしれないその子を、殺してしまった?」

悔やんでも悔やみきれなかった。インターフォンから指を外し、拓哉は煉瓦の門に頭をぶち当てる。にぶい痛みが走るが、当然の報いにしか思えなかった。

キイッと、金属が擦れる鋭い音が背後から聞こえて、拓哉は振り返った。白いヘルメットを被り、学生服を着た少年が、自転車からぴょんと飛び降りた。桑原の家のガレージに、自転車を押して入っていく。

その後ろ姿に、拓哉は息をのむ。中学生、にしか見えなかった。ということは、13歳? あのときの?

拓哉の心臓が激しく鳴る。少年は自転車を止めると、ヘルメットを深く被ったままこちらへ歩いてくる。拓哉は玄関の外灯の明かりだけを頼りに、少年の顔を、必死になって確認しようとする。

表札の前に立っている奇妙なサラリーマンである拓哉に、少年は睨みつけるような冷たい視線を送った。ヘルメットの下に一瞬だけ見えたその目が、自分に似ているような気がした。

そう思いたかった。そう信じたかった。この子があの時の子供だったら。俺の子供だったら。この子が大人になってくれたら。これからも人生を紡いでくれたとしたら。俺の遺伝子を繋いでくれたとしたら。

玄関の前から立ち去らない拓哉に、少年は訝しげな、攻撃的な強い目線を送ってきた。拓哉は思わず、一歩、後ろにのき、そのまま走り出す。逃げ出した。あの時と、同じように。

真実を知る勇気なんか、自分にはなかった。桑原の家から「おかえり」と声がして、それが自分と同世代の男の声だったような気がした記憶を、拓哉は住宅地の路地を駆け抜けながら、抹消した。

かつてハイビスカスが咲いていた場所が小さく膨らみ、種となった画像のまま、葉月とのメッセージは止まっていた。

その下に、拓哉は打ち込む。

「子供なんかできなくてもいい?」
「がっかりする?」
「出来損ない?」

書いては消し、書いては消して、結局送らない。そのまま高崎線に揺られ、練馬にある拓哉の家にたどり着いたのは夜の二十二時近かった。



「ほら、見てみてー!」

帰宅した拓哉に、検査結果を尋ねるより先に、葉月はハイビスカスの種を見せつけてきた。それはまだ小さく、種とも呼べないくらいの膨らみだった。

まだ成功するかはわからない。実家の母親もこのくらいの状態まではできていたことを、思い出す。

「受粉に成功したのー! すごいでしょー。頑張ったねー、めしべちゃん」

めしべだけを葉月が褒めたので、拓哉は違和感を覚える。スーツ姿で部屋の真ん中に突っ立ったまま、尋ねた。

「おしべも頑張ったんじゃない。っていうか、ハイビスカスの雄花(おばな)って、どれ? 雌花(めばな)となんか違うの?」

「えー? 拓ちゃん実家の庭でずっと見てたのに、知らないの」

葉月は分厚いメガネの下の目を見開いて、スマートフォンをスライドする。

「ほらこれ。めしべのすぐ下にあるんだよ」

葉月の指さした画像を、かがみこんで拓哉は見た。突き出した黄色いめしべのすぐ下に、めしべよりもずっと小さく可憐なおしべがわらわらと群がっていた。

「こんなにたくさんあるのに」

不意に葉月が、画面を見たまま言う。

「みんなが花粉を出せるわけじゃないんだって。花粉を出せないオスもいるの」

ぎくりと、拓哉の体が硬くなる。まるで自分のようじゃないかと、思う。

「やくっていう、おしべを包んでるこれをカッターで切って、出す方法もあるらしいんだけど。そこまでは、いいかなって。なんか痛そうだもんね」

ショックでほとんど聞こえなかったが、茶髪の若い医師が検査結果の後に付け加えていた説明を、拓哉はおぼろげに思い出す。

「精巣を切って、精子を探す方法があります」

切る? 精巣を? 恐ろしいワードに、それだけで拓哉の脳はその説明をシャットアウトした。めしべの下で可憐に揺れる小さなおしべたちを見ながら、拓哉は思う。

手術が失敗したら?
もしそこにもいなかったら?
一匹たりとも、いなかったら?
耐えられるのか?
生きていけるのか?

「こうやって毎日世話してると、可愛い我が子って感じだもん。受粉できてもできなくても、いいかなって思うよ」

葉月は笑う。そう言ってくれる彼女にだったら、見せられるだろうか。拓哉の真実の姿を。拓哉の本当の姿を。受粉できなくても、可愛い彼氏だよ、と言ってくれるだろうか。

まだ画像を見つめている葉月を、拓哉は強く抱きしめた。葉月は腕の中で、嬉しそうに笑う。おしべが画面いっぱいに表示されたスマートフォンが、床に落ちる。

キイッと自転車のブレーキの音がする。睨みつけるような少年の眼差しが、脳裏によみがえる。

拓哉は崇めるように、その眼差しを何度も何度も、記憶の中に反芻する。腕の中の葉月が、いつの間にか制服姿の少年に変わる。

拓哉は少年を、力いっぱい抱きしめた。

(了)

2023年1月30日・50枚



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