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【短編小説】レンタル・スーツケース


「これはね、ニュージーランドのテカポ湖。それはもう、美しい星空でね。二人で息を呑んだわ」

 うす紫色の星空に、乳白色の星が無数に輝いていた。今にも手のひらに落ちてきそうな星々に、言葉を失った。その光景を、昨日のことのように思い出す。
 省吾と二人、白い息を吐き、手を握りあい、一言も喋らないで何時間もその星空を見上げていた感動を、うまく言葉にできないことが悔しい。

「これはね、ミルフォードサウンド。省吾さんと一緒にカヤックに乗ったの。カヤックはもちろん省吾さんが漕いでくれてね。水の音しか聞こえないの。まるで、絵本の中に入り込んだみたいだった」

 ちゃぼん、ちゃぼんと、省吾がゆっくりと漕ぐオールの音を思い出す。荘厳な山々に囲まれた湾の中で、まるでこの世界には省吾と真里子の二人しかいないような神秘的な気分を味わった。
 省吾が日本に残してきている妻や子供たちなど、世界から消え去ったようだった。

「これはニューカレドニア。『天国にいちばん近い島』の名前どおり、天国と見紛うような美しさだった。でもね、その晩、省吾さんたら名物のエビを食べすぎて、アレルギーで全身真っ赤になってしまって。診てくれる病院がなくて、もう大騒ぎだったの」

 肩をすくめて笑ってみせる。渦中にいるときは省吾がアナフィラキシーで死んでしまったらどうしようと必死だったが、振り返れば笑ってしまう思い出だった。

「へえ」

 目の前の女は、写真をめくりながら、大して関心もなさそうに言う。先程からチラチラと、壁の時計を気にしている。その態度が不愉快で、真里子は顔を歪めた。

 真里子にしてみれば、今日は人生最大の修羅場となるはずの日だった。入念に計画を練り、大安で一粒万倍日で天赦日である今日を選び、事前に美容院とエステとネイルサロンに行き、デパートで服もバックも買い揃え、アクセサリーまで新調してこの場にやってきた。

 人生を賭した真里子の訪問を、省吾の妻、雅代はまるで近所のママ友が訪ねてきたかのようにあっさりと受け入れた。玄関で押し合いへし合い、殴り合い、包丁でも持ち出されるのではと身構えていたので、拍子抜けした。

 雅代は真里子をリビングに通し、ダイニングテーブルを勧め、お茶を出した。全くもって、近所のママ友と変わらない対応だった。どういう神経をしているのか、真里子には理解できない。

 いいえ、これはきっと負け惜しみに違いないと、真里子は目の前の雅代を改めて見る。

 老けた五十近い女の顔。荒れてささくれだった老婆のようなみっともない手。女を捨てた白髪まじりのショートカットの髪。毛羽だったの上下のスウェット。出された湯のみはスーパーで買ったような安っぽい代物。
 全くもって、省吾に相応しくない。どうしてこんな女が、二十年も省吾の正妻としてのさばっているのか、不可解でならない。

 テーブルにぶちまけた省吾との二十年間ぶんの海外旅行の写真を、雅代は時折一枚手にとっては、「へえ」と間の抜けた声を出した。真里子がスーツケースいっぱいに詰め込んで持ってきたそれらの写真を、しかし大した関心もなさそうに放り出し、時計を見上げる。

 嘘だ。演技に違いない。そんな平然としていられるはずが、ない。

 真里子は探す。雅代のうらぶれた瞳に、悲しみを。絶望を。この二十年間を丸ごと失ったようなショックを、受けていなければおかしい。この二十年間、雅代が信じてきた夫としての省吾の姿は、全て演技で、嘘で、仮(かり)のものだった。
 この美しい写真たちの中で真里子と抱き合って笑っている省吾こそが、本当の省吾だ。それを、なんとしてでも認めさせなければならない。そのために、今日は来たのだ。

「これはね、ギリシャのサントリーニ島。嘘みたいに可愛い街でしょう。二人でうっとりして、あちこち散歩して回ったわ。野良犬がたくさんいてね。みんなのんびりお昼寝してて。とっても可愛かった」

「これはトルコのカッパドキア。省吾さんと二人で気球に乗って、この夢みたいな景色を眺めたのよ。絵葉書じゃないわ、正真正銘、省吾さんが撮った写真よ。あなた。気球なんか乗ったことないでしょう?」

「これはミクロネシアの三重の虹。二重の虹までは良くあるらしいんだけど、三重は現地でも珍しいらしくて。省吾さんと私の二人だから見られたのね。奇跡だって、省吾さんも泣いていたわ」

 めくってもめくっても、写真は尽きることがなかった。なんと言っても、二十年分もあるのだから。

 真里子が二十六歳、省吾が三十三歳の時にその関係は始まった。化粧品メーカーに入社して四年、店舗の販売員から念願の本社営業部に異動になり、張り切っていた真里子の上司だったのが、省吾だった。
 二人でサンプルを抱えて毎日のように取引先を周り、当時としては珍しかった「無添加、無香料、パラベンフリー」を前面に押し出したスキンケア商品を売り込んだ。

 営業の仕事は外回りでは終わらない。帰社してからも会議や報告書作成などの仕事がたんまり残っていた。終電に間に合わないこともしばしばで、だけど、人が掃けて薄暗くなったオフィスで省吾と二人きりになる時間を、いつの間にか心待ちにしている真里子がいた。

 省吾は化粧品メーカーに相応しい身綺麗な格好をしていて、こまめな気遣いができる優しい男だった。取引先に怒鳴られて涙を流した真里子に、ぱりっとアイロンのかかったハンカチを貸してくれた。ハンカチの種類が毎回違っているのも、真里子は気に入った。
 タクシーではいつも真里子を奥の席に乗せてくれた。電車では空いている席を探し、笑顔で真里子を手招きした。女ばかりの店舗でぎすぎすした毎日を送っていた真里子は、省吾に優しくされ、優先され、可愛がられる営業部での毎日に、あっという間に酔いしれた。終電を逃した後のタクシーで、二人の手が触れ合うまでに時間はかからなかった。

 取引先から帰る道すがら、解放感と達成感で二人はしばしば飲みにでかけていた。だから、省吾が既婚者で、三歳と〇歳の子供がいることは真里子も知っていた。それでも、関係なかった。タクシーの中で手が触れ合った時に、省吾に妻と二人の子供がいることなど、全くもって瑣末な問題にしか思えなかった。

 待ち焦がれていた手だった。取引先で資料を指さしたときの、迷いのない、頼りになる手。パソコンに向かって資料を作る真里子を後ろから椅子ごと抱くように覗き込み、画面を指さした時の手。人気(ひとけ)のないオフィスの夜に、温かいほうじ茶を差し出してくれた手。
 急ぎの資料を二人で会議室にこもって帳合し、ホチキスの芯を渡そうとして触れ合った手。床に散らばって、散乱した資料。「ごめんっ」と言った省吾の、照れたような、甘く優しい声。

 手を握っただけで、これまでの省吾との淡い触れ合いの記憶が蘇り、一瞬で全身が燃え上がった。逃れられるはずなんかなかった。タクシーを、どうかホテルへやってくれと、心底願った。

「これは、十二月のフランクフルト。念願の、世界で一番美しいクリスマス。やっと、彼のクリスマスをもらうことができた。付き合い始めてから、十年もかかった」

 煌びやかに輝いていた、ドイツの街を思い出す。冷たい石畳の感触。レーマー広場に据えられた三十メートルを越す巨大なクリスマスツリーは、目が痛くなるほどの輝きだった。十年かかって、やっとクリスマスを共に過ごせた真里子と省吾を祝福するように、ニコライ教会から朗らかなトランペットの音色が響いた。二人を優しく包み込む、グロッケンシュピールの幻想的な音色。夢のようだった。クリスマスのたびに喧嘩していた十年間が、七色のライトアップに浄化されて、天に昇って消えていくような気がした。

 ブルーに輝くクリスマスツリーの前で、真里子の肩を抱いて笑う省吾の写真を、雅代に見せつけるようにしながら、真里子は言う。

「彼、子供が十歳になるまでは、絶対にクリスマスは家でって、譲らなかったの。でも、下のお子さんが十歳になったときね。とうとう、私を選んでくれたのよ」

 真里子に差し出された青白く発光するような写真を手に、雅代は「はあ」と気の抜けた返事をする。真里子は挑むように、雅代を下から睨みつけて言う。

「あなたと二人で過ごすことなんか、思いつきもしなかったんじゃないかしら」

「子供が、クリスマスとか、もういいよ、って言い出したんで」

 初めて、雅代が会話らしきものをした。真里子は驚いて顔をあげる。

「長男の受験もあったし。下の子も、バレエやらピアノやらで忙しかったので」

 雅代は言い、サイドボードに飾られた写真を見る。小学生くらいの子供たちと、まだ若い省吾と雅代の四人で撮られた、ディズニーランドでの家族写真だった。キャラクターの表情や背後の施設がなんとなく古くて、すぐに昔の写真だとわかる。

 ついこの前、省吾と行ってきたばかりの真里子は、笑ってしまう。なぜこんな昔の写真を飾っているのか。長男はすでに成人して家を出ているはずだし、下の娘も二十歳になるはずだった。大した思い出もない、寂しい家。仕方ないか。だって省吾の長期休みは、私との海外旅行にことごとく費やされたのだからと、真里子は満足してほくそ笑む。

「それに」

 と、雅代は何かを言おうとしたが、黙った。クリスマスマーケットの写真をテーブルの上に戻し、再び、時計を見上げる。いちいち時計を見上げる仕草に、真里子は苛立つ。

 黄ばんだ壁に据えられた時計は古びた鳩時計で、埃をかぶっている。ダサい。センスがない。真里子の家の時計は、ヨーロッパの作家の一点ものだ。
 大体、写真を飾っているサイドボードもダサい。今時見たこともないようなすりガラスが嵌められた古臭い、昭和のデザイン。黄ばんだレースのカバーまでかかっている。天井に突っ張り棒までつけて押さえつけられたやたらと背の高い本棚には、タイトルを隠すようにこちらもレースのカバーがかけられている。

 そういえば、廊下には衣装ケースまで積んであった。ティッシュやトイレットペーパーの買い置きがリビングの隅に積んであって、突っかかって転びそうになった。冷蔵庫にはベタベタと大量のプリントが貼られ、野菜や果物のイラストがついた給食の献立表のようなものまで見える。子供たちは成人したのに、まだ小学校の献立表でも貼ってあるのかと、呆れて真里子はため息をつく。

 整理整頓もせず、ダサくて安っぽい家具に囲まれて、過去の思い出に浸っている、壁の黄ばんだ家。省吾はさぞかし辟易していただろうと胸を痛める。省吾は今では商品のパッケージデザインを担当する部署にいて、休日には真里子と一緒に絵画展に行くほどセンスがいいのだ。

 選び抜かれた美しいものだけに囲まれた真里子の家に来るたび、省吾は「ここは落ち着くなあ」とカッシーナのソファに体を横たえた。ダサくて安っぽいものに囲まれたこの家から、早く省吾を救い出してあげたいと、真里子は身震いする。再び、テーブルの上の写真を漁る。

「これはフィジー。綺麗でしょう」

 水色に透けた海、白い砂浜の前でサングラスをかけ、ブランド品の水着姿で写真を撮った二人は、さながらセレブの夫婦のようだ。

「お盆のお休みは、家族サービスでしょう。だから彼、お盆から少しずらした時期に、毎年お休みをとって行ってくれていたの。あなた、気がつかなかった?」

「会社の出張だと言っていたので」

 雅代は老眼なのか、目をすがめながら写真を見る。その仕草が年寄りくさくて、真里子は吐き気さえ覚える。

「でも、まあ」

 雅代が、不意に、何かを言いかけて黙った。その口先に、馬鹿にするような笑いが含まれていた気がして、真里子は雅代を見る。雅代は口の端に小さく笑みを浮かべて、フィジーのパラダイスゴーブで撮った写真を見ている。紫色のブーゲンビリアの花を背景に、ビーチベッドにのんびりと横になっている省吾がいる。

 ウィーン。バタン。

 突然、どこからともなく音がして、真里子は驚いて顔を上げた。

 ウィーン。バタン。

 音は続く、きょろきょろと首を回すと、壁の一部からその音が発せられていることに気がついた。鳩時計だった。小さな白い鳩が、律儀にいちいちドアを開けて、飛び出しては戻ることを繰り返している。しかし、鳴き声はしない。四回、それは繰り返されて、止まった。

「びっくりしたあ」

 胸を撫で下ろした真里子を、雅代は口を歪めたまま見ている。

「何、あの時計。壊れてるんじゃないの」

「そうなんです。鳴かないんです。でも、時間は合ってるんで」

 雅代は時計を見上げる。夕方の四時だった。リビングの小さな窓が、オレンジ色に染まり始める。

 真里子が訪ねてくるまで何かを煮ていたのか、家の中には煮物のような匂いが漂っていた。鼻を突く、甘ったるい醤油とみりんの匂い。そんな田舎くさい料理、私は絶対にしないと、真里子は鼻をふさぐ。カルパッチョ、ピンチョス、マリネ、ローストビーフ、キッシュ、パエリア。そんな真里子の手料理を、省吾はため息をついて感心して食べた。雅代の貧乏くさい料理など、とっくに食べ飽きているのだろう。

 それにしても、この匂い。真里子は鼻を啜る。もしかしたら、壁に染み付いて取れない匂いなのかもしれない。黄ばんだ壁。新築から十五年も経つのだから、当然か。

「今度、家を買うんだ」

 そう言った省吾に、掴みかかって大喧嘩した十五年前のあの日を、昨日のことのように思い出す。別れるって言ったじゃない。なんで別れるのに、家を買うのよ。髪を振り乱し、暴れる真里子を無理矢理抱きしめながら、省吾は言った。女房がうるさいんだよ。子供達が小学生になる前にって。でも大丈夫だよ。家なんて、いつでも売れるから。あんなの、仮の住まいさ。僕にとって本当の家は、あそこじゃない。君だよ。君、そのものが、僕にとって本当のホームなんだ。そう言って無理矢理唇に舌をねじ込まれて、結局なし崩しに喧嘩は終わる。毎回、そんなことの繰り返しだった。

 坂の斜面に建てられた不恰好な建売住宅をわざわざ見にきて、真里子はほっと肩を落とした。住んでいるだけで、体が傾きそうなくらい急な斜面に無理矢理建てられたその家は、鉛筆のように細く、庭もなく、一階はほとんどが駐車場で、小さな窓は一片の光も取りこめそうになかった。ちっとも羨ましくなかった。

 だけど結局、省吾は離婚しなかった。家を出ることもなかった。ダサくて安っぽい、本当の姿じゃない、斜めにちょん切られた仮の家に十五年間住み、ちっとも愛していないはずの仮の妻と二十五年間過ごし、真里子の次に愛しているはずの子供たちは二十年間すくすくと成長し、一人は立派に成人して家を出た。

 仮、とはなんだったのだろうと、真里子は思う。省吾の言っていた仮とは、どんな意味だったのだろう。二十年間も続いたものを、果たして「仮」と呼べるのだろうか。それはもう、仮なんかじゃなく、まぎれもない真実なのじゃないだろうか。

 テーブルの上の写真が、リビングの小さな窓から差し込むオレンジ色の夕陽に照らされて、赤く燃えるように光っている。もし、こっちが仮だったら? そう思いかけて、真里子はぞっとする。燃えるようなバリ島の夕陽の前で、並んで笑う二人。この汚い家が本当で、世界中を旅した二人は、仮、だったとしたら?

 耐えられない。この二十年間が、仮だったなんて、耐えられない。真里子は真実を探すために、もう一度写真の山を漁る。

 山の中腹の一枚が、まるで本当に炎をあげているように異様に真っ赤に見えて、真里子は思わず手に取る。ガンジス川の夕陽だった。

「火が、火が!」

 そう叫んで、省吾の肩にしがみついたことを思い出す。夕陽に燃える川の水面を、火の塊が流れてきた。しかしそれはよく見れば、火そのものの塊ではなく、何か大きなゴミのようなものが燃えながら流れてきているのだった。

「あれ、死体だよ」

 省吾は半ば興奮したような口調で言った。

「ガンジスでは死体に火をつけて流すんだ」

 うっと、昼間に食べたビリヤニが胃から逆流してくる。吐きそうになって目を逸らす真里子を抱きしめることもなく、省吾は「すげえ」と繰り返していた。

「仮だって、言ってたわ」

 真里子は燃えるガンジス川の写真の端を握りしめたまま、言う。

「この家での自分は、仮の姿だって。私といる時が、ほんとの自分だって、省吾さんは言っていたわ」

 真里子はガンジス川の写真を突き出して、言う。

「ずっとこんな狭い家に閉じこもっていたあなたにはわからないような、すごい経験を、私と省吾さんはしてきたの。これ、見てよ。死体よ。燃えてるの。あなた、死体なんか、見たことないでしょう?」

 雅代はチラリと写真を見たが、不快そうに目を背けた。真里子は満足する。気球に乗ったことも、象の背中に乗ったこともない、本物のパイプオルガンの音も聞いたことのない、つまらない人生の女になんか、負けるわけがなかった。真里子と省吾が二十年間の海外旅行で見たこと、経験したこと、二十年分の差は、凄まじいはずだった。この女になど想像さえ及ばない域に、二人は達しているはずなのだ。

 満足して息を吐いた真里子に向かって、雅代は言った。

「それで、今日はなんの御用でいらっしゃったんですか」
「決まってるでしょう!」

 真里子は絶叫した。さあ、始まったぞと自分を鼓舞する。戦争が、始まったのだ。いや、二十年前からとっくに戦争は始まっていた。これまでは冷戦状態だった。だけど、今日、とうとう戦いの火蓋は切って落とされたのだ。開戦。

「別れてください。省吾さんと、離婚してください」

 真里子はテーブルの上の写真の山を、かき回すようにしながら、言う。

「わかったでしょう。これで。彼と私が、どんな二十年間を過ごしてきたか。どれだけ、輝かしい思い出を、たくさん作ってきたか。これを見て、思い知ったでしょう」

 写真の山は、真里子のかき回す手の下で盛り上がっては崩れ、盛り上がっては崩れる。まるで真里子と省吾の恋情のように。

「彼の心はあなたのところになんかなかった。二十年間、ずっと私のところにあった。彼が愛しているのは私。この写真を見ればわかるでしょう!」

 アンダルシアのひまわり畑で抱き合っている写真、ホワイトヘブンビーチでキスしている写真、ミクロネシアの海辺のハンモックで抱き合って眠っている写真、モルディブの水上コテージで水面からあふれるような夕陽のなか乾杯している写真。それらの全てに、心からリラックスし、真里子を愛おしそうな目で見つめる省吾が写る。これが、本当の省吾。真実の、姿。

 これらの写真を見て、まだ私の方が愛されているなんて思う女がいるだろうか。いるとしたら、相当に愚かな女だ。目の前の女がそうでないことを願いながら、真里子は絶叫し続ける。

「クリスマス、誕生日、バレンタイン、夏休み、冬休み。ずっと。ずうっとよ。二十年間、彼の心はずっと私のところにあったの! あなたのことなんか、ちっとも愛してないの! 彼が愛しているのは、この私なの!」

 真里子がそこまで一気に、肩で息を切らしながら叫ぶのを、雅代はまるで霧の向こうの景色でも見るように、ぼんやりした目で見つめていた。

 なんなのこの人?

 真里子は、恐怖さえ覚える。壊れた鳩時計も、貼りっぱなしの献立表も、黄ばんだレースのかかった棚も、廊下の衣装ケースも、子供が幼い頃の家族写真も、みんな、なんか、怖い。変だと、真里子は気がつく。壁にまで染み付いた醤油とみりんの匂い。まるでこの家ごと、時間が止まっているような、どこかの時点から何かがおかしくなって、そのまま止まっているような、そんな不気味な家の中に、迷い込んでしまったような恐怖さえ覚える。

 真里子が黙ると、雅代は再び、鳴き声のしない鳩時計を見上げる。

「ちょっと! あなた! 失礼でしょう!さっきから時計ばかり見て! ちゃんと話を、聞きなさいよ!」
「このあと、ちょっと約束があって」

 雅代は落ち着かない様子で、椅子の上で尻を動かした。

「そんなこと! どうだっていいのよ! もっと大事な話をしてるのよ!」

「大事な話、ですかねえ」

 雅代が、不意に口元を押さえて笑った。

「何よ! 大事に決まってるでしょう! 省吾さんが、あなたと私、どっちを愛してるか! これからの人生が、懸かった、大事な話」
「あの人がどっちを愛してるかなんてどうでもよくないですか」

 真里子の言葉を遮って、雅代は言った。平坦な口調だった。

「どうでもいいはずがないでしょう」

 信じられない思いで、真里子は言う。雅代が何を言っているのか、理解できない。

「あなた、負けを認めたくないのね。薄々、浮気してたのは知ってても、この写真たちを見て、ショックを受けたんでしょう。省吾さんがあなたより私を愛してるって現実を見せつけられて、ショックだったんでしょう。それで、負け惜しみを言ってるんでしょう」

 そうあって欲しいという願いのままに、真里子は言った。しかし雅代は、笑みを浮かべたまま、言う。

「すみません。もうとっくの昔、二十年くらい前から、私の心はあの人のところにはなくて。だから、愛とかどうでもいいんで」

「どういうこと」

「子供が三歳とか赤ちゃんの時に浮気するような人って、もう頭おかしいっていうか人として完全に終わってるじゃないですか。そんな人のこと、どうでもよくて」

 真里子は、自分の呼吸が落ち着いていくのを感じながら、尋ねる。

「じゃあ、あんたも浮気でもしてたの」

「浮気どころじゃないですよ。子育てで手一杯で」

 鼻で笑うように、雅代は言う。

「だったら、好きじゃないんなら、別れてくれたらよかったじゃない! 家なんか建てて! 別れる気ないじゃない!」
「私はあの人はいらないんですけど、子供達が父親を必要としてたので。家も、子供の発育のために欲しかったので。仮の家だろうがなんだろうが、子供が大人になるまで、二十年住めれば良かったんです。大学にも行かせたかったので、お金は必要ですし。ふりでもなんでも、父親としての役割を演じてくれるのなら、浮気だろうが、なんでもご自由にって感じでした」

 雅代は写真の山に焦点の合わない目を向けたまま、淡々と言った。仮。ふり。役割。省吾が言っていた言葉を、そのまま雅代は口にした。この女は、全てを知っていた。写真を見ても、本当に何も感じないのかもしれない。じわじわと侵食するような虚しさに、真里子は溺れていく。

「だったら、もういいでしょう。子供も成人して、父親としての役割は終わりでしょう。だったら、離婚してくださいよ」

 真里子の言葉に、雅代はあっさりと頷いた。

「いいですよ」

 ガクッと、全身の力が抜けた。真里子はヘナヘナと、椅子の背もたれに倒れるように寄りかかる。嬉しいはずなのに、二十年間、この日を待ち望んだはずなのに、胸には苦いものが広がっていく。どうして今なんだと、どうして今頃なんだと、目の前の女が再び憎くなっていく。

「ねえ。なんで今なの」

 勝手に、声が裏返る。目の奥が熱くなっていく。目の前に平然として座っている女の姿が、ゆらゆらと水の中に滲んでいく。

「もう、遅いんだよ。遅すぎるんだよ。もっと早く、あと十年早く、別れてくれたら。私だって、彼との子供を産めたかもしれないのに」

「赤ん坊を置いて浮気するような人との子供なんか、欲しいんですか」

 雅代は笑みを浮かべたまま、眉をハの字に寄せた。初めて、この女の表情らしき顔の動きを見た気がした。

「それは、相手が私だからよ! 私が特別、可愛かったから、彼は赤ん坊を置いてまで私のところに来てくれたのよ! 私が妻だったら、そんなこと絶対にしない!」

「そうですか」

 雅代は笑う。その笑い方が、明らかに真里子を見下している気がして、腹が立つ。雅代はサイドボードに飾られた家族写真に目を向けると、言った。

「今度、娘が家を出るんです。だから、母親としての役割は全うできたので、もういいかなと思って」

 そう言って、満足げに笑う。その顔には、すがすがしささえあった。真里子はそのことが気に食わず、言ってやる。

「そうよね。母親としての役目が終わったら、省吾さんにとってあなたなんてなんのメリットもない、ただのダサい歳食ったおばさんだものね。捨てられる前に出ていこうってのね。いい心がけね」

 どうしても、負けを認めさせなければいけない。あなたが負け、私が勝ち。省吾さんに選ばれたのは、私。そう認めさせなければ、ならない。

 真里子はテーブルの上の写真から目を離して、家を見回す。写真たちから発せられる、海やイルミネーションの輝きとは真逆の、みすぼらしい、安っぽい家。この家が、私の家になるのか。ゾッと、背筋に嫌なものが走る。

 すぐにでも売り飛ばして、二人でお金を出し合って駅前のタワマンを買おうと決意する。こんな坂の途中の斜めの家、二束三文にしかならないが、ないよりはましだ。古い鳩時計も、安っぽいサイドボードも、本棚の本も衣装ケースも、全部捨ててやろうと決める。

 ビーンゴーン。

 ピンポンでさえない、歪んで音程のズレたチャイムの音が家の中に鳴り響いた。この家は、チャイムさえ直さないのかと、真里子はまた驚く。

「あ、来ちゃった」

 雅代は玄関の方を見て、言った。

「こんにちはー。花柳リフォームでーす」
「リフォーム?」

 玄関から聞こえた声に、真里子は素っ頓狂な声をあげる。十五年前、「家を建てるんだ」と省吾が言った時のショックが蘇る。今更、まだ、この古く安っぽい家に対して、金をかけようとしている省吾が信じられなくて、クラクラと気が遠くなる。

「どうぞ」

 真里子をリビングに通したときと全く同じ声色で、雅代は言った。リビングにはドヤドヤと、作業服姿の男たちが入ってくる。男たちは一瞬、テーブルの上の写真に目を止め、楽しいママ友会でも開かれていると思ったのか、好ましそうに目を細めた。

「今日は、寸法を図りに来ました」
「どうぞ」

 雅代は愛想良く言い、いそいそとキッチンに行ってお茶を準備し始める。男たちは騒がしく玄関の方に戻って行き、何やら作業する音が聞こえてくる。

「ねえ、リフォームするの」

 テーブルについたまま、キッチンの雅代に向かって真里子は尋ねる。

「ええ、まあ」

 ちっとも嬉しくなさそうに、雅代は答える。急すにお茶っぱを入れる音が聞こえる。

「やめてよ。取りやめにして。もう、離婚するって決めたじゃない。こんな家、私は住まないから。リフォームなんかいらないわ」

 テーブルから身を乗り出して言う真里子に、雅代は顔を歪めて笑うだけで、何も答えてくれない。

 この場にいない省吾への苛立ちに、真里子の胸は熱くなる。リフォームする予定があるなんて、聞いていなかった。子供たちも家を出るし、そろそろ潮時だなと、ここ数年、省吾も言い続けたではないか。まだ、結婚生活を続けるつもりなのか。嘘で、仮で、演技の家を、一体どうしてリフォームなんかする必要があるのか。テーブルの上の写真の山が崩れ落ちそうになっていて、真里子は身を乗り出して押さえつける。

「奥様。玄関のスロープと、廊下の手すりと、トイレの改装でしたよね」

 業者の声が、廊下に響く。スロープ? 手すり? 聞き慣れない言葉に、真里子は耳を疑う。

「はい、そうです」
「手すり? ねえ、手すりなんかつけるの? なんで」

 お盆いっぱいに湯のみを並べた雅代が、顔を上げた。その顔は、まるで真里子を慈しむように、優しく微笑んでいた。雅代のエプロンのポケットから、着信音が聞こえる。雅代はエプロンで手を拭きながら、電話に出る。

「あ、はい、わかりました。あと二十分くらいですね」
「何。また誰か来るの。今度は誰」

 真里子はテーブルの上の写真を押さえたまま、雅代を見る。雅代はそんな真里子を、まるで幼い子供でも見るような温かい眼差しで見つめ、言った。

「おばあちゃんがもうすぐ帰ってくるから。その前に、終わらせないとね」
「おばあちゃん?」

 雅代は冷蔵庫に振り返り、貼ってあったプリントの山を外した。スタスタと、リビングの真里子のところに戻ってくる。テーブルの上に山盛りになった世界旅行の写真の上に、雅代は突然、そのプリントをばら撒いた。

「引き継ぎ。いいですか? 今、やっちゃって」
「ひき、つぎ?」
「夫と結婚してくれるんですよね。先月から、姑の介護が始まったんです。田舎から引き取って、同居してます。もうすぐデイサービスから帰ってくるので、その前に引き継ぎ、終わらせちゃいましょうか」

 テーブルの上にばらまかれたプリントには、「デイサービス プラン内容」「利用規約」「利用時間」「送迎時間」「献立表」などの文字が見える。小学校の献立表じゃなかったのか。

「今、色々サービスお願いしてて。今度は家のバリアフリー改装もするので。やること山ほどあるので、助かります」

 雅代は言う。煌びやかに輝く写真たちはプリントの下敷きにされ、無惨にばらばらとテーブルの下に落ちていく。雅代は写真ごとかき分けるようにしながら、プリントの説明をしていく。

「これは施設の献立表です。お昼ご飯と夜ご飯が被るとおばあちゃんが怒るので、違うメニューにしてください。歯が弱っているので硬いものは食べられないので、煮物を中心にお願いします」

 煮物。家中に染み付いた醤油とみりんの匂いが、真里子の鼻を再び突く。

「ちょっと、ちょっと待ってよ」

 真里子は立ち上がる。フラフラとよろめきながら、頭を抱える。

「いらないの。私。そういうのは。いるのは、省吾さんだけなの」
「私だっていらないですよ」

 雅代は眉をハの字にして、困ったように笑う。

「省吾さんのお母さんなんで。省吾さんに、セットでついてくるんです。すみませんが、よろしくお願いします」
「いらない。いらないの。この家も、ギボも。いらないのよ。私、省吾さんと二人で生きるって決めてるの。そう約束したの。こんな家、売り飛ばして、二人でタワマンに住むって、二十年間、ずっと、ずっと」

 よろめいた真里子は、ごつんと、背後に積み上がったティッシュの箱にぶつかった。ばらばらと、ティッシュボックスは崩れ落ち、床に散らばる。

「こんなとこに置いて! 私なら、絶対に、こんな汚い家にしないのに!」

 混乱と怒りが入り混じる。泣きたい気持ちで、真里子は怒鳴った。

「ああそれ。夫が買ってくるんですよ」

 雅代はまた笑う。

「知らないですか? 彼、ストック中なんですよ」
「ストック、中?」
「ストック中毒。あなたの家には買ってこないんだ」

 ボソリと、雅代は言った。呆然とする真里子を無視して、雅代はスタスタとキッチンに向かう。ガラリと、納戸を開ける。

「ヒッ」

 真里子は悲鳴をあげる。天井まで、ティッシュやトイレットペーパーがみっちりと積み上がっている。段ボールに入ったままのものも山のようにあり、スーパーのバックヤードのようだった。

「ああ、あと、あの人、自己啓発中です」

 雅代はリビングに踊るようにして舞い戻り、はらりと、本棚にかかったレースを捲る。天井まで達する高い本棚には、ぎゅうぎゅうに本が詰まっていた。「成功法則」「引き寄せ」「できる男の法則」「手帳で夢を叶える」「風の時代にやるべきこと」「明日死ぬとしたら?」などといったタイトルが、ずらりと見える。真里子は目眩がして、後ろに傾く。

「あ、あと。あの人、衣装もちで。廊下に積み上がった衣装ケースは、全部彼の服なんです。クローゼットに全く入りきらなくて。彼、ファッションにもこだわりがあるみたいで。お引っ越しされるのなら、そちらもお持ちくださいね」

 雅代は穏やかな口調で言う。

 もう五十代になった彼が、あんな本を買い集めて、せっせとティッシュやトイレットペーパーを納戸に積み上げて、廊下にはみ出すまで服を買っている。この二十年間、五十カ国近い国をともに旅行したのに、どうして自分はそのことを知らないのだろうと、真里子は虚ろになっていく頭の中で考える。

 飛行機の中、省吾はいつもカバーのかかった本を読んでいた。タイトルを聞いても、教えてくれなかった。「秒速でPDCAを回す」などの小見出しがチラリと見えて、ビジネス書を読んでいるのだろうと、そんな省吾を尊敬さえしていた。真里子が旅先で鼻水を出すと、サッとポケットティッシュを出してくれた。一体いくつ、備えているのだろうと真里子でも不思議に思うほど、省吾のポケットティッシュが尽きたことはなかった。旅行に同じ服で来たことも、一度もなかった。真里子との旅行のために、毎回服を新調する省吾を、真里子は心底愛おしく思っていた。省吾が新しい私服で現れるたび、自分は愛されている、自分たちの愛は新品のように新鮮だと、心躍らせていたのだ。ここは、その舞台裏だった。真里子は黄ばんだ天井を見上げる。

 真里子に見せる、旅行で見せる、表舞台の姿の省吾をつくり上げるための舞台裏。家というのは、そういうものなのだと、今更ながら思い知る。

 結婚するということは、省吾の両親だとか、省吾のストック癖だとか、くだらない本だとか、ありすぎる服だとか、今夜の煮物を中心としたメニューだとか、バリアフリープランだとか、そういうもの、家そのものを背負うことなのだ。

 ずっしりと、真里子の肩が重くなった、その時だった。

 ウイーン、バン。

 気が遠くなっていく真里子の頭上で、再び鳩時計が作動する。時刻は十六時半。三十分おきに鳴るのだとなあと、真里子はぼんやり思う。

「あの鳩時計も」

 雅代はなぜか嬉しそうに言った。

「壊れてるから買い替えたいんですけど、義母からの結婚記念の贈り物なので、替えちゃだめだって省吾さんに言われてて。このサイドボードも。義実家に代々伝わるものだとか」

 雅代は愛着のかけらもなさそうに、すりガラスのついた古いサイドボードの表面を叩く。サイドボードに載った黄ばんだレースのカバーをつまみ上げ、

「これは義母の趣味のレース編みです。百枚くらいありますから。好きなだけ持って帰ってください」

 いらない、と真里子は口の中で小さく言ったが、言葉にならなかった。

「あ、マンションに引っ越すって言ってましたよね」

 雅代は言い、リビングの隣の部屋へ続く引き戸を一気に開けた。真里子は声にならない悲鳴をあげる。フローリングのリビングの隣は、和室だった。和室は、キングサイズと思しき巨大な介護用ベッドに占領されている。

「こんな狭い家にどうやって入れるんだって、聞いたんですけどね。省吾さんが、ママのためにって、こんな大きいベッド買っちゃって」

 ベッドの後ろには、棺桶のような大きな黒い箱が柱のように立っていた。あれはなんだと、真里子は息を呑む。

「あ、そうだ。さっき、死体を見たことあるかって聞いてましたよね? あるんですよ、私も」

 雅代は言って、棺桶のような黒い箱を開けた。真里子は悲鳴を上げた。死体が、どしんと転がり落ちてきたのかと思った。だけどそれは、ただの位牌だった。

「これ、仏壇です。こんな狭い家に。田舎から送りつけてきて」

 憎たらしそうに、雅代は言う。

 仏壇。巨大な介護用ベッドの奥には、狭い家には全く似つかわしくない、田舎の一軒家にあるような荘厳な仏壇が構えてあった。

「義父が入ってるんで。食事も、毎食お供えしてくださいね。お酒も。毎日、違うものを」

 ぐらり、と地面が揺れる。こんな坂の途中に立てた、斜めの家のせいだと、真里子は必死になって足を踏ん張る。

「それから。省吾さんの弟さん、独身で、働いてないんですよ。もうすぐ五十になるんですけど。それも、面倒見てくれないかって言われてて。頭抱えてたんです。助かります」

 雅代はほっと息をつき、ゆっくり微笑んで見せた。

「この家ごと、どうぞ」

 「いらない」。掠れて、声にならなかった。いらない、もういらない、あの人ごと、もういらない。「家」なんて、そんな重たいもの、いらない、持てない。

「あ」

 不意に、雅代はサイドボードに飾られた家族写真を手にする。

「これは持っていこうかな」

 雅代は愛おしそうに、家族写真を眺める。

「この頃は良かったな。本当に幸せだった」

 写真の中では、父親が浮気していることなんか全く想像さえしていないように、子供たちは無邪気に顔いっぱいで笑っている。背後の雅代も、夫の浮気を知って演技しているとは思えないほど、幸福そうに笑っていた。
 隣の、省吾も。真里子とのビーチで撮った写真とは全く別の顔で、笑っている。アンコールワットで見た仏像のように、穏やかな顔で。

「すみません。私、いちばん、幸せなところ取っちゃいましたね」

 不意に、雅代が真里子をまじまじと見た。初めて、雅代と目が合ったような気がした。雅代は言う。

「子供が小さい頃に、この家で母親をやれて、本当に幸せでした」

 じんじんと痺れる頭を必死に振り絞り、真里子の口からやっと出てきた言葉は、真里子自身も驚くようなものだった。

「ずるい」

 雅代は意外そうに、弛(たる)んだまぶたを持ち上げて目を見開く。

「そうですか? あなたも幸せだったんでしょう、この二十年間」

 介護施設のプリントの下敷きになり、ほとんどテーブルの下に落ちてしまった写真を見下ろして、雅代は言う。

「だったらおあいこでいいじゃないですか。あなたの欲しかった彼の心は二十年間ずっと、あなたのところにあったんでしょう。だったらいいじゃないですか。あなたはモルディブで、私はこの家で。それぞれ幸せな二十年間だったねで、いいじゃないですか。それでも欲しいですか? この家。この家が背負うもの、全部」

 ビーンゴーン。

 再び、ひずんだ音でチャイムが鳴る。省吾さん。省吾さんが帰ってきたのかもしれない。白くなっていく頭の中で、真里子は救いを求めるように、その名を叫ぶ。

「アマゾンでーす」

 廊下からの声に、雅代は「はーい」と明るい声で答える。

「おむつ。二十箱くらいあるんですが。どこに置きましょうか」

 配送業者の声に、雅代は真里子に振り返った。

「いります? おむつ。二十箱」

 真里子の答えは、聞くまでもなかった。

 長い長い坂道を、一人で真里子は降りていく。ガランガランと、スーツケースが坂道に埋め込まれた市花の模様に合わせて、うるさく音を鳴らす。数時間前は、肩で息をしながら、一歩一歩、煮えたぎる怒りの炎を踏み消すようにしながら、意気揚々とこの坂を登ってきた。スーツケースいっぱいに詰め込んだ写真をぶちまけたら、さぞかし爽快な気分になるだろうと、二十年分の悔しさを思い出して感傷に泣きそうにさえなりながら、ずんずんと大股で坂を登ってきた。

 でも今はまるで違う。あんなに急な斜面に感じたはずの坂道は、するすると滑り落ちるように、なだらかだ。このままスーツケースに跨って、スキーのように滑って駅まで行ってしまおうかと、珍妙な想像が浮かぶ。うまく滑れず、スーツケースにしがみついたまま真っ逆さまに落ちていく自分が思い浮かんで、真里子は一人笑う。

「坂道はすごいけど、夕陽だけは絶景なんだよね、俺の家」

 不意にそう漏らした、十五年前の省吾を思い出す。見るまい、見るまいと思っていたが、我慢できずに、真里子は顔をあげる。

 あ、ガンジス川。

 真里子は思う。そんなはずないのに。川なんか、どこにも流れていないのに。坂の上から見下ろした、夕陽に真っ赤に燃える街は、あの混沌としたガンジス川とそっくりだった。

 ゴミも、人間の糞尿も、燃えさかる死体さえも、悠々と飲み込んで夕陽にたゆたっていた、ガンジス川。一瞬、隣にいるはずの男のことさえ忘れて、見入ったことを、真里子は思い出す。死んでしまった人間が燃やされているのを、「すげえ」としか表現できない男と、なぜ自分はここに来ているのだろうと、一瞬思ったことを、不意に思い出す。

 抱きしめて欲しいなんて、あのとき本当に、思っただろうか。さっきまで、テーブルにぶちまけていた写真たちのことを思い出す。

 美しいパラオのスカイブルーの海の前で、鏡のように輝くスイスの湖面の前で、あまりにも荘厳で、飲み込まれそうなアルプスの山脈を前に、本当に、あんな男に抱きしめて欲しいと、あの時の真里子は、思っていたのだろうか。

 あの男がいらなくなったとき、この二十年のことが全て泡のように消えてしまう気がして、怖くてならなかった。だからこそ余計に執着したのだ。二十年間も。だけど今日、とうとう本当に、いらなくなってしまった。

 真里子が真実だと思っていたあの男は、すっかり仮のものだったと、知ってしまったのだから。スーツケースひとつで颯爽と空港に現れる彼は、スーツケースひとつ分の彼でしかなかった。義母だの介護用ベッドだの仏壇だのレース編みだの煮物だの天井まで届くティッシュや自己啓発本や衣装ケースだのを背負っているのが、間違いなく、本当の彼だ。仮で背負える荷物なんか、なんて軽かったんだろうと、真里子は足元のスーツケースを片手で持ち上げてみる。

 嘘だろうが演技だろうが、お互い幸せな二十年間で、良かったねで、いいじゃないですか。私はこの家で、あなたはモルディブで。雅代の言葉を思い出す。

 安息の地だと思っていた省吾の正妻の座は、憧れていたものとは全く違っていた。だったら自分は、これから、どうしたらいいのだろう。逃げ出すように、慌てて抱えて逃げてきたから、写真が一枚、アスファルトに落ちる。斜面を、写真は踊るように滑っていく。慌てて追いかけて、拾う。もはや不要のものとなったはずのそれに、まだ執着している自分がおかしい。

 メルボルンのセントパトリックス大聖堂だった。息を呑むほど美しいステンドグラスを前に、真里子は時が止まればいいとさえ、思った。それは、あの男が隣に居たからだろうか。そうではない。確かにあのとき真里子は、感じていたのだ。人智を超えた何かと交流しているような感覚を。それを掴みかけた瞬間に、男は無遠慮に隣から話しかけてくる。

 真里子の耳元に、「ロマンチックだね」だの「真里子の方が綺麗だ」だの「愛してる」だのと囁いてくる省吾を、あのとき真里子は、確かにうざったいと思ったのではなかったか。

 スウェーデンの可愛い北欧雑貨の店を、あれこれと口出ししてくるうるさい省吾なんかホテルに置き去りにして、一人でゆっくり見たいと、思ったのではなかっただろうか。

 何かが掴めそうな気がして、真里子はもう一度、夕陽に燃える街を見下ろす。話しかけないで欲しかった。今、この瞬間、何かが掴めそうなその時に、誰にも話しかけないで欲しかった。そんな瞬間が、この二十年のうち、いったい何度、あっただろう。

 待って。今なら掴めそう。真里子は街を見ながら、息を呑む。今、喉元まで込み上げているものの正体が分かったのなら、この二十年の意味は、まるで別のものに変わるのではないか。象の背中の硬い皮膚の感触も、馬頭琴の音色も、モヒンガーの味も、鍾乳洞の空気の冷たさも、ジョン・レノンの壁に触れた時の手のひらの感触も、例え隣の男がいなくなったとして、誰にも奪えないものなのではないか。

 真里子は坂の途中に突っ立ったまま、ポケットからスマートフォンを取り出す。毎日のようにアクセスしている海外旅行アプリをタップし、明日の日付を入力する。「旅行人数」は「二名」のまま固定されている。

 真里子はスライドし、「一名」に固定しなおした。混沌と、あらゆるものを飲み込んで燃え続ける真っ赤な街を目掛けて、スーツケース一つを引きずり、走って坂道を駆け降りた。

(了)

2023年1月10日・51枚


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