よきものでいなくてはいけないという属性

今朝の電車で、車椅子の女性が乗ってきて、車椅子専用スペースに行った。
それまで専用スペースにいた人達はさっとどいて、特に何も問題はなかった。車椅子の女性と付添の年配の人(親と思われる)は「すみません、ありがとうございます」と大きめの声で言い、私はその後20分くらい電車に乗っていたがその人が降りるまで社内は静かで車椅子の人も「すみません、おります。ありがとうございます」と言って降りていった。

話は変わるが私は電車の中でよく化粧をしている。

これはもう20年くらい前から。

すみっこでこそこそと5分くらいで終わらせているが、やっている。

コソコソやってはいるがこれを悪いことだとは思っていない。
まあいいことだとも思わないから堂々とはやらないが、悪いとも思っていない。だからいい年をした今でもやっている。
理由は、朝早いから。
化粧のためにそこからさらに早く起きようという気持ちにならない。
自分にとっての化粧はその程度のものなので、長い通勤時間の5分くらいの間にささっとやってしまうのがちょうどよいのだ。

マナーが悪いと思われるだろうが、なぜそれがマナーが悪いかというと身だしなみは家で整えてくるものだし公共の場で私生活が見えることをするのは他人の気分を害するからというのも、理解できなくはないが、なんとなく納得いっていない。

匂いがする、粉がつく、髪の毛がつくなど物理的に他人に迷惑をかけるものでなければいいのではないかと思う。以前髪の毛のスプレーを車内でやっている人がいてそれは臭くて迷惑だからやめたほうがいいと思ったが、空いてる車内のすみっこでこそこそ化粧をするくらいなら実害という点では別に咎められるほどのことではないと思う。
むしろそれを咎めるほうのメンタリティを考えると「女の内側を見せるな」または「自分は女の外側を見せる対象とされていない」ことに怒りを感じているのではと思い、それはまたマナーとは別の問題だと思っている。

ここで車椅子の女性に話は戻る。

もしここで、車椅子に乗った女性が、車内で化粧をし始めたらどうなるだろう?

車内で好きな場所に移動することのできない車椅子の人は端に寄ることもできない。

嫌でも注目を集めやすい中で、化粧などをしようもんなら、誰かが見ていて、このご時世SNSにアップされ非難されるだろう。

そしてそれはマナー違反であり、それを障害者が堂々とやっていたらそれこそ叩く方は「我こそは正義」という顔をしてめちゃくちゃに叩くだろう。

女性、母親、障害者は「良きもの」として存在している限りは「良きもの」として扱われる。時には過剰に持ち上げられる。

良きものとはそれらの属性に「ふさわしい」とされるイメージに沿った行動をしそこから逸脱しないということである。

女性であれば、女性らしく、おとなしく男性に従順で、美しく、出しゃばらず、男性からみて守りたくなるような雰囲気を保ちながら、賢く(でも男性ほどは賢くなく)、芯の強さをもち(しかし随所では男性にはかなわないという思いをもって男性を頼り)、彼らにとって都合のよい存在でいること。である。

母親であれば、優しく、母性があり、時に子供を守りしつける厳しさをもちながらも包容力があり、命がけで子供を守る強さがあり、常識的なふるまいをし、きちんとした大人であり、家事も完璧にやりながら仕事もし、しかし夫を立てながら夫を支え、かつ女性としても見れるくらいの美しさがあればなお良い。というものである。

障害者であれば、従順で、純真無垢であり、遠慮がちで権利を主張せず、健常者の邪魔にならない程度の行動をする、健常者と同等の権利を訴えないというものである。

これらを読んで、「バカバカしい」と思ったならばそれはまともである。
たとえ、自分がそのイメージにあてはまる人間だったとしても、それを他人に押し付けることは「バカバカしい」ことなのだ。

これらのイメージは誰が決めて、誰がそれを守って欲しいのか?誰のためのイメージなのか?ということを想像してみる必要がある。
これらのイメージは「誰にとって」都合がよいのか?

なぜ、それらのイメージから逸脱する人がいると腹が立つのか?
腹が立つ人間がいるのか?
想像する必要がある。

女性であれ母親であれ障害者であれ、または女性で母親で障害者でもある人も、それらをひっくるめて彼女らは単なる人間である。

個々の人格があり、上記のようなイメージあう人もいるだろうが合わない人もいたり、それも様々だ。

しかし、それらの属性を持つと、それらのイメージから逸脱すると叩かれる対象となりやすい。

そうであってほしい、という思いを同調圧力として受け、そういうものなのだ、と受け入れて自分を変形させていく。

そして、それらの属性のイメージを演じているうちにそういうものだ、という思いを「当たり前」のものとして内面化していく。

それらのイメージを押し付けてくるのは男性だけではなく女性もいるというのはそういうことだと思う。

社会的立場が弱い存在は、イメージに沿った存在でいる以上は、ギリギリ存在することができる。
しかし、その中では理不尽な目にあいやすい。
彼女たちが

「自分は人間だ」

と主張したなら、不思議な顔をされるだろう。

だって、彼女らは健常者男性ではないのだから。

彼らにとって人間というのは健常者男性を指すものだから。

だからこそ、逸脱していく必要がある。

構造の中にいて、それを内部の人間が変わっていく変えていくのは大変な労力がいる。
しかし、その労力に負けていたら何も変えることはできないだろう。

私は女性で母親でもあるが、お行儀が悪く、毛深く、怠惰で真面目で、まあまあ親切な心をもつ40代半ばの人間である。

それ以上でもそれ以下でもない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?