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東山道武蔵路について考える、てか、妄想( #最近の学び)

 唐突なのですが、東山道武蔵路が走っている『武蔵野台地』について、から。
 武蔵野台地は、ながっぽそい東京都の真ん中辺の北、多摩から埼玉県南部にかかったあたりにある。
 武蔵野台地は、四角い・・平行四辺形で、川に囲まれてる。
 ってか、火山灰の台地のヘリを水の流れが~ふわっと堆積した砂を押し流して、台地が残っちゃった、という感じ

 台地を囲む形で登場する川は、➀多摩川~これは南西(から南)。②入間川、これは北西。③北東から北(これは多少のゆがみで)は、荒川・利根川と、これもすごいキャラクター。そして東は④海(川じゃないけど水ってことで)である

 ④は、台地を囲むっていう意味では、今では海じゃないけど。東京の市街(低地)がひろがっている。台地のヘリは、温暖なときに海進があって、侵食されてしまった。その後の小氷期(天保の頃は50センチも下がっていたそう)に埋め立てが進んで、もう、海の気配もなくて・・・海は東京の街の向うへ後退。

 川調べ、教えてくれたのはnoteさん。発見してから、シリーズで読む日々。すごいですっ。

 この台地、『古』多摩川が作った扇状地です。
 なんで古多摩川って言うかというと、1万年前に立川断層※が動いて、多摩川の流路が変ったから。

 さて、残された台地には、もう、多摩川の水(砂も)は供給されない。
 でも、分水嶺的に水は落ちるわけで、今の入間川※は、山塊のふもとをながれる形で、山塊と武蔵野台地を分けた。
 ※下の地図の水色のライン。見えないので、青で影をつけてみました…。
 ※青いポチポチ道は、標高をお見せしようと思って書いてみました。
 先ずは標高差の図、多摩川クジラ公園から川越の伊佐沼公園までのルート

多摩川から伊佐沼公園までの高低差
下の流れは多摩川。八王子とかのほう。上左、水色ラインが入間川

 流路が変わるほどの地震の後、富士山と浅間山が噴火して積もった大量の火山灰は、山となるほどの高さ(でもないか?30mくらいか?)。
 火山灰は、関東に来る頃は細かい塵(重い石は引力で近くへ落ちる)が多くて、少しの水でもやっこされる(どかされるとかなんて言うか…押し流される的な感じ)から、どんどん海へ、水の勢いがなくなれば岸辺へ(岸が高くなる)。
 というわけで、水の流れない台地は取り残され、カステラのように残されてしまったわけです。

 最初は、古多摩川や雨などの力で、水があったと思います。井戸も掘って、生活が成り立つ。
 だけど、時代(1万年だからね…)が過ぎるにつれ、台地は砂漠化していく。
 奈良時代(710年頃〜794年)、府中に国府があり、八王子に寺ができた※
※例:八王子最古の神社(759年>天平宝字3年)といわれている八王子市明神町にある「子安神社」

 その国府へは、内陸を通る東山道から、道が続いていてそれが武蔵路。

 武蔵路は・・・
 なんと、府中から利根川までほぼ、まっすぐ、幅12mの道を通した。
 中国に倣った・・・というか、中国から渡って来た「渡来人」の政府であれば、伝統か?
 さて、12mの道の両側には、水路があった。雨でぬかるまぬよう、排水したのか?旅人のためか?舟を浮かべるほどの巾ではなかったようだ。

マークは遺蹟。黒マークは線からそれている・・・寺社などが多い

 すでに砂漠化していた武蔵野台地は、大変な難所で、たくさん人がなくなり、「悲田処」という救護施設を作るほどだった。
 また、狭山市に井戸を掘り、何カ所も。それがまた、『堀兼井戸』と付けられるくらい掘るのが大変な井戸だった。水場まで到達するにはだいぶ下まで降りなくてはならない・・・しかも、天候とかのそれこれで、枯れることがあったらしい。
 江戸時代の記録で見るような筒形の井戸(釣る瓶式)ではなく、まいまい井戸(水場まで階段(もしくは坂)で降りて行って、桶で運ぶ)。
 現在、遺蹟としてのこる穴は、直径7.2メートル、深さ1.9メートル。
 だけど、水がある場所まで掘ったとしたら、こんなもんじゃないとおもうんだけど。
 武蔵野台地のボーリング図って少ないのでこれ↓でみると・・・5m。だけどこれは、水の豊富な現代の資料だから、どうなんだろう???

 火山灰の土(ローム層)は、崩れやすいから直角には掘れないので、まいまい井戸になったと思う。また、崩れやすい。雨に弱いし・・・埋っちゃ困るから、石垣か何かにしていたと思うんだけど。

 まだ私の想像だけど、奈良時代には、雨が降らなかったり、貯水池の水が枯れたとき(貯水池があったとしてだが)に、堀兼井戸の水を汲んで流したかもしれない。プラスチック(金属でもいいんだけど)の水筒のない時代、どうやって旅の最中、水を確保したのだろう。

「堀兼」は、万葉集で枕詞として使われているほど、有名な場所だった。

 所沢市内の『峰の坂』という場所は、今では道路造成で削られて低くなっているが、当時は高い(そんなには高くないけど)山で、水がある!という目印だったらしい。

 「らしい」ばかりですみません。

 で、地下の水利地図的にいうと、古多摩川が扇状地を作るときに出来た川床は、水を保存というか、その下に落とさないでくれるらしい。ただ、海に向かって下っているので、そこまで行った水は全部流してしまう。途中を止められたら地下に貯水池ができたと思うのだが、川床は火山灰層の下にあるため・・・20mも下・・・昔の人には工事ができない。
 もう一つ。多摩川は暴れ川で、しかも、流れているのが平地なので、洪水の度に流路が変った。過去の流路も地面の下に残って、雨が降ったりしたら使われ・・・、その流路は宙水と呼ばれる。
 武蔵野台地は、北東に向って下っていて、川は東へ流れ、荒川水系となる。
 多摩と所沢の境を流れる柳瀬川だけは、多摩川と並行して流れている。柳瀬側も荒川水系だけど。この辺はどうなっているかわからない。

 というところまで、学んだ。最後の方はまだ途上・・・
 ちなみに、サイクル的には、立川断層の危険時間に入っているらしいです。

 以上、最近の学び。きっと間違っているんだろうなぁ。
 よろしければ、ご指摘くださいますよう。


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