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江戸時代を楽しむ・寄場って何?

最近の学び

 近頃、地域史の勉強会に参加して、図書館に通うようになった。
 150年前のことなのに、言葉が違う、文章が違う、文体が違う、どうも気持ちも理解できない。どこかで、捻じれたか切れたかしているみたいだ。
 今日も疑問は「寄場」について。

 江戸時代もおわるころ(歴史初心者の私は流れは大変そうなので1840年にフォーカス)、『寄場組合村』が発足する。
 実態は、八州廻りという、江戸時代の警察機構の下請組織(自衛組織と書こうとしたけど、まったくそうではないとすぐ理解する、絶対・自警団ではない)だそう。そういう組織になんで「寄場」ってつけるかな?だ。
 私の寄場の印象は、時代劇(チャンバラ番組)の「寄場送りにしてやるからな!」というようなセリフでしかない。

寄場とは

現代の使われ方

 先ず、Wikipediaに聞いてみました!

『江戸時代に幕府が江戸石川島などに設けた無宿者・犯罪者の収容所である人足寄場がその語源である』とあって、後は現代の隠語的「寄せ場」の解説。

Wikipedia

 「寄場」というのは、今でも使われている用語で、その説明(今の使われ方)のためのWikipediaだった。
 私の思っていた意味とは意味がずれていた。私のは、江戸時代の<収容所・再教育施設>みたいなものだったんじゃないかな、って。
 でも、今の意味は、<人寄せ、日給仕事をしたい人を集める(場所)>ことみたい。

江戸時代「寄場」

大衆演劇豆辞典さんにもありました。

江戸時代、比較的軽い罪を犯した者達を働かせた場所で、更生や就業支援の意味もあったため、近代的な刑務所のさきがけとも言われます。人足寄場(にんそくよせば)ともいいます。寄場送りといえばつかまって、寄場に送られることを言います。火付盗賊改の支配下にあり、鬼平こと長谷川平蔵宣以の発案でつくられました。

大衆演劇豆辞典

 あっ、これは私の感じとドンピシャ。そうだよね・・・そっか。
 どうやら検索の方向が悪かったみたいで・・・以下、長谷川様にターゲットを絞ってみました。長谷川平蔵宣以(のぶため)、のぶためっていうお名前だったのかって初めて知りました。いや、どっかで聞いたかもしれないけど、シニアになると何でも新鮮!

長谷川平蔵1745-1795
寛政元年(1789年)、松平定信に人足寄場設置を建言し認められ寄場建設運営の指揮を執り、江戸石川島に収容所を設け、無宿人、刑期を終えた浮浪人などに大工、建具、塗物などの技術を修得させ、その更生をはかった

Wikipedia 一部抜粋

長谷川平蔵の仕事「加役方人足寄場」

 「人足寄場の設立」の文を読んで感動してしまって、みんな貼ってしまったのだけれど、もしダメでしたら教えてください、削除します。

長谷川宣以の名が歴史に残ったのは人足寄場の創設に貢献したことが大きい。後年定信が執筆した自叙伝「宇下人言」には、人足寄場の設置についての記述がある。

人足寄場以前、幕府は無宿人対策として宝暦9年(1759)に江戸の無宿人達を捕らえ佐渡金山の人足として送り込む制度をはじめた。しかしこの対策にも限界があった。さらに田沼の時代、安永9年(1780年)に南町奉行牧野成賢が深川茂森町に設立した無宿養育所というものを設置した。ここに、千数百人を捕らえ放り込み、千人以上が死んだという。

定信は過去の無宿人対策を参考に人足寄場の制度を考え、「志ある人」を募ったところ、名乗りをあげたのが長谷川宣以であった。
寛政元年(1789年)宣以は「寄場起立」と題した建議書を定信に提出し認めらて指揮をとることとなった。

人足寄場の初年度(1789?)の予算は米五千俵・金五百両と限られていた。また、巷に溢れかえっている無宿の可及的速やかな掃討が望まれていた。そのため、収容所をなるべく短時日かつ安価に作り上げることになる。宣以は予算節約のために地ならしなどの寄場建設作業を寄場人足にやらせ費用節約に勤しんだ。
翌年(1790?)、人足寄場の費用は米三千俵・金三百両と減らされた。
この窮状を打破すべく宣以は定信の許可を得て官費を元に銭相場を使い寄場の費用を賄おうとした。
宣以が行った銭相場を使った収入策について、日本中世・近世史を専門とする高木久史が自書「通貨の日本史」の中で説明している。高木は「(定信は)銭高への誘導も図った。実務を担ったのが火付盗賊改・長谷川宣以(平蔵)である(中略)ではなぜ平蔵は導いたのか。財政収入が目的である。銭安のときに銭を買い上げて流通量を減らし、銭高になったところで銭を支出すれば利益が出る。その利益を人足寄場の維持費にあてた」と書いている[14]。

<福祉施設>寄場内には病人小屋一棟も作られた。門、役所、見張番所を設け、対岸の江戸市街と連絡するため対岸の本湊町には舟着場が特設され、寄場には井戸も掘り、熱病を煩う者が多いため人足が希望したというので、稲荷の小祠まで建てられている。
<技術習得>寄場内の収容者は大工、建具、塗物、紙漉き、米搗き、油絞り、牡蠣殻灰製造、炭団作り、藁細工などに従事した。
<出所後の対策>これらの作業に対しての賃金の内の3分の1は強制的に積み立てさせられ、出所時に生業復興資金として渡された。

人足寄場の取り組みは今でいう軽度犯罪者・虞犯者に対して教育的・自立支援的なアプローチだった。定信は人足寄場と宣以について「宇下人言」においてこう語っている
「この人足寄場によって無宿人たちは自然と減り、犯罪も少なくなった。 すべて長谷川宣以の功績である。長谷川は利益を貪るために山師のような悪行をすると人々が悪く言うが、そうした者でないとこの事業は行えない」[15]。

Wikipedia

 1793年老中・松平定信失脚。1795年信以病没。寄場はどうなったのだろう?

 後日調べ > 別の代官により維持され幕末まで、軽微な罰を受けた人の更生に益した。明治になると刑務所にかわった(犯罪を行った人を収容するのは同じ)。<東京>が発展して、巣鴨(池袋周辺みたい)に移転、最終的には府中刑務所へ。<巣鴨プリズン>の跡地はサンシャインビル。

まとめ(「寄場組合村」との関係)

 わかったこと。「寄場」とは単に場所を寄せる(場所に寄せる、かも?)という意味の単語で、寄場組合村の「寄場」は、『村を寄せる(グループ化する)』という意味で、長谷川平蔵が作った「寄せ場」とは関係ない。

 ちなみに。
 この寄場組合村の構成員は、幕末に農兵となって、幕府が政権を掴んでいる間は幕府の命によって、一揆軍と対峙。
 明治政府になったら、政府軍となって、騒乱隊(まぁ、いろいろ名前があるんだけど・・・)と対峙して、新式鉄砲も持たされつつ、一掃していった、らしい。
 ま、関東に残った幕府軍(官軍に対して)は、北とかへ転戦する気概を失って、周りの農家(豪農ってあるんです・・・)・商家に生活費(名目は戦費だけど)を要求する目的があったみたいで、官軍が強気になると、割と総崩れしていったみたい。

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