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【連載小説】狂恋 第15話

 草子は、男と初めて出会った病院に行ってみる事にした。夫と会う危険性も感じたが、それ以上に男に会いたかった。

 草子は何故か、あそこに男がいると信じた。

 逸る気持ちを抑えつつ、草子は病院に向かって走り出した。

 ああ、変わってない。

 草子はついこの間まで、夫の薬を取りに来て、足をブラブラさせながら缶コーヒーを飲んでいた自分を懐かしく思い出した。

 変わったのは自分だ。

 人の人生なんてわからないものだと、草子は何かを悟ったように思った。

 草子は缶コーヒーを買い、いつものベンチに腰をかけ、足をブラブラしてみた。同じことをする事で、男が現れるような気がしたのだ。

 草子は空を見上げた。

 草子は、自分が空を見上げる事を長い間忘れていた事に不安を覚えた。夫と暮らしていた時は、しょっちゅう空を見上げていたのに。

 草子は今の現実が夢だったらいいのかもしれないと弱気になった。

 自由とは怖いものだ。全てを自分で決めなければならない。誰も守ってはくれない。どこにだっていけるが、どこにいったらいいのか自分で決めなければいけないのだ。

 今の草子は、自由が不安でしかなかった。

 草子は心細くなって、下をむいた。蟻がお菓子のかけらを一生懸命運んでいた。

 頑張れ。

 草子は自分に言うように、蟻に言った。

 草子は人の気配を感じた。誰かがあたしを見下ろしている。

 きっとあの男だ。

 草子は泣き出しそうな気持で顔を上げた。

 一瞬にして、草子の心を絶望という言葉が支配した。

 自分を見下ろしている男は、夫だった。

「ここで何してんの」

 草子は蛇に睨まれた蛙のように、指一本動かせなかった。喉の奥がキュッと閉まってしまったように、言葉が口から出て行かない。

「急にいなくなったけど、男出来たの?」

 夫が草子にとって重大な質問を、今日のごはん何?ぐらいのトーンで聞いてきた。

 なので、草子も、

「うん。出来たよ」

 と気軽に答えてしまった。

 しばらくの沈黙の後、夫がいきなり草子の手首を強く掴んだ。ギリギリと手首に食い込む夫の力の強さに、草子は驚きを隠せなかった。

「帰るぞ」

 夫は、草子の手首を掴んだまま、強い力で引っ張った。予想していない動きだったので、草子は簡単に立ち上がってしまった。

 夫は無言で草子を引きずるように歩き出した。それは草子の気持ち等一つも関係ないと言わんばかりの、独りよがりの行動であった。

 草子は足を踏ん張り、手錠みたいに強く掴まれた夫の手をふりほどいた。

「俺に逆らうのか」

「あたしは、もうあなたの所には帰らない」

「離婚するって事か?」

「はい」

「男のところに行くつもりなんだな」

「はい」

 男に会えるかどうかわからないのに、草子は強気で答えた。

 草子の固い決心に気づいた夫は、さっきまでの強い態度が消え、空気が抜けたかのように小さく萎んでいった。

「頼むから帰って来てくれ」

「ごめんなさい」

「靴下がどこにあるかわからないし」

「自分で探してください」

 夫は考え込むように少し黙ったあと、

「わかった。そこまで気持ちが離れてしまったんなら一緒にいても意味がない。じゃあ別れてあげるから、家で話し合おう」

 別れてあげるという言い方が気になったが、今は別れる事が先決だと思い、

「そうね。荷物も取りに行きたいし、一度家に戻ります」

 草子は同意した。

 肩を落として歩く夫の後を、少し距離をあけて草子はついていった。

 そんな二人の様子を少し離れた場所にある大木の陰から百花が見つめていた。

 草子の様子が変だったので、心配して後をつけてきたのだ。

 声は聞こえないが、二人は揉めているように見えた。百花は二人の後をコッソリとついていった。


 草子はもう自分の家とは思えなくなった、何の愛着も持てなくなった台所の椅子に浅く腰掛けていた。

 夫はお茶をいれるよと、今まで一度も聞いた事がない言葉を草子に使った。

 何故夫は、この段階でこんな言葉をあたしにかけるのだろう。

 人は失ってから気づくとよく言われる。失わないと気づかないのは、鈍いだけなのだと草子は思っている。

 相手は日々の生活の中で、少しずつ毒を盛るようにサインを出しているのだ。相手の気持ちが変わった事に気づかないのは、おろかな罪だと思う。

 そんな事を考えている草子の前に、夫が湯呑を置いた。

 草子は喉が渇いていたので、ゴクゴクと勢いよくお茶を飲み干した。

 夫が唐突に笑いだした。

「君は本当に馬鹿だね」

 (つづく)

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