【連載小説】狂恋 第12話
夜景が見える高級レストランに連れて行かれた。
草子の前には、曇り一つないシャンパングラスが置かれている。
つま先まで意識されたポーズで、ウェイターが草子のグラスにシャンパンを注ぐ。
「君との出会いに乾杯」
松野は恥ずかしげもなく、恥ずかしい言葉を堂々と口にした。
「家を出てきたんだね。僕の為に」
「僕たちは出会う運命だったんだよ」
「君の過去は聞きたくない。大事なのはこれからだよ」
次々と松野の口から零れ出る卑しさしか感じない言葉の羅列に、草子はこの場から消えてしまいたくなった。
こんな所でこんな卑しい言葉を聞く為に、草子は自由になったのではないと思う。あの男を探す為に自由になったのだ。
男の命はこうやっている間にも、砂時計の砂が落ちるように減っていっているのだ。
「あの、色々していただいて、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「私、そろそろ行かないと」
「どこへ?」
「人を探さないと」
「それ、男?」
松野の質問は、あたしの大事なものを汚していくように感じる。草子は、この場から早く立ち去りたいという気持ちを抑えつつ、
「そうです」
草子が正直に答えると、松野は再び狂犬のような目になった。
今度は草子は気づいた。松野の目を見て、草子は恐怖を感じた。
そんな草子の表情に気づいたのか、松野はすぐに微笑みを顔に貼り付け、
「へー。男を探してるんだ。もしかして、その為に家を出てきたの」
「そうです」
「ふーん」
松野は面白い玩具を壊されたような顔をして、草子を見つめた。
しばらく、沈黙が続いた後、
「僕が探してあげるよ」
と、松野が声を震わせながら呟いた。
この声は、嫉妬だ。
草子は先ほどの女店員の声を思い出した。
何故、この男は出会って少しの私に対して嫉妬などするのだろうか。草子は再び恐怖を感じた。
「大丈夫です。一人で探せます」
「いいから。僕も探すよ」
「一人で探したいんです」
頑なに断る草子に、松野は怒りを抑えているようだった。
「口紅」
「えっ」
「口紅がとれてる。直してきなさい」
突然の松野の言葉に、困惑しながらも草子は立ち上がった。
「ここ、僕の店だから」
「えっ?」
「逃げるの無理だから」
草子が店の入り口を見ると、さっきまで誰もいなかったはずの場所に、黒ずくめの男達が立っていた。
草子は自分に危険が迫っていることに、ようやく気づいた。
草子はトイレの中を見渡すが、どこにも逃げられる要素がない。戻るしかないのか、あのイボ蛙の元へ。
草子は自分がここ数日で、随分遠くに来てしまったと感じた。お風呂場で夫の浮気に苦しみながら、白いシャツを洗っていた自分が、今は高級レストランのトイレでどうやって逃げるか考えている。
人生とはなんと面白いものなのだろうか。
こんな時なのに、草子は笑いがこみ上げてきた。
あたしはいつか誰かに殺されるのかもしれない。
草子は、鏡の中の顔を見た。口紅がとれかけている。草子はさっき松野に買ってもらった口紅を、グリグリと口に塗りつけた。
そして、
「あたしは自由だ」
と、鏡に口紅を塗りつけた。
そして、無造作に口紅をゴミ箱の中に放り込んだ。まるで、松野に仕返しをするような気分になり、草子は鏡に向かって挑戦的に微笑んでみせた。
松野の元に草子は一直線に歩いていった。
松野は勝ち誇った表情で、草子を見つめていた。
テーブルに戻るやいなや、草子は松野の前に置いてあるフォークを取り、松野の手のひらに突き刺した。
草子は痛みに呻いている松野を一瞥すると、入り口に向かって歩き出した。入り口にいる黒服の男達が、松野の元に駆け寄ってきた。
草子を追いかけようとする男達に、松野は
「いいんだ」
と制した。
「きっとあの女は戻ってくるから」
松野は草子の後ろ姿を見つめながら、嫌な表情で微笑み、手のひらから流れる血をペロリと舐めた。
(つづく)
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