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【連載小説】狂恋 第21話

 松野は何故だか楽しげに笑った。

 草子は頭をあげる事が出来なかった。頭をあげると同時に、今自分の中にわき起こった殺意という感情が抑えられない気がしたからだ。

「頭あげなよ」

 草子は気づかれないように息を吸い込み、そっと吐き出した。何度も繰り返した。そうすることで、自分の中の憎悪を吐き出すかのように。

 草子はやっとの思いで、頭を上げた。

「いつ死ぬの?」

「死にません」

「えー、俺調べたよ」

「調べた?」

「そう。だから君の事は全部わかってるよ」

 急に馴れ馴れしい口調に変わった松野は、本当に蛙なのではないのかと疑うような声で笑った。蛙の鳴き声にしか聞こえない声で。

 吐き気がした。

 草子は、口の中に蛙を入れられたような気持ち悪さに耐えていた。

 この男は、ジローが死んだとわかった途端、草子を自分のものにしようと考えているのだろう。調べたのであれば、ジローの命が短い事も知っているのだろう。

 草子は、こんな男にお金を借りるしかない自分を呪った。

 いつもそうだ。

 自分はあまりにも無力で、人に頼るしか出来ないのだ。夫から自由になったと思ったら、また同じような男が自分に近づいてくる。

 草子は自分が被害者ではない事に気づいた。自分がこういう男達を呼んでしまっているのだ。

 自分が弱いからだと草子は理解した。

 草子は自分が二度と足を踏み入れないであろう高いビルから出た瞬間、息を大きく吸い込んだ。

 強くなるんだ。

 草子は高いビルを見上げ、強く決意した。

 自分の足で立つんだ。そうすれば、誰も自分の中に入り込む事は出来ないのだ。

 私は私だけのものなのだ。

 草子は、その確信に満ちた強い決意を抱え、ジローの元にまっすぐ帰って行った。


 海風が気持ちいい。

 草子は、海の近くの白い小さな一戸建てのベランダで、海を眺めていた。

 この家は古いが、ベランダが広かった。草子はそのベランダに、白いベンチを置いた。

 ジローと出会った病院の中庭にあったベンチに似たものを探して置いたのだ。

 朝起きて、顔も洗わず、珈琲だけ入れて、草子はまずここに座る。海を眺めながら、珈琲を飲むのが草子の一番好きな時間だ。

 海の音しか聞こえない場所。静かで広くて、生きていく力が湧いてくる場所だ。

 毎朝、草子は先に起きて、ここでジローが起きてくるのを待つのだ。

 一緒のベッドで眠っているジローが生きているかどうかを、ここで確認するのだ。

 だから草子は、朝目覚めても横で寝ているジローを確認しないと決めている。

 待っている間の草子の心は、少しの不安と少しの期待でいつも揺れている。それは、待ち合わせで恋人を待っている時間に似ていた。

 今日こそ、来ないかもしれない。

 (つづく)

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