「批評」について考えていること。
「批評」について考えていること。
山本可能さんという「ミッション・インポッシブル」の主人公みたいな名前の方が若い頃私に質問をされました!山本可能さんは現在は「クリエイティブ・ディレクター」をはじめ様々なコンサルや制作の仕事をされています!その時は、居酒屋で、みんなで飲んでいて雑談をしている時でした!
そこで山本可能さんは「批評」というのはどういう意味があるのでしょうか?とものすごくストレートに質問をされました!
たぶん十数年くらい前だったかと思います。私がその頃、演劇批評の学校(世田谷パブリックシアターの「劇評講座」)に通っていて、
2006年から「観劇のレビューブログ」を書いていました!
その「ブログ」は最初、この「note」のようにいろんなことを書いていたのですが、何年か前から基本、演劇と舞台芸術に関するレビューを書くものとして今も続けています!
今年で17年目になります。
そんな私だったからの純粋な質問でした!
それまで批評言語の大切さは何だろう?と考えたことがなかった私は、お茶を濁したようなお返事をしたように覚えています。
ただ、唯一、批評は「批判」や「ディスる」こことは違いますから!ということだけを強調したように思います。
それから10数年が経過して事あるごとに、この質問のことを思い出し考えるのです!私自身、新聞の木曜日の夕刊の劇評、そして金曜日の夕刊の映画評、土曜日の朝刊の書評欄を読むのが大好きで、
これは高校時代から変わっていません。
最初、評論という言葉を知ったのは、高校生の大学受験の模擬試験などをしたときだったような気がしています。
現代国語の問題文の文末に出典が書かれており、
予備校の模擬試験や問題集なんかには、さらに「評論」とか「小説」とか「随筆」とかの現代文のジャンルが記されていました!
高校時代、落ちこぼれの私が、唯一成績が良かった科目が「現代国語」でした!成績がいいと、がんばろう!という気も出てきます!漢字の問題集をやり文学史は私がとても好きなジャンルでした。
しかしながら、「評論文」を読むと頭がこんがらがり読むのに何でこんなに時間がかかるんだろう!と試験のたびに思っていました!
そこから先生の教えなどに従って「朝日新聞の社説」を読み、そして「小林秀雄」を新潮文庫などで購入して読みました!
いちばん最初に購入したものは多分
「モオツァルト・無常という事」
でした。その文庫本は今も高槻の実家に帰ると本棚に置かれています!
その時から新聞の評論記事を読むようになりました!
今も読んでいますが、新聞記事の批評文は字数制限などがあり特殊なものであることが大きくなるとわかるようになりました!
ようやく高校時代にちんぷんかんぷんだった「小林秀雄」の言葉が、50歳を超えて、まずは、小林秀雄の講演の本を読んで理解し、ようやくあの時に購入した文庫本に書かれていることが理解できるようになったのかも知れません。私はそれまでに35年くらいの年を重ねる必要がありました!
先日、2023年3月22日の「天声人語」にまさに小林秀雄のことが書かれており、小林秀雄は大阪の道頓堀でモーツァルトの交響曲第40番ト短調が脳裏に流れた、らしい!
これを読んで、これって映画監督とか映像ディレクターにも同様の感覚があるんやなかろうか?みたいなことを思ったのです。その無意識の美に通じるココロ、なんだかわからないけど気になること、そんなことが絶対にあるということを思いました!批評言語は「そんなこと」を私を含めて多くの人に母語でわかりやすく伝えるという役割があるんじゃないでしょうか?これはわりと批評言語の深淵なのでは?さらには、もう少し簡単で表層的なことかも知れないですが、批評言語は、この作品はこうするともっと面白くなるのではないでしょうか?ここが良かったらここをもっと膨らませるといいじゃないか?みたいなことで作者やクリエイターと言われるアーティストと対話し、その作品をより善いものにしたいという言葉の表出も批評言語というものなのではないでしょうか?さらに、私ならこうする、などと言うのも一つの表現の形式なのかもしれないです!なので、批評言語は決して批判ではないです!批判することが主眼になってしまって良いことは何もない!生きているのが面白くなくなるんじゃないのでは?
そう感じる人は、なぜそう思うのか?を考え続けると、何かが見えてくるのかも知れないです!
演劇や映画を大量に見ていてある閾値を超えると、好きなものの範囲が拡がっていくように思うのですがどうでしょうか?
そして、同時に見たいものを選択する目が鍛えられるような気がします!
野球とかで選球眼がある出塁率の高い打者のように?
「M-1グランプリ」では毎回、審査員が漫才終わって点数を付けて、その後に今田耕司に「どうですか?」と聞かれますよね!
その時に、松本人志さんや、立川志らくさんやナイツの塙 宣之さんなどがコメントをされますが、あれなんかまさに「批評言語」の固まりやと思います。みなさんはどう思いますか?
「漫才」に対する愛、懸命に優勝しようと頑張っている「漫才師」たちに対する愛があってこその発言は、何か漫才のネタや漫才師たちを
いい意味で変えるチカラを持っているのではないでしょうか?
そういえばMCの仕事は、まさに批評言語と対話と会話が、複雑に絡み合い行ったり来たりするものすごく高度な仕事やと思うのですがみなさんはどうお感じになるでしょうか?