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いつか春の日のどっかの町へ

大槻ケンヂ(以降オーケンと呼ぶ)のエッセイのタイトルだ。

この作品はオーケンが40代でギターを始めたことを主軸に、その数年間に起きたことを面白おかしく時には胸を打つような40歳のよりリアルに顔を出し始めた生と死について書き綴った作品である。オーケン自身が「エッセイのような小説」とあとがきで書いているように、事実の中に妄想と虚構が入り混じった不思議な作品である。

永遠も半ばを過ぎて。中島らもの小説のタイトルでもあるこのおしゃれな言葉からエッセイは始まる。この世に生を受けてから死に至るまで80年と考えたとき、40歳はもう半ば過ぎてる。これをもう半分と感じるか、まだ半分残ってるかによって考えが変わってくることが、よっぽど見当もつかず、あまつさえ中二病のように本当の自分はなんだったっけ?と悩み、自問自答を繰り返す。

このエッセイ内では、オーケンの兄、そして小学校時代の同級生ウラッコとハバちゃんが亡くなったときの心情が書かれてある。生は死を受け入れるまで確実に存在するもので、客観的意見が圧倒的強者である現代においてもこの価値観、概念は今も変わらず1か0の世界である。生がある限り死は隣り合わせに存在するにも関わらず、突然の現れるそれに何か特別な意味を付けたがる。同級生二人の死について語っている。

なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろう。40代になってから、同世代の誰かが亡くなると、必ずといっていい程にそう思うようになった。<中略>自分に都合のいいくくりで二人の若き死を、自分のこれからの人生の、何か意味合いとしてモチベ化しようと考える、人としての浅はかさ、したたかさ、計算高さが情けなくてならなかったのだ。

生と死は1か0の世界であり、死んだあとにどうなるかはわからないが、今生きるこの世界は、1か0では決められないことがあまりにも多く、にもかかわらずそれを判断しなければならないことも同様に多すぎる。進学、就職、結婚と人生は選択の連続であり、選択後も我々はその中で競争し、時には中のいい友人や同僚を蹴落としてでも椅子に座らなければならない。中には、本人の意志が届かない場所で、物事が進み、最後に選択だけを迫られることもある。

例えば、政略結婚で親が決めたお見合いの場合は、当人同士には関係のない部分で利害ががんじがらめになっており、断ることが非常に困難であると考える。恋愛結婚が主流となっている現代においては、これを断り本当に好きな人と結婚した場合、それは美徳化されどれだけ後に辛い現実が待っていたとしても英断だったと褒め称えられるだろう。愛さえあればである。

しかし、これを受け入れた場合、事情をよく知らない人からすれば自分の意見がない自立心が欠如した人間であると思われるかもしれない。事情を知る友人からも「仕方ないよ」と言われても本人はきっとどこか負い目に感じてしまうかもしれない。そこに後付でも愛があったとしても。

こういった自分の届かない場所で及ぶ客観的な相対的評価から身を守る方法は、目をつむり耳をふさぐか、自己愛を高めるしかない。前者のように聞き流せれるほど強い人間であれば問題ないが、そうじゃない場合は、とにかく自分を愛して守っていかなければならない。自身の生き方、在り方を認め、肯定してあげる。

自分の世界では自分だけが唯一無二の特別な存在であり、そこから見える景色や価値観だけは他者に鑑賞されずあなただけものだ。それは、親族や友人、あったことや名前も知らない異国の人でさえ変わらない。

ただぼんやりと空を眺めて「あの雲はクリームパンに見えるね。」なんてくだらない話をして過ごすようなことは許されておらず、常に理由をつけてインプット・アウトプットを続け、そしてその価値は他人が評価し、あなたという社会的地位が確立する。こういう仕組みにいる限りは親を質に入れてでも、取り憑かれたように自己愛を高めて自分を守っていかなければならない。時には他者の死さえもモチベとしてでも。

しかし、それでも「なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろう」と思ってしまう自分がその日も、斎場にいた。

オーケンのモチベ化することに対して恥じるということは、美徳への反逆であり、その行為自体がまた新しい美徳を生み出したのはではないか、と思わざるおえなかった。この一度立ち止まりそれについて考えたことが更に風を呼んでいる。

なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろう。

死ぬまで私達は生き残り続けるはずなのに、どうしてその一言だけでこうも物悲しくなってしまうのだろう。これほど自己愛に溢れた言葉も珍しい。

「四十にして惑わず」とは、言わずもがな孔子の言葉である。間違っている。孔子ってやつは何もわかっちゃいない。

わかっちゃいるが、わからない。自分の人生は、実は永遠に続くのではないか?と皆勘違いし、死を意識するときは、それを身近に感じたときだけであり、本来日常生活を送る中で、首に鎌をかけられるようなことは殆どいっていない。そして全員平等に訪れるのが寿命であり、永遠も半ばを過ぎてとは、ふと立ち止まり振り返って「ああ、僕はもうこんなとこまで来てしまったのか。もう戻れないな」と現実を取り囲む不安や焦燥感、期待や希望をくるめた老いのことなのかもしれない。

あと8年で私も40歳になる。ギターは本当にいい音がなるまで40年かかると言われている。オーケンは楽器屋で見つけた自分と同い年のそのギターが「いつか春の日のどっかの町へ」。そんな日が訪れることに思いを馳せて、エッセイは終わっていく。対人関係の煩わしさ、やめられない妄想、新しいことを始める勇気、モチベや自己愛の在り方などが、全体を通して生と死をテーマにオーケンらしい文章で書かれている。あとがきに誰も傷つかないように配慮して…と書いてるように、死は重い。遠い芸能人でも歴史上の人物でもなく、身近になればなるほどそれはよりリアルな悲しみとして現れる。ただそれを悲しみのまま終わらせるのではなく、自分自身に取り込んで昇華することで死者とともに生きていくことができるのではないかと。

うまく生きていくってことはとても難しい。

私は永遠も半ばを過ぎたとき、どう思い、どう過ごし、どう今を振り返るのだろう。それは8年後の自分に聞くとしよう。

終わり

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