「私」から始める――2023年に読んだ本

 年々、エッセイやルポタージュへの関心が高まっている。取材したものも興味深いが、自身の経験を書いたものや生活史は強い力がある。そんな本を基準に、2023年に読んだ本から何冊か選んでみた。

1 比嘉健二『特攻服少女と1825日』(小学館、2023年)

 「レディース」を取り上げた雑誌『ティーンズロード』創刊から全盛期を、雑誌を作り上げた本人が振り返る回顧録。『ティーンズロード』のことはまったく知らなかったけれど、引き込まれほとんど1日で読み終えてしまった。元旦に集まる「ヤンキー」達を追いかけ、レディースの総長に取材を申し込む。繰り出される強烈なエピソードの数々、こんな時代があったんだ!? これは当人しか書けない本。雑誌の功罪に触れているが、シンナーの危険性を呼びかけたり読者からの相談コーナーを設けたり、すごく真剣に雑誌を作っていたことが窺える。雑誌編集者に興味がある人にも(極端な例だとは思うが)面白いと思う。女性たちの支援活動をしている「BOND」の橘ジュンさんが出てきたことにも驚き。

2 星野博美『島へ免許を取りに行く』(集英社(集英社文庫)、2016年)

 そういえば私、去年ついに自動車運転免許を取ったのです。自動車学校に行こうと思ったものの、怖くて申し込みに行けなかった私の背中を押してくれたのが本書の冒頭数ページ。ノンフィクションライターの著者は、行き詰った状況から前に進むため、自動車の運転免許を取ることを決める。考えた末、選んだのは長崎・五島列島にある教習所。馬と犬がいる学校で合宿免許の始まり! そして自分が免許を取ってから読むとわかるわかる、運転の難しさとできたときの喜びが! 何より星野さんが選んだ長崎の教習所と冴えわたる描写が面白い。免許を持っている人も持っていない人も惹きつける一冊。私の感想はこちら↓


3 竹田津実『キタキツネ飼育日記』(筑摩書房(ちくま文庫)、1992年。初版:平凡社、1982年)



「子ぎつねヘレン」の名を聞いたことのある人は多いと思う。『子ぎつねヘレンがのこしたもの』でも有名な獣医師・竹田津実さんのキタキツネ飼育奮闘記。過酷な雪国の生活とキツネの世話の描写に震えつつ、かわいいだろうなと思わず顔がほころぶ部分もあり。雪国出身だが、特に動物と関わることもなければ雪下ろし・雪はねは親に任せていた私は、こんな大変だったか…..とため息。

残念ながら絶版のよう。

4 アーネスト・ゴードン『クワイ河収容所』(斎藤和明訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1995年。初版:新地書房、1981年)



 第二次世界大戦下で日本軍の捕虜となり鉄道敷設に従事させられ、劣悪な収容所で過ごしたスコットランド人の手記。いかに収容所で暴力が常態化し、捕虜には適切な衣食住や医療が供給されなかったかが克明に描かれている。日本軍・日本政府がやったことの酷さの一旦を知ることができる。
 本書の特徴的なところは、酷い状態の収容所でゴードンらが「信仰」(キリスト教)を軸に人間性を取り戻していき、自分たちで大学や礼拝所まで作る過程が軸として書かれていることだ。奪い合いや暴力という人間の面に「絶望」するも、信仰と奉仕をもって生き延びる。「理性」だけでは打ちのめされてしまう現実をどう生きるか? 体験と思索、感情を深く書いている。「信仰」を実践するとはどういうことか、についてとても深い示唆を与えてくれた一冊だ。
 ただ、私は「日本人」で戦後日本でずっと生きてきたため、「どんな酷い状況でも人は希望を失わないのだ」などと手放しに絶賛することはできない。かつてそういうことをした国、謝罪や反省すら放棄する国に住んでいるのだと改めて思った。そして、この本はおそらくそれほどバッシングを受けておらず、対照的に「慰安婦問題」や中国・朝鮮への植民地支配のこととなると途端に批判がくるのは、日本に人種差別意識と植民地主義があるからだ。本書とは別の、泰緬鉄道敷設を題材にした本を映画化した『レイルウェイ』は日本公開されたが、南京大虐殺を扱った『ジョン・ラーべ』は自主上映のみとなった。

5 藤本和子『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』(筑摩書房(ちくま文庫)、2020年。初版:朝日新聞社、1986年)

 立場・仕事の異なる複数の黒人女性の語りを聞き、一冊の本にしたもの。刑務所で臨床心理士として働く女性、刑期を終えた女性、百四歳の女性が語る歴史。英語で聞き、日本語に訳す難しさや、それをアジア人で日本人である読者の自分が読むことの意味に思いめぐらせる読書体験だった。アジア系で、ずっと日本で暮らしており人種差別にはほとんどあったことのない私に、この本の語りは「自分ごと」ではない。でも全く無関係だと思うこともない。

 女たちの拍手の意味はそれだけにとどまらない。わたしの中の牢獄。わたしを縛るものの正体を知りたい。わたしをがんじがらめにしているのは、ウィスコンシン州懲治局刑務所だけなのか。

『ブルースだってただの唄』p.123

 殺人罪で服役していたが仮釈放となったウィルマ・ルシル・アンダーソンが、「釈放前の女たちのセンター」で「わたしの中の牢獄をまだわたしから追放することができない」(p.122-3)と語ると、聴いていた人たちから拍手が起きた。簡単に「わかる」と言ってはいけない。そのとおりだが、違う環境にいる「私」が読んで、異なる立場であることを念頭におきながら感覚を追体験したり、覚えがあると思ったりする。その感覚は大切なのではないかと思う。「平等」「自由」と言われる現代日本で、「わたしの中の牢獄」は何度も目の前に現れた。私もまた「牢獄」を追放できていない。本当は何だって選べるかもしれないのに、どこか諦めさせられている感覚。二者択一しかないように巧妙に見せかける環境。
 全てを「自分ごと」と捉えることはできないが、「当事者」でないことは無関係だとか「わからない」と言い切らなくてもいいのではないだろうか?「わかるしわからない」という状態を、保ったまま考えてはいけないのだろうか。
 そして、「語り」特にマイノリティの「語り」は「価値がない」「恥ずかしい」と思わされやすい。論理的でない、一貫していない、主張が激しすぎる。だから何だというのか。時系列にならない、矛盾した、解決しないかもしれない「語り」をもっと大切にしたいと思った。


 長さや文章の読みやすさでいうと、『島へ免許を取りに行く』、『キタキツネ飼育日記』、『特攻服少女と1825日』、『ブルースだってただの唄』、『クワイ河収容所』の順だろうか。絶版の『キタキツネ飼育日記』以外は手に入りやすいと思う。『島へ免許を取りに行く』と『特攻服少女と1825日』は落ち込んでいるときに清々しいエネルギーをくれ、『キタキツネ飼育日記』は違う世界に連れていってくれ、『ブルースだってただの唄』と『クワイ河収容所』では、記憶を受け取って生きることが差別や暴力をなくすことに繋がるのではないかと思った。出版年はバラバラだ。でも、必要なときに必要な本が来るようになっているんだな、といつも不思議なめぐりあわせを思う。沢山読めなくても自慢できるような読書録ではなくても、いいタイミングで本が来てくれるんだろうと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?