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抗うためのポップな盾 チョーヒカル 『エイリアンは黙らない』

 アマゾンやツイッターが「おすすめ」してくることに馴れてから数年。でもやっぱり偶然に会う本や映画も好き。偶然というより、本に引き寄せられている感じがする。そうして買った本がたくさんある。
 意味のないイベントに出かけほとほと疲れた日の帰り、駅近くのショッピングモールで『エイリアンは黙らない』を見つけた。

『エイリアンは黙らない』

みて、この目に飛び込んでくる蛍光色とデザイン。

表紙にも、「本文より」にも、岩井勇気と犬山紙子の推薦文にも惹かれた。初めて見る本と著者名。でも買わなければと思った。

犬山紙子と岩井勇気の推薦文

こうして、衝動的に買い、眠れない日に読み進めていった『エイリアンは黙らない』。すっかり作者チョーヒカルのファンになった。私にとって、同世代のジェーン・スーのような感覚だ。日常の、誰も口に出さないけれどモヤッてるあれこれを書いているジェーン・スーさんのエッセイ。どれも大好きだけれど、まだ「実感」するには至っていない。仕事や結婚、諸々の悩みと解決方法は親戚やアルバイト先の先輩の話と似ていて、尊敬し面白いと思うもののまだ分からない領域の話。そして世代も違えば「感覚」はどうしても変わってくる。チョーヒカルさんとは歳も近く、ほぼ同世代だと言える。10代の頃の恋愛の話にツイッターやラインが当たり前に出てくる。日本で「女だから当たり前」とされていることに抱く違和感や、写真・自撮りへの葛藤、痩せることこそ全てという価値観に疑問を持ちつつ、でも痩せたいと思うこと。ああ、今の私だ。

 タイトル通り、「黙らない」日々のレジスタンスが書かれる。それは口に出して言うことに加え、「違和感」を「仕方がない」と放っておかないこと。私は特に「お尻のラインはいつ「下品」になったのか」というタイトルの一節が好きだ。スーツを買いに行ったものの、「女性用」スーツは丸いシルエットのふわふわしたものが多いことに気が付く。店員曰く「短いジャケットにパンツだとお尻のラインが見えすぎて下品になってしまう」のだ。

私のお尻のラインはいつ下品になったのか。体のラインが少し出るが出すぎない?それは一体誰の思い描く理想の女性像だろうか。私のお尻を勝手に下品なものとして見ているのは誰ですか?訴えたい。(p.128)

あるいは、「腕毛を剃らない女は女としてない」と言った男性に切り返す「うで毛のはなし」。

生きているだけで大変なのに、より私たちを生きづらくしている意味不明なルールを少しずつでいいから壊していきたい。焦らない。でも絶対に黙らない(p.135)

「女性用スーツはそういうものだから」と流さず、疑問を差しはさむこと。要求される理不尽な「女性なら当たり前」を受け止めないこと。この本を読んでいて思い出した。「女性」とされる私の体はいつも「性的」で「下品」だった。スカートをはけ、でも短くはするな、脚を閉じろ。「毛」があるなんて論外(哺乳類て毛生えてますよね)。制服、スーツ、フォーマルな服装で「女性」に求められることは同じ。それを指摘すると「考えすぎ」だと言われる。でも、だからなんだというのだ。私はその謎ルールで困っているのだ。これは「おかしい」と言い続けていこう。

理不尽さを感じた日に、吸い寄せられるようにして手にした本。本書のなかで「メイクは武装だ」という話が出てくる。私にとっては『エイリアンは黙らない』が武装だ。それもポップで面白くて、でも力強い盾。

ただ一つ、私が考えずに流してきてしまったことがあった。ヘイトスピーチのことだ。中国籍であるチョーヒカルさんが感じるヘイトスピーチへの恐怖を読み、芯が冷たくなった。今まで「またバカなこと言っている奴がいる」と白い目で見てきたヘイトスピーチ。「自分には危害は加えられないだろう」という「余裕」がもたらす無関心だった。ヘイトスピーチが当たり前に行われ、嫌中・嫌韓本が並び、「表現の自由」と言われてしまう国に住んでいる。そこが自分には見えていなかったと思う。これはラッパーのMoment Joon『日本移民日記』(岩波書店)を読んだときも感じた。ジェンダーやセクシュアリティへのヘイト・差別には敏感なのに。でも、誰かにヘイトが向けられそれが「当たり前」にされているということは、自分だって自分が持つ属性のため攻撃されることがあるかもしれない、ということなのだ。それに自分と関係がなくても、誰かが簡単に攻撃される国なんて嫌だ。だから黙りたくないのだ。

『エイリアンは黙らない』チョーヒカル 晶文社
https://www.shobunsha.co.jp/?p=6866


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