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人間じゃない部分

先週の海老カレーは絶品だった。
カレーはやっぱり欧風が好きです。

ついこの間,とても親しい友人に

「harucoさんは,誰にも理解されない自分だけの世界を持ってて
 その世界には誰かが入ろうとしても入れなくて
 でも私はそれがかっこいいと思ってる。」

と言われた。
その友人は,まっすぐで素直で普段は軽い感じの笑いが多いけど,ときどきドキッとするくらい本質を言い当ててくることがあるから,きっと私が普段出していない「私の中の人間じゃない部分」と認識している世界のことを,なにか感づいたのだと思った。かっこいいなんて思ったことはなくて,「私の中の人間じゃない部分」は,「とてつもなく本音」なのに「誰にも理解してもらえない」寂しいパーツとして,今までできるだけ私の内側で抱えてきたものだ。

はじめて「人間じゃない部分」を発見したのは,小学校低学年の夏休みのことだと思う。少なくとも自覚している限りだが。
毎朝,ラジオ体操から帰ってくると,母が台所で朝食を用意しているのが夏休みの日常だったが,その日,母は台所のテレビにかじりついて離れず,テレビから流れる恐ろしいニュースのことで頭がいっぱいのようだった。ジャンボジェット機が御巣鷹山に墜落して,何百人という命がいっぺんに失われたという,あの事件の日だ。朝からずっとそのニュースが流れ続け,母もその日はテレビから離れられないようだった。子どもの私は,それが大変なことが起こったという理解はあったものの,私の中の,私ではない存在が,母に向かってこんなことを言ったと思う。

「現実っていうのは,ただただ,起こっているもんやから,
 それに振り回されるんは違うで。現実は,非情なものなんやから。
 ただ,淡々と受け止めるしかないで。」

その時の母の反応は正確には覚えていないけど,その頃から母は,この子の中には理解できないところがある,という認識を持ち続けているように感じる。

その時母に言った考えは,私の頭の中には全く無かったのに,気がついたら唇が動いて,言葉となって言わされていたという感じだ。
一見冷たい,サイコパス的な考えのものは,今も私の中で,どこか冷めた視点から世界を見てるし,それは決して私の中では嫌な存在ではなく,むしろかなり真理を理解している崇高な部分として存在している。

きっと,人間(の顕在意識)には持っていない領域からくるものなんだと思う。愛とか感謝とか,人間の意識の高いところを,ヒョッと超えたところからやってくるように思っている。

そんな冷徹な世界を,友人はふとした瞬間か,私から感じ取ったのだと思う。きっと,そこと繋がっている人間は,私の他にもたくさんいるんだろうな。子供の頃から,無邪気に周りと馴染めなかった人,どこか違うと感じていた人,いろいろな経験から,人間じゃない部分があるってみんな分かってきてるんだろうな。

友人の言葉をきっかけに,今まで書けなかった「人間じゃない部分」について書いてみた。

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