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すきなものの話。| 誰のための「編集」?


「編集」について考えていて、思い出したことがある。

20歳頃のこと。
(ハタチ、って響きにぞわぞわする。ひょえー)
大学が発行する、受験生向けのカリキュラムカタログ。どんな経緯だったのかは忘れてしまったけれど、学部生としてインタビューを受けることに。
単純に「対話をして、その内容が冊子になるのは面白いよね!どんなものができるのかな?」そんな気持ちで参加した。

インタビューは、大学の(あれは何号館だっけ、12号館...?)ガラス窓で囲まれた丸テーブルスペースに向かい合うかたちで行われた。
この学部で、主にどんな勉強をしているのか、
よくあるこの質問を軸に、
自分がこの学問の中で興味をもった事柄、学ぶ中でさらに興味・着想を得たこと、今取り組んでいること... そんな話をした。
そのタイミングでだっただろうか、自分の授業カリキュラムも提出した...と思う。

質問を受け、その時の私は、自分なりに精一杯伝えたと思う。自分の中で、このように決めてこうやって進んでいるんだ、というものが少なからずあったから。

インタビューとカタログ用の写真撮影を終え、初めての体験は終了した。

そして、その体験からしばらくの後、完成したカタログと対面することとなる。

思ったより大きく取り上げられている、そんな印象。
だけど、紙面に映る自分は、思っていたものと違う。
「あれ?私こんなニュアンスで言ったはずじゃないのに...なんか"とても頑張っている姿"をアピールしているだけみたい...」

哲学、宗教学を知ったことで、ほかの世界にも興味が拡がった。
端的にいえば、そういうことなのだが、何かが違う。紙面の中の自分の回答が、「学部の中の勉強」に当てはめられている感じが、たまらなく窮屈で、いやらしく感じてしまったのだ。

そりゃあ、私の時間割は特殊すぎただろうから、そのまま掲載は難しかっただろう。だけど、この学部でも学部内の学びの他に、学部外のこんな学びもできる、やっている人間もいる、ということを伝えて欲しかった。少し、自分のエゴがあるかもしれないけど、割と珍しい学部であるからこそ、そういう見せ方の工夫って必要じゃない?というか、インタビュー発言とちょっと違うよね...?と若輩者ながら思ってしまった。

ただ、私は一学部生としてインタビューを受けたのであって、「私」という人間に対してフォーカスを当てたものではない。
そこは理解はしている。だけど、ちょっとやはり細かいニュアンスは... あまりに正統派な描き方でなくて、個人の色をほんの少しでも出していく方向性のほうが、学部の"色"や可能性を伝えられるのでは?

偉そうな物言いかもしれないけれど、インタビューから書き起こした原稿、入稿前に見せてもらいたかったなぁ。いくら大学の案内カタログといっても、学部の人間として顔が載り、時間割やらインタビューが掲載される訳なのだから...(そんな一学生がそんな細かいことを...と思われるのを覚悟で言っています。)

今だから思う
インタビュアー ーー 相手は私との対話をどんな風に思っただろう。
私の話も分かりにくかったのかもしれない。
欲しいと思った答えではない、と思ったかもしれない。
ライティングしても、大学側に良いように直されてしまったのかもしれない。
それは全部推測でしかなく、本当のところは分からない。
けれど、何かモノを作る時は、忘れないでおきたい。相手がどう思い、何を話し、誰に何を伝えるのかという目的を。
それと、作り手と聞き手、話し手、それぞれが気持ち良い関係で終われるように。

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