[ショートショート]きょうは外にでることができない
「それにしても今日は暑い」
どこにでもいる普通の名誉教授、杜甫路一人はつぶやいた。記録的速さで梅雨が明け、関東でも文字通り水無月となった。
杜甫路教授は一人、総武線に乗っていた。
「――次は、市川、市川でございます」
自身の数学研究の歴史を振り返る講演の帰り道。学生たちの反応をソーシャル・ネットワーキング・サイト「小鳥たちのさえずり」で調べる。いい講義が出来たであろうか。
「トポロ爺の講義、鬼難しかった」
「はじめはわかる気がするのに最後急に飛ばしてくるよなトポロ爺」
「紐が多すぎて何も見えねぇ」
(やれやれ。トポロ爺とはどうみても私だろう。検索には便利だが、全く隠す気ないな)
血気盛んな学生の頃を思い出しながら、かすかに微笑んだ。そして深い思考の海に潜った――。
総武線は東京都三鷹駅と千葉県千葉駅を各駅停車で結ぶ。東京〜千葉を東西にほぼ真っすぐ横切る長い路線だ。実に39駅もある。降りそびれることを気にせずに思索にふけるにはもってこいだ。
「――次は、四ツ谷、四ツ谷でございます」
ぼんやりと外の景色を目に入れつつも、杜甫路教授の目は遥か彼方、トポロジーの世界を眺めている。
「――次は、新宿、新宿でございます」
まだ、時間がある。杜甫路教授は急にがらんどうになった車内に安堵を覚え、更に思索にふけった。
(最近見たトポロジーの解説動画はとても良かった。メビウスの輪という、紙テープを一度ひねって貼り付けるだけで誰でも簡単に作れる図形を使って、トポロジーの面白さをわかりやすく伝えていた。もう私も名誉教授となったのだから、これからは自分の研究だけではなく市民に数学の楽しさを伝える時間も持ちたいものだな。そうだ、あの図形はどうだろうか――。)
「次は、市川、市川でございます」
(はっ! 三鷹で降りるつもりが乗り過ごしたか?いや、三鷹に着いたら一旦車庫に入るはずだ。)
杜甫路教授は首をかしげた。
(何かがおかしい。いつの間にか車内には自分ひとりだ。一体何が起きているのだ?!)
車内広告に違和感がある。
「チーバくんが……! 右を向いている……だと!?」
杜甫路教授は崩れ落ちた。
千葉県の形をかたどったご当地キャラクター、チーバくんは、常に左を向いていることで知られる。チーバくんの鼻先は東京理科大学のある野田市、チャームポイントであるぺろんと出した舌は、東京ディズニーランドのある浦安市だ。たまに正面を向くこともあるが、例外と言っていいだろう。
杜甫路教授にとっては簡単すぎる問題であった。教授が乗っていた総武線はいつの間にかメビウスの輪に乗り、三鷹と千葉が結び付けられてしまったのだ。しかも、一度ひねって結ばれている。チーバくんが右を向いているのはそのせいに違いない。
「なんという世界に紛れ込んでしまったのだ……」
せっかくなので仮説が正しいか検証するべく総武線に乗り続けたが、やはり終点を迎えることなく進み続けていく。
「私は今、メビウスの輪に乗っているのか……」
トポロジーに人生を捧げ続けた杜甫路教授は、どこか感慨深かった。降りるべきタイミングは分かっている。しかし、もう少しこの世界にとどまっていたい。もしも世界がメビウスの輪なら、私は一体どんな数学を生み出すのだろう。その世界を知りたい好奇心が勝っていた。
そして、杜甫路教授はつぶやいた。
「きょうは外にでることができない」
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