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すゞめ-4


 三度冬が過ぎ、わたくしたちは町の中学に上がりました。

 中学になると、三つの小学校からいろいろな人が集まってきました。学校も、より町中に近づきました。

 その頃には、わたくしはエダさんと並んで、学校でも一・二の成績になっておりました。もちろん、ほとんどの科目はエダさんが一番で、わたくしが一番になれるのは、国語とお裁縫だけでした。

 学校にも慣れ、わたくしには新しいお友達ができた頃、一つ嫌な噂が立ちました。わたくしがそれを聞かされたのは、図画の授業で校庭に出ている時でした。

 校庭の草むらに腰を下ろし、画板を膝にかけ鉛筆を動かしていると、隣に座っていたカレナさんがそっと、耳打ちするように口に手を添えて話しかけてきました。

「ねぇ、メルさんは三組のコギノさんという方と仲が良かったわよね?」

 内緒話のような囁き声に、わたくしは嫌な気がいたしまして、曖昧に頷きました。

「なら、コギノさんが、お妾の娘さんと言うのは本当ですの?」

「……知りませんわ、そんなこと。」

 わたくしはそのお話にどきりとしました。と言うのは、この頃には、わたくしもエダさんの身の上や、一度もやって来ないお父様が、あれほど上等な服を着ておられた理由を、なんとなく察していたからでした。

なら、教えて差し上げるわ、とカレナさんは、自慢げに目を細められました。

「コギノさんのお母様、街の宿屋で女中をなさっていたようなんですけれど、港に来る商船の男の方に気に入られて、しばらくお妾として、街に下宿なさっていたそうなんですの。その時に生まれたのが、三組のコギノさんなのですって。」

「それはどれほど信用できるお話なのです?誰の噂ですかそれは?」

 カレナさんの話し方に、エダさんを見下している心根が透けて見えるようで、わたくしは不愉快になって、つい厳しい口調でそう聞きました。

「まあ、怒らないで。本当のことなんだから。コギノさんのお母様がお世話になっていたという、下宿の娘さんが同級にいらっしゃるのよ。どうも六つかそこらまでしか、下宿におられなかったようだけれど、お名前が覚えがあるって言うので、本人に確認したそうですの。そうしたら、そうだって、コギノさんが……」

 それを聞いて、わたくしは頭が真っ白になりました。

 本人に確認したなんて!それではエダさんは、自分の過去が、こんな噂話にされていることを知っているのかしら。もし、そうなら、なんて酷いことをなさるのでしょう!

 わたくしの頭の中に、教室に一人でいるエダさんが浮かびました。

小学校の時分、参観日にエダさんのご家族は、誰一人いらっしゃいませんでした。何度も参観があれば、親子の顔を覚える児童もおります。もちろん、仕事で来られない父兄も多くおりましたが、エダさんは学年では目立つ人でしたので、特に気になったのでしょう。ある時、エダさんの肩を突っついて、家族は来ないのか?と聞いた男の子がおりました。エダさんはその時は平然と、そうだ、と応えたようでしたが、わたくしはその日の夕暮れ、村の外れの柿の下でエダさんを見かけました。

風に乗って聞こえた、しくしく、と声を潜めた泣き声を、わたくしはよく覚えております。――エダさんは、家で泣くこともできないのです。

「カレナさん!」

 わたくしは膝の画板も気にせず立ち上がっていました。

「それが本当のお話なら、なおさら、噂話にしてはいけないと思います。」

 それだけ言い置いて、わたくしはその場を逃げました。そんな風に、お友達に強く言うなど初めてで、わたくしの胸はウサギにでもなったように、ぱくぱくと身体を揺らしました。

 土で汚れた画用紙を払うと、紙と鉛筆の匂いがしました。

 この日はわたくしたちの組の授業が長引いて、エダさんは帰った後でした。

 誰も残っていない三組の教室には、窓に掛かった遮光カーテンが、しん、と重たく掛かっておりました。


「エダさん!」

 呼びかけると、大きな柿の木の太い枝に腰掛けていたお嬢さんが、振り返ってわたくしを見下ろしました。

「エダさん、わたくし聞きました。なんだかよくない噂が流れていますが、エダさんは気にする必要はありません。わたくしは信じませんから!」

 エダさんは涼しい目で、わたくしを見つめていました。わたくしは、目をそらしませんでした。少しして、エダさんはついっと海の方に目を向けられました。

 この村からは山と山に挟まれた港町と、海が小さく見下ろせます。沖は茜色、手前は山の影で紺色になった海には、港に戻る船が何艘も見えていました。エダさんにつられて、海を見ていると、木の上からわたくしの名が呼ばれました。

「わたくし、大学に参りますわ。」

 エダさんは、あの凛々しい目で、海を見通しているようでした。

「女も賢くなければなりません。職を持ち、自分の力で生きていかねばなりません。でなければ、美しさしか、価値が無くなってしまいます。それは、男の方の世界の代物です。

男の方と対等になるには、美しさを、生きる元手にしてはいけないのです。」

 エダさんは海の方を指し示されました。

「わたくしの父は、この海の外の地で働いているそうです。わたくし、母のようにはなりません。この港を離れて、父の働く地で、父と対等に、自分の手で食い扶持を稼ぎたいのです。」

 エダさんの言葉は、噛みしめるような、強い決意が滲んでいました。エダさんはわたくしの方を振り返りました。

「メルさん。あなたは賢い方です。わたくしの母のような生き方だけは、しないでください。勉強して、高等学校まで進みましょう。そして、行けるなら大学まで進むのです。」

 それだけ言うと、エダさんはまた、夕暮れの港に目を戻しました。

 わたくしは、エダさんの言うことの、全てはわかりませんでした。エダさんには、強い確信があるようでしたが、わたくしには、その確信が持てなかったのです。

 けれど、夕方の空に見上げたエダさんには、眩しいくらいの力がありました。エダさんの平均より小さな身体に満ちた力は、その柳のような目から、背中から迸っているようでした。

 わたくしにはそれが、大きく強い翼に見えました。エダさんの背中には、鷹のような力強い翼が生えている。柿の木の上に羽を休めているエダさんは、いつか、その大きな翼に風を受けて、遠い大地に向かって羽ばたいていく。わたくしには、その姿が見えるようで、それがとてもカッコよく思えました。

「ええ、わたくしも、エダさんのようになりたいです。」

 わたくしはエダさんに憧れ、その背を追って勉強に励みました。


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