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古都クラクフに根付く因縁

カツカツと乾いた音が、軽快に鳴り響く。
私の手捌きは安定感があり、いつものルートの歩みを進めていく。
歩みといっても、私自身の足ではなく、私が握っている手綱の先にいる2頭の馬の8本の脚である。

私の父は、立派な警官だったと聞く。
リビングには、父が馬と一緒に中央広場で胸を張って立っている写真が飾ってある。
近所からは尊敬の眼差しで見られていて、あまり口を開かない母親も、父のことになると一家の誇りのように話していた。

そのためか、私は幼いころから恵まれた子どものように扱われることが多かったと記憶している。
事実、お金や体験に困ったことはなく、トラウマになるような出来事もなかった。
唯一あるとすれば、馬術に関することであった。

自分の記憶か、昔の写真から捏造されたものか判別つかないような頃から、馬とともに育った。
この頃はとても馬が好きだったし、街中にも大きい大人が馬に乗っているのを見かけることが多かった。将来の夢を聞かれたら、父のように警官として中央広場を馬に乗って巡回すると答えた。

「警官になるんだったら、馬なんてやめろ。」

本当にこんな言葉だったのかは分からない。内部の事情を知る、警官である父からの言葉だった。いま、推し量るのであれば、警官としていいキャリアを歩むことを望むのであれば内部で昇進していくために勉強をしろということだったのだと思う。

それからの私は、狂ったかのように馬に乗り始めた。
それは、昔のような楽しい体験ではなく、なにかを超えるための手段が分からないままガムシャラに続けねばならない呪いのようなものだった。

20歳になった今、将来の夢を聞かれたらなんて答えたらいいのか全く分からなくなった。とにかく遠くに行きたくて、1年のギャップイヤーの後は大学でアジア史について勉強している。
そして、とりあえずは観光客向けの馬車の運転手をしている。

「ここ全然英語通じないな。」
「あれ、ユーロじゃないんだっけ。カードなら使えるか。」

先ほど客に取った同じ歳くらいのアジア人が、後ろでなにか喋っている。
大学の勉強のおかげでところどころ聞き取れるけれど、わざわざクラクフまで来るようなやつがユーロ使えないくらいで文句言うなよとしか思えなかった。
そうか、3月か。アジアの大学は3月の卒業間近によくヨーロッパに旅行に来る。稼ぎ時であることはありがたいことだ。

「Dziękuję」

馬車から降ろした時に言われたので、少し面食らった。
私も「ありがとう」と返すと、スマホを見せられた。
アウシュヴィッツの写真とポーランド語で「ここまでの行き方を教えてくれ」とあった。

私は英語が喋れるので、英語でいいよと思いつつスマホに向かってポーランド語を吹き込んだ。
「バスで1時間くらい。大きなバス停に行けばアウシュヴィッツ行きが出ているよ。行く前には少しだけ歴史も調べてみてね。」
一応、客商売なので少しの愛想とともに回答をした。

アウシュヴィッツには、学校の授業として行ったことがあったけれど、あまり好きな場所ではない。
好きな人はいないだろうが、ただ空気が重かったり殺風景なだけだったらまだいい。
どうしても、これは同じ人間がやったことだと思わされてしまう。それは、自分の意思とは関係なく同じことをやってのけた人の血が、自分に流れている事実を強く突きつける。

努力で自分の人生は変えられる、そんなことをよく聞く。
それも一つの事実ではあると思う。
しかしながら、変えることができない、生まれ持ったものというものは必ず存在する。私の父が、馬に乗り続けていたように。

アウシュヴィッツのせいではないけれど、なぜかクラクフは少し空気が重い。中央広場にも活気はあり、街が綺麗なことは間違いないが、それはエネルギーを発散するような明るさではなく、脈々と受け継がれてきたものを大切に、それぞれの役割をキッチリ担っている美学のようなものから生まれてくる美しさだと感じる。

背負っているものの重さから逃げ出したくなるけれど、それを撥ね退けて誇りに繋げることができる日は来るのだろうか。

サポートしてもらたら、あとで恩返しに行きます。