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かごめ ep.7

   第四話 後ろの正面、だあれ?


 ……目が醒めたら空気があんまりにもひんやりしていて、佳奈はベッドからすぐに出たくないくらいだった。体を丸めて、寒い日だ、と胸裏で唱える。そしてある期待が芽生える。期待に突き動かされるようにして窓辺に近寄っていき、そっとカーテンを横に引いた。期待通り、薄暗い空から雪が静かに降っていて、辺りは白く染まっていた。雪景色を見せてくれるのなら、寒いのも耐えられるかもしれない。
 今日は特別な日になるらしい。佳奈は他人事みたいに思う。
 あの日のことから、佳奈は少しも離れられないでいる。忘れないこと、佳奈にできることはもはやそれくらいしかなかった。


 入学して最初の内はよかった。この学校は三年間合計の成績で進学先が大きく左右されてくるから、いい成績を保ち続けなければならない。反対に言えば、最初躓いてしまっても挽回の機会は残されている。佳奈に求められたのは、最後まで保ち続けることだった。
 結果的に一年の終わり頃から脆くも音を立てて崩れていった佳奈の牙城は、彼女の望んでいた志望先への推薦をもたらしてはくれなかった。卒業を間近に控えた今、なんとか進学できる大学があるだけでも安心だと、意識の低いことを思っている。
 寮の部屋、窓から見慣れた風景を眺め、ぼんやりと高校生活を思い返してみる。このまま終わらせていいのか、という声なき心の声は確かに聞こえる。佳奈はずっとその声に怯えていた。
「どうしたの、佳奈。アンニュイな顔をして」
 佳奈の部屋には、いつもの決まった顔ぶれが揃っていた。その一人、同級生で陸上部部長の麗華が問いかける。麗華は三年間ずっと中の上くらい、という安定した成績を残して、本人の納得のいく進学先を得られたようだ。
「そりゃ、もう卒業なのだから。アンニュイにもなるよ」
「そうだよね。三年ってほんとあっという間。この学校に来なくなるのかと思うと、不思議な感じ」
「どこからも遠いからね、ここは。麗華は大学でも陸上続けるの?」
 麗華は少し考える素振りを見せてから、「続けるつもり。部に入るか、同好会にするかは迷っているけど。それか、これを機にまったく別のことを初めてみてもいい」
 別のこと、か。佳奈には陸上以外に打ち込む麗華の姿が想像できない。
「ダンスサークルとかいいかも」
「社交ダンス?」
「ううん、そうじゃなくて、ストリートダンスと言おうか……ヒップホップな感じ」
 知らなかった、と佳奈は驚く。麗華にそんな興味関心があったなんて。
「高校でもダンス部入ればよかったじゃない」
 ベッドに座って、参考書だかに目を落としていた宮永祐実が口を挟む。彼女は演劇部の部長で、佳奈とは対照的にじわじわ成績を上げていった。演劇部では、二年生までは男役を任されることが多かったが、最後の舞台ではヒロインを好演して有終の美を飾った。
「うん、少し迷ったけど――ダンス部はそんなに真面目にやっている風ではなかったから」
「でも、莉奈がいた頃は活発だった気がするけど」
 読んでいた漫画から顔を上げて、今度は安島真夏が口を挟んでくる。真夏は調理部所属で、彼女もまた部長――ただ、調理部は部員数ほんの数名だけだが。真夏は二年生から転入してきた珍しい生徒で、頭はいいためすぐに頭角を現した。しかし、極度の運動音痴が成績の足を引っ張り、そんなにやっかまれない存在ではあった。料理上手な彼女は絶対にいい奥さんになるだろうと、佳奈は密かに思っている。
「莉奈、なんでダンス辞めて、漫画研究会に移ったのだろう」
「確かにあの子、漫画をこよなく愛しているけれど。センスがあったから、もったいないわよね」
「あんまり辞めた理由言いたがらないけど、麗華が言うように、部の雰囲気と合わなかったのかな」
 でもこの間、と真夏がなにかを思い出す。「でもこの間、朝休みの音楽室で、踊っていたよ。莉奈」
「一人で?」
「踊っていたのは、莉奈だけだけど。絵梨花がピアノで伴奏して、しかも後輩の子が歌を歌って。さながらセッションみたいで、魅入ってしまった」
 誰もが真夏の話を意外に感じた。そのセッションがどのくらいの頻度で行われていたのか分からないが、少なくとも莉奈は、部を辞してからもダンスの練習を続けていたらしい。
(それなら、やっぱり部の雰囲気が嫌になったのかしら)
「そういえば……さあ」
 祐実が思わず、という感じで呟いてしまい、三人に視線を向けられるとばつが悪そうな表情を浮かべた。「いや、暗い話になるのだけど、一年の冬頃に亡くなった同級生がいたよね。ふと思い出して」
 掌にじわりと汗。その話になってしまうのが、佳奈にとってどれほど厭わしいか。
 麗華がおもむろに頷いて、「瀬尾かごめさん、よね。憶えている。結構な騒ぎになったから。関わりは薄かったけれど、私たちの高校生活を振り返るときに、もしかしたら真っ先に思い出す出来事になるかもしれない」
「そうだね。――ほら、秋の舞台で、茉莉花がオリジナルの作品に挑んだじゃない。あの考想の基になったのは、彼女の死だったみたいで」
「そうなの!」
 佳奈は思わず声を上げる。舞台を観ていたが、あのことと結び付けられなかった。
「まあ、基の基、という程度なのだけど。もうすぐ卒業だけど、どうしてあんなことが起こったのかなって、今でもさっぱり推測がつかない」
 ああ、ごめん、真夏。祐実が蚊帳の外にされていた真夏を気にかける。「真夏には少しも関わりのない話だった。この話はもうやめようか」
 二年生からこの学校にいる真夏は、とある女生徒の死も後から聞かされたことで、かごめとはなんら接点がない。
 別の話題へと移っていく中、佳奈はかごめに思いを馳せ続ける。なにげない風を装って相槌を打ちながら、スカートをぎゅっと握りしめた。


 あの、与謝野先輩、と声をかけられ、佳奈は教室へ向かう足を止めた。声の主と向き合うと、色白の女生徒が緊張した面持ちで佇んでいる。佳奈には面識がない人だった。
「私、一年の吉田栞といいます。先輩、ご卒業おめでとうございます」
 今日は卒業式。途方もなく長く続くと錯覚していた高校生活も、こうして終わりを迎えると随分あっさりしている。大切さに気付くのはいつもそれを失ってからだ。
「どうもありがとう……」
「実は、有志の団体で先輩方をお祝いしたくて……卒業式の後、少しお時間いただけませんか」
 礼儀正しい、しっかりした子だ。戸惑う部分も捨てきれないけど、そんな風に誘ってもらえて悪い気はしない。
「大丈夫だけど――」
「よかった! 卒業式が終わりましたら、屋上へ来てください。ほかの先輩方も誘っていますが、来るときは絶対に一人で来てください。理由はすぐに分かると思いますから」
 それでは、よろしくお願いします。そう言い残し、栞は慌て気味にその場を後にした。有志の団体と言っていたけれど、どういう顔ぶれで構成されているのだろう。どうして彼女が誘いに来てくれたのだろう。屋上でいったいなにをするのだろう。佳奈の脳裏にさまざまなことが過ぎる。不可解な点も少なからずあるけど、彼女が言うように、行ってみればすぐに分かるのかもしれない。
「屋上か……」
 ぽつりと独り言を漏らしてしまう。高校生活最後の思い出があの場所で生まれるのなら、どこか象徴的ですらある。佳奈は改めて教室へ歩き出した。見送られる側の卒業式はもうすぐだ。泣かないと決めているわけじゃないけれど、たぶん泣かない。
 そしてその予想通り、卒業式は恙なく終了し、佳奈は卒業証書の入った筒を胸に抱いて、そっと人々の輪から逃れた。俯き加減で講堂から渡り廊下を抜けて、校舎へ。普段、皆が使っている幅の広い階段を上っていくと誰に遭遇するか分からないから、最奥の裏階段を使った。喧騒があっという間に遠ざかる。
 階段を静かな心持ちで踏みしめていたら、少し先を行く誰かの背中が見えた。知っているような――そうだ、と佳奈は思い出す。
(そういうことか……二年前のこと、陰で調べ回っているって噂になっていたものね。もしかしたら真相にたどり着いたのかもしれない)
 だとしたらそれはすごいことだ。よっぽど想像力豊かなのだろう、彼女は。佳奈は前を行く少女と同じペースを守って、やがて順繰りに目的地へ足を踏み入れた。空がすっきりと晴れている。屋上に来るのはかなり久しぶりだった。あの日以来、ということはないけど、それでも最後がいつだったか曖昧だ。風がやや強めに吹いて、スカートを揺らす。佳奈は乱された髪を耳にかけ、その場にいる顔ぶれをじっくりと眺めた。眺めるほどに、さっきの気付きが確信に変わる。
 誰もが浮かない表情で、微妙な距離を保ったままでいる。佳奈の少し前を行っていた少女がその中心までゆっくりと移動して、まず口を開いた。芝居めいたところがまるでない、フラットな語り口で言葉を紡ぐ。
「三年生のみなさま、ご卒業おめでとうございます。そして貴重なお時間をいただいてしまってすみません。――ですが、大事なお話がありますので、どうかご容赦ください」
 まず、と少女――文芸部の阿南綾音は、左右を確かめた。綾音の傍には三人の女生徒がいて、その面持ちは対照的だった。
「こちらは、私と同じ二年生の若松澪南」
 この状況に興味津々といった顔を崩さないまま、ぺこりと頭を下げる。
「それからこちらは、二人とも一年生です。髪の長い方が吉田栞。短い方が渡邉美津紀」
 一方、二人はかなり硬い表情をしている。栞は佳奈を誘いに訪れた少女だ。無理やり駆り出されたのだろうか。綾音は、強引そうには見えないけれど。
 綾音は順番に呼んだ人たちと目を合わせていく。「それでは、平岡莉奈先輩」
 初めはダンス部だったが、漫画研究会に転部した、莉奈。
「八十島絵梨花先輩」
 合唱部、莉奈の踊りにピアノの音色を添えていた、絵梨花。
「本田美波先輩」
 陸上部のエース格だった、美波。
「毛利和美先輩」
 剣道部元部長。綾音に意味深な忠告を残した、和美。
「そして、」佳奈と綾音の視線が交錯する。「与謝野佳奈先輩」
 呼ばれたのはこの五人だった。一人足りない、と佳奈は咄嗟に考えてしまう。
「もうほとんどの方がお察しかと思いますが、先輩方の卒業をお祝いするためにこの場を設けたわけではありません。私がこのところずっと調べていたある事件について、みなさんにお話しておかないといけないな、と考え、今日を選びました」
 卒業生たちは誰も口を挟まない。神妙に成り行きを見守っている。
「ある事件というのは、先輩方が一年生の頃、その冬に起きた事件のことです。一人の女生徒がこの屋上から転落して命を落としました。生徒の名前は、瀬尾かごめさん。今の私と同様にたった一人の文芸部部員でした。彼女の死は公には自殺、と受け取られています。
 私はこの件に関して、拭い切れない違和感というか、すぐには納得できない部分があると思ったのです。自殺ではなく、不慮の事故か――殺人の可能性も視野に入れて、少し調べてみました。その結果、少しずつ見えてきました」
「私たちを疑っている、ということ?」
 ようやく話を遮って口を開いたのは、絵梨花だった。いつにない、険しい表情を浮かべている。
「話を最後まで聞いていただければ、わざわざ来てくださった理由が分かります」
「でも、最後まで聞く義務はない」
 私はもう帰る、と吐き捨てた絵梨花の腕を、隣にいた莉奈がしっかりと掴んだ。
「莉奈……」
「もう少し聞いてみよう」
 それだけ言って、後は無言でなにかを訴えかける。二人の間で意思の疎通が図れたのか、絵梨花はため息をついてから立っていた位置まで戻った。
「じゃあ、あなたは、かごめは自殺していないと言いたいの?」
 美波が恐る恐る、といった感じで問いかける。
「はい」
「それは、どうして」
 綾音は寸の間、視線を落とした。「まず、遺書が見つかっていない点。それから、文芸部の部室に残されていたかごめさんの作品を読んで、確信に変わりました」
「部室に残っていた……?」
 佳奈が声を発する。
「はい。装丁がしっかりしていたので、ほかの本に紛れてすぐには気づきませんでした。――その作品は素敵な恋愛小説で、未来への希望に溢れていました。舞台はこの高校がモデルになっているらしく、登場人物も、もしかしたらモデルがいるのでは、と思わせられるものがありました。
 読んでいて胸が熱くなるような内容で、こんな話を書いた人が果たして自ら命を絶つだろうか、と強い疑念を抱いたのです」
 生前のかごめが書き残した作品を佳奈は読んだことがない。ほかの面々もそうだろう。本好きなのはなんとなく知っていたけど、話した回数も数えるほどで、どんな作品を綴っていたのか想像もできなかった。
 恋愛なら、彼女は自分のことを書いていたのかしら。
「自殺ではないだろうと確信が持て、私はある人に釘を刺されたことで、かごめさんのことは『事故』でもないと思い至ったのです」
 綾音に視線を向けられると、これまでずっと黙りこくっている和美が顔をしかめた。
(和美のあんな顔、初めて見た)
 佳奈にとって和美はいつも明るいムードメーカーで、不機嫌そうな表情なんて垣間見せない子だった。それが、この場では苦虫を噛み潰したような面持ちで腕を組んでいる。
「毛利先輩に、この事件について関わらない方がいいと忠告されて、かえってこれはなにかある、先輩はなにか知っているのかもしれない、と考えたのです」
「それじゃあ、」そのタイミングで上ずった声を発したのは、栞だった。「その人は誰かに殺されたって言うのですか? ということは……」
 栞はさすがに言葉の先を濁す。おそらく、ということは、殺人犯はこの中にいる、と訊きたかったはずだ。
「毛利先輩をお呼びしたのはそれで分かったけど、ほかの先輩方は? どうしてお呼びしたの?」
 さりげなく進行するみたいに、澪南が問いかける。綾音も当然そう問われるだろうと分かっていたらしく、表情を変えないまま説明を続けた。
「今日お集まりいただいたみなさんには、共通点があります。この学校においてなによりも重要なこと――それは成績です。希望する大学へ進むためには、この学校では、三年間の成績などで勝ち抜かなければならない。
 それにもかかわらず、ある時期から上位につけていた成績を一気に落とした人たちがいました。それが平岡先輩、本田先輩、与謝野先輩、毛利先輩。加えてその時期というのが、一年生の冬から二年生の春にかけて。つまり、かごめさんが亡くなった直後です」
 それから、と絵梨花の方を向く。「それから八十島先輩は、そのタイミングで一か月ほど休学しています」そして、改めて全員を見据えた。「一気に成績を悪化させてから、やがて本田先輩や毛利先輩、八十島先輩は調子を取り戻していきましたが、平岡先輩と与謝野先輩は結局最後まで元の順位に返り咲くことは叶いませんでした。また、平岡先輩については、ダンス部から漫画研究会へ転部した点も気になるところです」
 彼女たち以外に成績を大きく下げた生徒は存在しなかった。同じ学校の同級生が亡くなったことはそれなりにショックではあったろうが、かごめは周りと深く関わっていなかった。彼女の死が影響をもたらしたのだとしたら、それは事件の当事者として、かごめと一時的に関わりを持ったためではないか。
 綾音はそんな風に推理した。
 卒業生らは沈黙を保っている。佳奈はそれぞれの顔を思い浮かべ、みな、事件当日に起こった出来事を、自らの目で見たものを、思い返しているのだろうと踏んだ。
「この中の誰かがかごめさんを手にかけたのだとしたら、それは果たして誰なのか。一人なのか、複数なのか。動機はなんだったのか」
 綾音はもはやオブラートにくるむことなく、話を進めた。「結局、そこから先の点については、確証を得られるものはなにもありませんでした」
 澪南が目を瞬く。「なにも分からなかったの?」
 綾音は俯き加減になって、「証拠はもちろんなにもなくて、なんとなくこういう経緯なのでは、というふわりとした部分までで留まっている。事実を知っている人間によって語られる機会がない限り、私はたぶん結論にはたどり着けない」
 どうして、と佳奈は訊かずにいられなかった。
「じゃあ、どうして私たちを呼んだの?」
 綾音と目が合う。彼女の目は澄んでいる。混じりけのない強い光。
「先輩たちが、このまま卒業してしまっていいのかと、葛藤しているはずだと考えたからです。自殺として片づけられたままでいいのか、と。
 私はかごめさんと言葉を交わしたこともないです。それなのに、なぜ調べ始めたかというと、同じ文芸部所属として、かごめさんが浮かばれないと感じたからです。友達が多くなくて、孤独な生徒だったから自殺をしてもある程度納得されて、やがて過去の出来事として風化していってしまう。
 かごめさんの見ていた世界もあったのに。あの死は不幸な事件だったかもしれない。なんらかの形で決着をつけないまま終わらせてしまいたくないと強く思ったのです。
 できればみなさんに、あの日なにがあったのか話してほしいです。自首してほしいとか、罪を償う罰を受けて欲しいとか、そんな風には思いません。ただ、はっきりさせたいのです」
 胸を打たれる心地だった。かごめにも見ていた世界があった。彼女が抱いていた夢はなんだったのだろう。彼女はどんな恋をしていたのだろう。どんな気持ちで卒業の日を迎えていただろう。すべてはもう、推測の域を出ない。
 佳奈にはそれらが悲しい。悲しくてやりきれない。
「……もう、いいのでは」
 莉奈がぽつりと漏らした。視線が集中する。「きっともう、時効だよ。私たち、このまま卒業していいはずがない。ちゃんと話す機会はきっと今しかない」
「そうだね」
 絵梨花が同調する。「かごめは友達じゃなかった。だけど、同級生だった。この世界の片隅の学校で、偶然同じ時間を過ごすことになった、それだけでもう充分関係していた」
 話すべきじゃないか、そんな雰囲気が流れ出す。黙したまま抱え続けていくには、身近な存在の喪失はあまりにも重い。
「あなたはすごいね」
 和美がやっと彼女らしい笑顔を見せた。諦めを目に浮かべて、綾音を捉える。「すごく、変わっている」
 気づけば既に空が夕焼け色に染まりつつあった。屋上を暖かくしていた春の気配が、また少しずつ冬に浸食されていく。
 佳奈たちは語り出す。あの日に起きたことのすべてを。

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