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溢れる想い 十話

 当然ではあるけれど、保健室に辿り着いたところで、中に入らせてはもらえなかった。インフル患者を隔離しているからだ。だが、先生から大志の状態を訊くことができた。――高熱があるようで、病院に行ってみないことには判断できないが、おそらくインフルエンザだろう、ということだった。
 さっきまで、普通に話していたのに。少し、きつかったのかもしれない。おれは、そのサインにまったく感づけなかった。
 今回の文化祭、沈んでいたウチのクラスに発破をかけたのはあいつだった。その大志が、まさか一日目の前半で戦線離脱してしまうとは。
 その後の日が暮れるまでの時間は、おれにとって、あってないようなものだった。だから、文化祭一日目の終了を、おれはぼんやりとしたまま迎えた。
「水野君」
 余韻なんかに浸ることなく、真っ先に帰途へ就こうとしたおれを、優しい声音が引き止めた。
「松井――」
 松井だった。
「蒔田は? 置いてきていいのかよ」
 そんなおれの問いには答えずに、彼女はいきなりおれの手を掴んだ。そのためらいのなさにおれはドキッとする。
「ま、松井?」
「水野君、喫茶店に行かない? 私がおごってあげるよ」
「え、なんだよいきなり……」
「いいから、行こう」
 言葉の強さと同じくらいの強さで手を引かれた。逆らう理由もないので、されるがままに任せた。女子の手ってこんなに柔らかいものかと考えていた。

 学校から一番近い喫茶店に、おれたちは入った。
「別に、おごりじゃなくていいぞ。無理しなくても」
 松井が席に座って早々、財布の中身をチェックしたから、そう言っておいた。
「ダメよ。お金ならあるから、おごられなさい」
「――分かったよ」
 それ以上反論しても仕方ないから、頷いた。
 九月に入っても残暑が尾を引いていた。店内はわりと涼しいが、ここに来るまでにだいぶ汗をかいてしまった。松井は制服のボタンを一つ外し、鎖骨の辺りを露わにした。じっとりとした汗は、白いシャツの上に下着のラインを透けさせていた。相変わらず、何を着てもエロい。
「おまたせいたしました」
 それぞれが注文した飲みものが運ばれてきた。おれはアイスコーヒー。彼女は、アイスココア。大人だね、と注文のときに彼女は感想を漏らした。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
 おれがストローに口をつけたタイミングで、彼女は唐突に立ち上がった。曖昧に返事をして見送った。
 なんとなく、窓の外に目をやる。ここは、学校から近い場所に位置しているけれど、登下校の際に通りかかる人は少ない。住宅街から離れ、駅へと向かっていく途中だからだ。その駅は、この間の夏休み、海に行くときに集合場所としていたところだ。
 あれから、まだそんなに経っていない。なのに、とても空白の期間ができてしまったような気がする。インフルエンザが猛威を振るったのはあっという間だったし、いつもと違う状況を受け入れる準備もないままに、今日まで来ている。
 そうだ、大志もいなくなってしまった。
 ちょっとした喪失感。大げさかもしれないけれど、意外と堪える。
「ごめん、ごめん」
 トイレから、松井が戻ってきた。――座るとき、心なしか普段より胸がよく揺れた気がする。たぷん、と。
 おれはそっと目で確認すると、汗でじっとりと湿ったシャツに彼女の胸が透けていた。まるで隠せていない。丸見えだ。
 ひょっとして、とおれは考える。トイレに行っていたのは、下着を外すためだったのかもしれない。理由は少しでも涼しくなりたいから、としか思えないが、ちょっと普通ではいられなかった。彼女を真っ直ぐに見られないし、見ようとすると、どうしてもその方に目を向けてしまう。
「はあ、アイスココア、おいしい。のどが渇いてると、余計においしいね」
「ああ、そうだな」

 これは、おれから言った方がいいのか。それとも、言ってはまずいのか。――でも、とても平然と言う勇気はなかった。
 シャツにぴったり張り付くくらい大きいのがいけないのだ。汗をかくくらい暑いのがいけないのだ。
「ねえ、水野君」
 彼女が身を乗り出したことで、その大きな二つのおっぱいがテーブルの上に乗った。より、視界に近くなる。
「明日もがんばろうね。今日と同じくらい。いや、今日よりももっと」
「今日よりも――」
 ようやく、彼女がおれを励まそうとしているのだと理解した。まあ、薄々は感づいていたけれど、喫茶店に誘ったのもそのためだったのだろう。
「塞ぎこんだままじゃ、島津君に怒られちゃうよ。だから、さ」
 おれは今にも噴き出しそうだった。なんてもったいない女なのだろう。こんなに優しい言葉を、いい言葉を言っているのに、その見た目とまるで噛み合わない。残念ながら、おれの心はまったく震えない。
 それでも、ありがとう、と声に出して返したのだった。

「じゃあ、またね」
 結局、別れ際まで下着を付け直さなかった。汗はもう引いてきたとはいえ、乳首の箇所が明らかな点となって浮かんでいる。
「……松井、下着はつけた方がいいと思うぞ。ここからは、人目も多いだろうし」
 やっと、平然とした振りで忠告できた。
 彼女は目を見開き、「うそ、ばれてたんだ」
「ごめん、なんとなく分かった」
 すぐに言わなかったことをなじられるかと思ったが、彼女はそんなことは言わなかった。
「じゃあ、今からつけるから、ちょっと見張ってて」
 両腕で胸を抱える。そんな格好しないでほしい。刺激的過ぎる。
「え、見張れって、ここでつけんの?」
「ほら、早くしてよ」
 鞄からさっと取り出したのは、ブラジャーだった。おれはそれから目を逸らして、とりあえず背中を向けて近くに立ってやり、盾を担った。これでいいのか分からなかったが。
「ありがとう」
 つけるのは、意外と早く終わった。「じゃあ、今度こそ。また明日」
 手を振って、ご機嫌な様子で遠ざかっていく彼女に、また明日、と大きな声で返した。
 そういえば、松井もインフルに罹らないな、とそのとき思った。


 背の高い女子もまた目立つ。美脚を持ち合わせていて、顔もそこそこかわいかったら、なおさら。
「あ、水野君。おはよう」
 こっちに気づいた上野が右手を挙げる。人の少ない校舎の一階ホールの中で(焼きそば屋はここに陣取っている)、彼女の姿は他の誰よりも目がいった。
「おはよう。早いな」
「まあね。意識が高いから」
 朗らかな笑みを浮かべる。朝から安心させてくれる。
「あ、怜奈も来た」上野がおれの向こうに笑顔を投げる。「怜奈、おはよう」
「おはよう」
 前田も来た。続々と、生徒が揃いつつある。文化祭二日目が始まる前の、学校にしては静か過ぎる朝。
「薫子、マスクしなきゃダメじゃない」
 そう指摘する前田は、最初からマスクで口元を覆っている。
「はいはい。まったく、これじゃ接客で笑顔を振りまいても、効果は半減ね」
「そんなことないって。ちゃんと気持ちをこめれば、相手には伝わるよ」
 おれはなんだか不思議な立ち位置だった。いつもなら、たとえば昨日なら、おれは大志とだべっていた。ホールのどこか、落ち着けるところで。
 でも今は、ほぼ中心部で、女子二人と一緒になっている。こういうところでも、今が平素と異なる状況下なのだと実感する。
 改めて、不在者に思いを馳せる。調理班を仕切ってきた委員長、蔵本、そして大志。
 すでに罹って、今は無事に戻ってきた人たち――上野と、蒔田。
 健康なまま乗り越えてきた人たち――前田、松井、会沢。それから、おれ自身。
「がんばろうぜ」
 会話の流れにそぐわない言葉を不意に投げた。だが、二人は笑顔で受け止めてくれた。
「もちろん」
「島津君の分も、ね」
 遠目で、松井が登校してきたのが確認できた。彼女なりのやり方で、おれを励まそうとしてくれた。相変わらず、環境の物足りなさは充足できないけれど、とりあえずいつも通りを心がけるのがきっと最良の策なのだろう。

 偶然というものはあるのだな、と身を持って知った。
「水野君、怖くないの?」
 隣で肩を縮ませているのは、前田だ。おれの手をぎゅっと握って。昨日の松井といい、二日続けて女子に手を握られるとは。しかも、今度はお化け屋敷という最高のシチュエーションで。
「怖くないだろ。意外だな、前田が怖がりなんて」
 内心、怖がりなのは嬉しいけど。必死におれの手にしがみつく彼女は、いつにも増してかわいらしい。
 ――そもそも、どうして二人でここに来ることになったのか。それはやはり、偶然の結果だった。
 お昼どきを迎える前の時間帯、人数はそこまで必要ではなかったから、何人かが遊びに出かけていた。残ったメンバーが、午後の開いた時間に出かける。午後組の中に、おれや前田、上野らがいた。
 しかし、今日も午後の自由時間を迎える直前で、戦線離脱するクラスメイトが出てしまった。おかげで、少し人数に余裕がなくなった。
「これだと、とても回せない。誰か一人でいいから、休憩なしで残ってくれないかな……」
 悲痛な面持ちで会沢が告げた。ほんとうに、人が少なかった。
「じゃあ、おれが残るよ」さっと、手を挙げた。迷いはなかった。
「水野、いいのか?」
「ああ」
 大志もいないし、と続けてもよかったが、あえて理由は口にしなかった。ただ、ほんとうは昨日も結局回れなかったから、少し惜しい気もした。
「ダメだよ」それを遮ったのは上野だった。「水野君が身を挺する必要はない。私が残るよ。私は、昨日回ったし」
「それだったら、私も同じだよ」前田も言った。「薫子はいいよ。私が残るから」
「でも……」
 そんな健気な三人の狭間で、会沢は幾分困っていた。「うーん。気持ちは嬉しいけど、そんなにはいらないからな――」
「じゃあさ、公平にジャンケンしない?」
 これは上野の提案だったが、この後もまた一悶着あり、最終的な妥協案としてジャンケンが採用された。
「いい?」上野が顔触れを見渡す。「負けた一人が、ここに残るんだよ。勝ったら、めいいっぱい文化祭を楽しむ」
「分かった」
 前田が力強く頷いた。
 女子には何か通ずるものがあったらしい。おれも頷いておいた。
「最初はグー、ジャンケン――」
 ――そして、こうして二人でお化け屋敷にいるということは、負けたのは上野だった、というわけだ。
 よかった、水野君が負けなくて。そうなってたら、後ろめたかったから。
 涼やかな笑みでそう言った上野は、イケメンだと思った。女子だけど。
 おれが残るのがスマートな形だったと思うけれど、でも、おかげで前田と一緒にいられるのだから、おれは喜ぶべきなのだろう。実際、心から喜ばしい。
「キャッ」
 横から骸骨の格好に扮した人が現れて、驚いた前田がおれに抱きついてきた。――やばい、冷静さがどこかへ行きそうだ。
「ごめん」
 謝って離れたが、繋いでいる手は放さなかった。もしかしたら、彼女は無意識で繋いでいるのかもしれない。
 ああ、この時間が永遠に続けばいいのに。このお化け屋敷が、出口のない、永遠に続くものだったらよかったのに。
「水野君」
 前田が、目を潤ませておれの目を見つめてくる。すがるように、真っ直ぐ。
「置いていかないでね、私のこと」
 心がとろけそうだった。

「あー、怖かった」
 永遠に終わらないお化け屋敷なんかなかった。でも、もう十分だった。
「怖がりなのに、なんで入ろうなんて言い出したの?」
 提案してきたのは前田からだった。
「それは、ほら、怖いもの見たさ、っていうか」
 好奇心が旺盛なのだろう。それは、おれがよく知っている彼女の性質の一つだ。
「ちょっと、あそこで休もう。疲れちゃった」
 彼女が指し示した先にあったのは、上級生のクラスがやっていた喫茶店だった。また喫茶店か、と思った。
 もちろん、学生がやる以上、クオリティの高さには限界がある。だが、値段は圧倒的に安いし、居心地のよさは侮れない。
 二人がけの席に、向かい合う形で腰掛けた。
「アイスコーヒー」
 前田が先に頼んだ。水野君は? と目で問うてくる。
「すみません、アイスコーヒー二つで」
 女子の先輩が頭を下げる。「かしこまりました」
 喫茶店の中は、おれたちと同じように、はしゃいで疲れてしまった人たちが多いようだった。校内で、休憩場所を提供できるのはここくらいだからだろう。
 外は、たくさんの声で溢れている。文化祭を楽しむ声、青春を謳歌する声。中止になっていたら、決して存在しなかったその声たちを、おれは聞くことができた。
「でも、楽しかったね。いっぱい叫んじゃった」
 前田が笑いかけてくる。ほんとうに、愛おしい。くどいようだけど。
「まあ、おれもけっこう楽しめたかな」
「ほんと? それなら、よかった」
「――もうすぐ、文化祭も終わるな」
「また」彼女は呆れたように笑う。「そんな寂しいことを言って」
「悪い」
 おれは詫びる。
「なんだか、不思議だね」
「何が?」
 おれが尋ねる。
「来られない人がいて、来られた人がいて。その結果として、水野君は島津君と回れなかったけど、代わりに私が、水野君と回れた」
 何にも起こっていなかったら、こんなことなかっただろうね。彼女の言葉は、まさにおれの考えていたことだった。
「ああ、不思議だな」
「おまたせいたしました」
 アイスコーヒーが二つ、運ばれてきた。
「これって、神様の悪戯なのかな?」
 愉快そうに笑みを浮かべる。
 神様の悪戯、ってことは、それは運命ってことだ。おれたちがこうして二人でいるのは、運命のお導きだった、そういうわけだ。そこまで勝手に思った。
「空からこの状況を見て楽しんでるのかもな、神様は。さて、どうなるか見物じゃ、みたいな」
 じゃ、ってなによ、と彼女は笑った。いや、なんかイメージ、とおれは答えた。
 アイスコーヒーに浮かぶ氷が、きらきらと光を弾いている。黒い液体の中で、透明感と清涼感を抱いている塊。
 二人の距離がいつもよりずっと縮まっていることを感じた。おれは目の前の好きな人から目を逸らさない。今は、じっと見つめていることに決めた。

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