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かごめ ep.2

 佐々井が不意に部室に現れたあの日から、彼は毎日姿を見せるようになった。とはいえ、最初から顔を出すことはなく、終わりの十五分前くらいにふらりとやって来て、綾音となんでもない話をして下校時刻となる。習慣になるくらいそれが繰り返され、綾音はいつしか、佐々井が部室へ足を運びに来るのを待ち遠しく感じるようになっている自分を見出した。
 佐々井は相変わらず話しやすい。だけど、お互いに「瀬尾かごめ」については触れないでいた。綾音は心のどこかで、触れたら最後、この習慣はなくなってしまうだろうと分かっている。だから、少なくとも綾音から切り出すことはできない。佐々井から言及される日を待つだけ。
(それに、澪南ほど気にしていない……)
 いろいろあったのかもしれないが、所詮関わりのなかった過去の人。知ったところでどうなるものでもなさそう。
 そんな日々の折、襞を綺麗にしたスカートをひらひら揺らし登校すると、綾音の机の中に便箋の切れ端が紛れ込んでいた。綾音はなんら思うところもなくそれを抜き出し、几帳面な字で書かれている言葉を目で追う。周囲は級友たちの話し声でざわざわとし、切れ端を手にしたまま硬直している綾音はそれらから切り離されたみたいだった。綾音は何度かその文面を舌で転がしてみて、やがて首を傾げる。その表情に畏怖はなく、ただ当惑している様子だけが窺える。
 日々は何気なく過ぎてきた。なんでもない日と強いて思うことで、綾音はこの学校の暗い部分を意識しないでいられた。幸い、出る杭になる要素は少なく、暗い部分とは無縁でい続けられるはずだったのに。当惑だけだったのが、少しずつ別の感情も立ち上がってくる。
(どうして私が)
 端正な字で、昼休みに体育館裏に来てほしいという指示があった。差出人に心当たりはない。学校で最も目立たない存在の一人と言っても言い過ぎではない綾音を貶めようとするなんて、誰が。
(だけど、それなら「瀬尾かごめ」も同様だったのだろう。特段秀でたところもなく、推薦枠を脅かす存在じゃない、一介の文芸部員というだけだった。――それなのに、どうして彼女は死んだのだろう)
 ぞっと、綾音の背筋を冷たいものが走った。もしかしたらかごめは――悪い想像に頭がくらくらしてくる。一人で体育館裏を目指しているけれど、澪南か佐々井を呼ぶべきだったのではないか。そう感じても、引き返さなかった。きっとひどい勘違いをしているのだと、自分に言い聞かせたいがために。綾音は一人で向かう。
 体育館裏は陽当たりが悪く、いつもじめついていた。暗がりの方へそっと足を踏み入れる。踏まれた枯れ枝が音を立て、綾音の心臓は早鐘を打つ。体育館の端から端まで歩いてみたが、人の姿はなかった。ただの悪戯だったのか、綾音はそう思い始めていた。足取りも自然軽くなる。
 体育館の終わりからプールに行けるようになっていた。授業で水泳をやるのはもう少し先だけど、水泳部が日々使うためにずっと水は張られている。塩素の匂いを嗅いで、やがて訪れる夏の気配に触れた。階段を数段上がって、プールサイドに出る。綾音は運動音痴で、中でも水泳が苦手だった。なんとか免除させてもらえる口実はないものかと、本気で探している。
 水に浮いた枯葉を拾おうとして手を伸ばしたそのとき――綾音は背中に強い衝撃を受けた。そして次の瞬間にはプールの冷たい水の中へ身を投げていた。泳げないから手足をばたつかせてもがき、そうすることで自分の落ちた側は浅く、容易に足がつく場所だと確かめられた。
 急なことに理解が追いつかないまま水面から顔だけ出し、校舎へと続く道を捉える。既に小さくなっていたけど、遠ざかっていく女生徒の後ろ姿が見えた。一度でも振り返らないかと睨んだけれど、それはずっと背中だけのままやがて見えなくなった。見覚えがあるような気もする。しかし、誰だったのか判然としない。
 頭が冷静さを取り戻し始めると、水の冷たさが身に堪えた。まだ春先、とても浸かっていられるものではない。水を吸って重くなった制服に難儀しながら、なんとか地上に戻る。風に吹かれ、あっという間に全身は悪寒に囚われた。おかしくもないし、悲しくもない。それでも笑えるような、泣けるような気になった。
「綾音?」
 ふと、思いがけない近さから耳に馴染んだ声がして、顔を上げた。すぐ傍に澪南がいた。心配そうな顔をして、綾音の二の腕をそっと掴む。
「どうしたの、こんなにびしょ濡れになって。誰かに……」
 でも、その先は言わないでいてくれた。澪南の両の瞳には薄っすら涙が滲んでいる。彼女の大きな目の縁から今にもこぼれ落ちそう。
 その瞬間、どっちつかずの綾音の感情は、涙を溢れさせる、という結論へ至った。泣くのは随分久しぶりに思える。いい作品に触れて、静かに涙が頬を伝う、程度はあったかもしれない。だけど、こんな風に内側からこみ上げてくるのは久しくなかったことだ。
(澪南は、ひょっとしたらこんな思いをずっと抱えていたのかもしれない……)
 澪南は飄々としていて、周りに流されない性質だと思われがちだ。それは偽りのない彼女の側面なのだろうけれど、入学以来学年きっての秀才で、妬みや嫉みを抱かれやすいのを煙に巻くため、という部分もあったかもしれない。綾音の知らないところで澪南はずっと葛藤し、恐怖していたはずだ。
 二人して涙を流し、綾音は澪南に連れられて学校を早退した。そして案の定、体を冷やしてしまったことで風邪を引いた。


 数日ぶりに登校しても、まるで空白期間なんて一秒たりともなかったように、すぐにかつての平凡な日常が戻ってきた。授業を受け、お昼ご飯を食べ、部活の時間になる。望んでいた扱いではあるのに、どこか拍子抜けする思いも否めない。
 日常を生きながら、綾音は周囲をよく観察した。誰が綾音を貶めたのか。その動機は。そして今どんな動きが水面下であるのか。考え出すときりがない。どこかに「違和感」は落ちていないか。
 職員室に部室の鍵を借りに行くと、佐々井は生徒の一人と話していた。肩まで達する黒髪、少し猫背気味。佐々井の隣に腰掛けて、彼の話を熱心に聞いている風だ。頻りに頷いて、たまに顎に手を当てる。
(剣道部の部長の、確か毛利先輩だ)
 綾音が近づくと、背中に目があるのかと思うような頃合いで佐々井は振り向いた。
「お、そろそろ来る頃だと思っていたよ」
 部室の鍵を渡される。それだけで、また元の向きに戻った。……ほかになにもないはず。だけど、綾音はほかに言ってほしい言葉があるような気がした。具体的には分からないけれど、ただこのやり取りだけで終わるのはなにかが欠けている。
 しかし、綾音からどうすることもできずに、踵を返した。職員室を出る手前で毛利の引き笑いが耳に届いて、そういえばそんな笑い方をする人だと、思うともなく感じた。
(剣道部は今日、お休みなのかしら。ああやって個別に教えてもらっているのは羨ましいかもしれない)
 いくらでもその機会はあった。部室で向かい合っていたわけだから。そうしなかったのは綾音に強い意志がなかっただけ。
(なら、羨ましがるのはいけないことね)
 部室に辿り着き、いつも座っているのとは逆側の席に腰を下ろしてみた。当然、見えるものが変わる。平素とは反対側の本棚にずらりと並んでいる題名たちと向き合えた。佐々井は綾音越しに、これらの題を捉えていた。
 以前までずっと一人でやって来た。今年はどうなるだろうと思い巡らせていたら、短い期間ではあったけれど、佐々井が終わり際に顔を出すようになった。でもそれは、ほんとうに短い期間だったのだ。それなのに、ぼんやりとした目で頬杖を突く綾音は言い知れぬ喪失感を味わっている。この感情の正体はなんだろう。
 それから、佐々井は部室に顔を見せることはなくなってしまった。綾音はまた一人になった。


 人を恋う気持ちは強い、らしい。
 いろんな本に、そんなようなことが書かれている。恋うがゆえに、一人では乗り越えられない障壁も苦にならない。恋うがゆえに、ときに本質を見誤ってしまう。綾音には実感の伴わない話だけれど。
 瀬尾かごめは、誰かを恋い慕うことがあっただろうか。一度きりでもあったらいいと願うのは、おかしいのか。そんな気持ちを経験せずに生を終わらせてしまったのなら、なんだかやり切れない気がする。
 かごめの事故以来立ち入り禁止になっている屋上へと続く階段を、足音を忍ばせて上がる。立ち入り禁止とやかましく言われているわりに、赤字の張り紙があるだけで、行けないことはなかった。近づくのがためらわれる雰囲気だから、綾音が屋上へと向かうのは初めてのことだった。
 鉄製の重い扉をそっと押しやる。空が視界に飛び込んできた。がらんとした屋上は、背の高い柵に囲まれている。風が吹いて綾音の髪を揺らした。
 視界を塞ぐ髪を手で払ったとき、目の端にちらりと人の姿が映った。誰もいないと決め込んでいた綾音は肝を冷やしたけど、その人が気の置けない存在だったためすぐに安心した。
 所在なく佇んで、佐々井が表情のない顔をしていた。佐々井はさっきから不意の闖入者に気づいていたらしい。綾音と目が合っても特に表情が変わらない。むしろ険しく見えるくらいだ。
(さすがに、叱られるだろうか)
 つかつかと歩み寄ってきて、綾音の両肩をがっちり掴んだ。掌の熱と、真剣な眼差しに後ずさりする。二人きりの屋上に、ほかには誰も来そうにない。なにをされたって不思議ではないのだ。
「早まった真似はするな」
 すぐ近くでそう告げられた。聞き違えようがなかった。早まった真似、という言葉を受けて、真っ先にかごめのことを連想する。かごめと同じ道を進もうとしたと勘違いされたみたいだ。
「私、そんなつもりで来たのではないです」
 すると、佐々井はさっと綾音から手を放した。なら、いい、と素っ気なく呟いて、佐々井はあらぬ方向に目線をやった。綾音はその不貞腐れたような横顔を眺めながら、たまにこうして屋上を覗きに来ないと気持ちが落ち着かなくなってしまったのだろうかと、思った。
 気まずい沈黙が流れる。綾音と佐々井の足はどちらからともなく端の方へと向かい、二人は並んで眼下に広がる景色を見渡した。学生寮があり、校庭があり、その先は鬱蒼とした森が広がっている。あらゆる空間から隔絶されたこの学校で、どんな絶望を抱く必要があるだろうか。綾音はぼんやりと考えた。
(このまま、うやむやで終わらせるのは気持ちが悪い。なにか、拭い切れない違和感がある。この学校にも、瀬尾かごめさんについても)
 綾音は一人、胸の内で決心を固める。違和感を少しでもなくしたい。分からないことを解き明かしたい。文芸部に入った唯一の部員、という点でも、その役割があるような思いに駆られた。
 再び、瀬尾かごめがどんな生徒だったか、隣の佐々井に尋ねたい欲求に襲われる。だけど、実際にはそうしなくて、一心にどこかを見つめ続ける佐々井の横顔を、こっそりと窺っていた。


 それからまた数日後、綾音は一人、体育館裏を訪れた。あの日の手がかりを探すつもりがあったわけじゃない。真相に迫ろうとしている最中、これまでに身に降りかかってきた出来事を、順を追って辿ってみたくなっただけだ。そうすることで、遅かれ早かれまた事態が動く可能性がある。
 体育館裏はあの日もそうだったけれど、いつ来ても静かだった。こんな場所に用のある人など、滅多にいない。誰かが誰かに想いを打ち明けるなら、ここが最適かもしれない。邪魔される心配はない。あるいは、いけない関係の二人が密会するのにもいいだろう。
 ふらふらと歩いていき、プールの近くまで達した。水面をそっと覗く――その瞬間、自分のものではない腕が後ろから伸びてきていることに気づき、さっと振り返った。綾音の目の前まで迫っていた手は硬直し、いつの間にか背後に立っていた剣道部の毛利和美は気まずげな表情を浮かべた。まさか、と胸の内で呟く。穏やかそうな先輩だと感じていたけれど、今なにをしようとした。あの日綾音を落としたのも彼女なのか、どうか。互いに牽制し合ったまま、紡がれる言葉がないので決め手に欠けた。
 やがて、和美は小さく息を漏らす。「あのね、お願いがあるのだけど」
 前後の文脈もなにもなくそう切り出す。綾音は身を固くして彼女の唇の動きを注視した。
「佐々井先生とは、あんまり親しくしないでよ」
 綾音は和美と面と向かって話すのはこのときが初めてで、どういう人なのかほとんど知らなかった。だけどたった今の発言を聞いた瞬間、何気なく目に留めていたいくつかの光景が甦ってくる。――放課後の職員室で、熱心に分からない点について教えを乞うていた和美。その前後から文芸部の活動へ顔を出さなくなった佐々井。
 人を恋う気持ちは強い、らしい。
 綾音は思った。和美は佐々井を恋うているのかしら。絢音にとっては想像の域を出ないその感情は、他人を貶めたくなってしまうほど、人の心を惑わせるものなのかしら。
「それだけ」
 短く言い捨てて、和美は背を向けて遠ざかっていった。小さくなっていくその後ろ姿が、あの日、プールから頭だけを出して見た後ろ姿と重なるような気もしたけど、確証は持てなかった。ただ怒りも同情も湧いてこないまま、そして投げつける言葉も彼女の歩みを止めさせる言葉も浮かんでこないまま、綾音はただ見つめていた。

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