冬に咲く花 ep.3

     二章

 私ほど現実をしっかりと見据えられている人は、他にいないのではないだろうか。少なくとも、この学校には。
 私は小さい頃、人に期待するのをやめた。この世に、本当に心が真っ白な人はいない。表向きでそう見える人も、裏が絶対にあるものだから。
 だから、私は誰も信用しない。適度な距離で上手に付き合って、誰の内面にも踏み込まず、かと言って、突き放さず、いわゆる「スクールライフ」を満喫している振りをしようとした。そして、成功した。
 私はずっと、友達に困ったことはない。いじめられたこともない。いつも数人で行動し、一緒に笑ったり、愚痴ったりした。腹の中では、くだらないことだと嘲りながら、それを表に出したら学校生活は苦しいものになるからと、上手く合わせた。
 現実は、甘くない。理想ばかりにとらわれていたら、この学校という環境で幸せを掴み取ることはできない。そんな幸せ、おかしいと思うだろう。でも、そもそも今の学校とはおかしなものだ。その幸せも然り。
 私はいつもずれている発言で笑いを取る稲田君は、裏のある人だと踏んでいる。多少、自分の馬鹿さが出ているのだろうが、彼は楽しい時間を保つために、意図的にああしているのだと考えている。人それぞれ、他人からの好かれ方はある。稲田君は、笑いを取ることだと考え、それで自分を奇妙に進行する学校に遅れないようにした。
 淡路君は、あまり裏がない人だろう。見た目がかっこいいこともあり、自分勝手に生きていても周りはついてくる。彼は、揺るがない姿勢を示しているだけでその地位を保証される。他の人よりアドバンテージがあるが、学校において、いやもっと大きく、人間社会において、見た目は肝要だ。
 見た目と言えば、亜実もそうだ。亜実の冷たい、とも言えるクールな性格で万事、問題なく生きていけるのは、彼女の抜群の見た目と賢さ故である。かわいい女子は、時として攻撃される対象となるが、亜実は絶対にそうならない。彼女は、隙を見せないのだ。だから周りから一目置かれ、一目置かれている人間は、生きやすくなる。彼女は裏を作る必要がない。普段、見せているのが全てだろう。
 一方で、不器用に生きているなあ、と笑える、あるいは呆れる人も存在する。
 その一人が二本君だ。彼は変わった名前通り、彼自身も変わっている。彼は理想を求めすぎているきらいがある。彼のような人を本当の「善人」と言うのだろうが、その生き方は危うさをはらんでいる。ただ、ここまで無事に逃れてきたのは、彼にも賢さがある。この賢さは、勉強ができることとは違う。事実、二本君は勉強ができない。その賢さを自分のためだけに駆使してはいないが、上手く奇妙な学校生活を切り抜けている。
 もう一人が、裕里だ。彼女は本当に笑える。残念な人間だ。お人よし過ぎる。現実を甘く見すぎている。友情を信じて、幸せが待っていれば訪れると夢見る哀れな少女だ。上手い生き方をしている人は揺るがない姿勢を崩さないが、彼女は常に揺らいでいる。
 だから、現実を教えてやろうと思った。どうせ押し潰されてしまうのなら、私が直接、手を下してやろうと思った。
 私は日課のように、裕里の持ち物を傷付けた。誰にも知られないように、一人で。性格が悪いなあ、と客観的に思う。でも、どうせみんなそうなのだ。
 初めは裕里が私たちに助けを求めてくるまでにしようと決めていた。つまり、すぐやめようと思っていた。揺らいだ表情で、友情を信じてすがる裕里を腹の中で笑って、終わりにしようと思っていた。
 しかし、彼女は一人で抱え込み続けた。誰にも知られないように隠して、陰を表情にしのばせながらも、平然と生き続けた。正直、理解に苦しんだ。早く助けを求めにくればいいのに、そうすればそんな暗い表情をしなくても済むのに。
 そして、気付いた。そうか、彼女は病的なほど甘ちゃんなのだ。犯人を明るみに出さないで、自発的にやめることを待っているのだ。強くないくせに、心を痛めながら犯人を守ろうとしているのだ。
 私は呆れた。もう子どもじゃないのだから、と叱りつけたい衝動に何度も駆られた。
 結局、私は意地になった。そっちがその気なら、とことん現実を見せてやろうと思った。春に始めて、半年経っても終わらせず、冬を迎えても続けた。裕里も相変わらず、彼女の理想を信じた。


 いつまで続くのか、とぼんやりと考えている頃、意外な形で終わりがやってきた。
 裕里が最初に助けを求めたのは、淡路君だった。
 これは本当に意外だった。私か亜実だろうと踏んでいた。何より、裕里と淡路君が親しげに話している所を見たことがなかった。
 裕里は涙を浮かべて淡路君にすがり、やがて淡路君は亜実にも告げ、亜実は私に伝えた。私は淡路君に二本君と稲田君もどうだろう、と提案したら、彼は受け入れた。
 意外な結末ではあったが、やっぱり笑える終焉だった。裕里を思いやって、沈痛な表情を浮かべている風を装いながら、私はこみ上げる笑いを抑えるのに苦労した。
 これで思い知っただろう。


 放課後、教室に人がいなくなってから、裕里の告白が始まった。
「えっと、実は――今年の春から、私はいじめにあってるの」
 私は驚いた振りをして、掌で口を覆ったが、本当はこう思っていた。なんて、面白いことを言うのよ、と。
「――今日は、上履きの中にがびょうが入ってた」
 私は息を飲んだ振りをした。
 がびょうを入れたのは、ほんの気まぐれだった。大怪我するかもしれないが、たくさん入れたから、さすがに気付くだろうと思った。それに、私は飽きていたのかもしれない。これで終わらせようとしたのかもしれない。
「ひどい、許せない」
 私は憤りを示した。こんな演技、容易いものだ。難しいことはない。裕里を思っている振りを続けていればいいのだ。
「犯人は誰だろう?」

 亜実が顎に手を当てて、考えた。彼女は私と違って、真剣に裕里のために考えているのだろう。しかし、いくら聡明な彼女でも分かるはずがない。まさか、犯人がこんなにすぐ近くにいるなんて。
「ねえ、執念深いんだったら、犯人は女子じゃない? 男子がこんなに長く続けるかな」
 私が犯人像を思いついたように言った。当然、自分が当てはまるわけだが、わざと私から遠ざけるようなことを言ったら、逆に怪しまれてしまうだろう、と考えた。まあ、私を疑う人なんていないだろうが。
「いじめの犯人なんて、常識外れな感覚を持っているもんだ」
 そう言ったのは、淡路君だった。
 その通り。本来、常識とされている部分からは外れている。でも、今の学校の常識がおかしいのだから、私はそれに従ったわけだ。
「明るい笑顔の仮面を被った、陰湿な女子じゃないかな」
 亜実に犯人像を尋ねられた二本君がそう言った。
 大正解、と私は思った。でも、陰湿とは少し違う。現実的で、親切なだけだ。「ほら、私と一緒」私は、自分の予想が一致して、喜ぶ振りをした。

 話は、先生に伝えないのか、ということに及んだ。私は先生に打ち明けることはない、と自信を持って踏んでいた。裕里の性格からして、犯人を守るためにも、自分を守るためにも、周囲に広がるリスクを避けるはずだ。
 睨んだとおり、先生に伝えないとなったが、ここでも意外や淡路君が裕里への優しさを表した。二人の関係が不思議だった。この話し合いの中でも、直接話すことはないが、二人は予想以上に親しい間柄らしい。
「優しいのね」
 亜実が私の思いを代弁するように呟いた。
 優しくするのは、彼持ち前の正義感がそうさせるのだろうか。
「犯人は、この中にいる」
 稲田君の発言に、私は不覚にもどきりとした。でも、すぐに冗談だと分かった。全く、いつもは的外れな言動が笑いの種になるけど、こんなときにまで発揮するとは。
「もしいたとしたら、見張りとか無意味だな、ってことを言いたくて」
 なるほど、とっさに出てきた言い訳とはいえ、稲田君の指摘は鋭い。事実、見張りはまるで意味を成さない。だって、犯人は私だから。
「意味あるよ、絶対」
 亜実が強い口調で言った。
「この中にはいるわけないもん。だから、必ず意味ある」
 亜実も頭はいいが、案外、現実をしっかりと見据えられない人間なのかもしれない。でも、仕方がないことか。ここで、信頼の置けると思って集めた人たちの中に犯人がいるなんて、そんな発言をしたらひんしゅくを買うだけだろうから。


 話し合いがまとまると、私は裕里を誘って帰ることにした。こんな面白い話し合いは他にないけど、あんまり引っ張るのも不自然だ。
 裕里と並んで帰る姿を思い浮かべて、ひどく滑稽だと感じた。被害者と加害者が友達面して、仲良く帰るなんて、何とも滑稽だ。
 教室の隅で、淡路君と亜実が肩をくっ付けるようにして並んで、何やら話していた。恋人同士の二人は、二人で帰るのだろう。そう思った私は、亜実は誘わずに裕里を急かして、教室を後にした。
 しかし、校舎を出かけた所で、亜実が走って追いついてきた。
「待って、私も帰る」
 淡路君は寄る所があるそうで、私たちは三人で帰ることになった。
 三人は、しばらく無言だった。
 裕里は、いつものようにぼんやりしていた。頭の中では、おめでたいことを考えているのだろう。いい友達がいて良かった、とか哀れにも思っているのだろうか。
 亜実の沈黙は、少し恐怖だった。私は今日集まった面々の中で、真犯人に気づくのはこの亜実か二本君ぐらいだろうと思っていた。それでも、気づくのは至難の業だろうとも思った。
 ただ、亜実ならもう私が犯人だと気付いていて、その冷たいオーラを放つ沈黙は、私に自白を求めている、という場面だと考えても、不自然じゃなかった。
「じゃあね、裕里。私は絶対にあなたの味方だからね」
 お別れの段になって、私は裕里を力づけるようなことを言った。裕里は充血した目を潤ませて、明るい表情になった。
 本当に残念だ。人を疑うことを知らない世界で生きてきたのね。だから、甘いのよ。
 二人と別れてから、人通りの全くない路地に入って、私は堪え切れず、一人で笑い声を上げた。乾いた寒空に、私の笑い声が響いた。誰もいないとはいえ、気違いめいたことをしていると分かったが、抑えがたかった。
 どうしてあんなに曇りのない瞳で生きているのだろう。彼女みたいのを純粋と一般に言うのだろうか。
 汚したくなる。
 そんな生き方が通用するのは、本当に幼いときまでよ。


 私が現実に期待し過ぎないようになったのは、様々な経験の積み重ねだが、決定的になった出来事がある。
 私には中学時代、友達がいた。私は今の裕里みたいに、彼女を親友だと信じていた。
 ある日、些細なことで私はある男子に恋をした。それこそ、純粋な、混じり気のない恋心だった。その男子はわりとかっこいい方だったが、彼女がいなかった。
 私は「親友」にそれを話した。誰々が好きになったと、恥ずかしそうに、半面、嬉しそうにしながら。
 「親友」は予想通りの反応をした。まず驚いて、続けて私を冷やかした。
「コクんないの?」
 そう聞かれて、「うーん、どうしようかな。まずは、仲良くなってからかな」と答えた。
 ありきたりな、女子中学生のやりとりだと感じた。私はその男子を何が何でも手に入れたいとは思っていなかった。それよりも、この恋を通じて、友情を育みたいと思っていた。


 恋は、学校の様々なイベントを通して着実に進んでいった。「親友」に協力してもらう形で、彼の携帯番号を知り、メールするようになり、話をするようになった。「親友」は、私の背中を押していてくれていると信じていた。
 疑う余地はなかった。だから、告白をすすめられたとき、私はそれに従おうと決心した。自分のためにも、「親友」のためにも私がそうするのが自然の成り行きだと考えた。
 そして、告白した。結果は、ダメだった。
 私は結果についてあんまり思いを巡らしていなかった。告白するのをゴールと捉え、もちろん良い結果なら喜ばしい限りだったろうが、悪い結果でも受け入れるのは容易いと思っていた。
「悪い、おれ彼女が最近できたんだ」
 ただ、受け入れられたとはいえ、彼のその言葉は意外だった。普段、接していてもそんな気配は窺えなかった。でも、彼が嘘をついているとも思えなかった。彼の言葉を信じ、一つの恋が終わったと客観的に捉えた。
 「親友」は私を慰め、一方で、よく勇気出して、一歩踏み出したね、と誉めそやした。私も初めはショックで沈んでいる振りをして、彼女の言葉に元気付けられていく振りをした。振りをしなければ、内側からちゃんとした感情が湧いてこなかった。
 その後、彼とは友達として関係を保った。メールも頻度は低くなったが、ふとしたきっかけで送り、送られた。
 ところが、ある休みの日、一人で街をぶらついたとき、信じ難い光景を目の当たりにした。「親友」と彼が体を寄せ合って、まさにカップルのそれを演出していた。
 ――そのとき、全てを悟った。悪い、おれ彼女が最近できたんだ、彼の言葉が頭に響く。告白をすすめる「親友」の表情も頭をかすめる。最近できた彼女は、「親友」だったのだ。
 「親友」は私に協力する素振りを絶えず見せながら、本当は腹の中で嘲り笑っていたのだ。純粋な恋心を踏みにじったのだ。
 許せない。
 でも、私は「親友」を責めなかった。知らない振りをし、友達関係を保ち続けた。彼も責めなかった。悲劇のヒロインを演じても、得られるのは同情だけで、私は同情とか慰めとかはいらなかった。
 高校は二人と別々の所にした。忙しさを装って、二人との連絡を極度に減らした。
 二人を殺したいほど恨んだが、それは腹にしまって、代わりにそれから学んだ。現実に期待し過ぎてはいけない。人を信じ過ぎてはいけない。上手く生きなければ、現実に押し潰されてしまう――。   


 ――誰もいないと思っていたが、前方から地面と靴がすれる音がした。ハッとして、笑い止めて前方を窺った。電信柱に少し隠れていたけど、その顔は見えた。
 私は目を疑った。どうして、彼がこんな所にいるの? さっきまで一緒にいて、裕里の話をしていた彼が。
「**君、どうしてこんな所に?」
 平静を装って問い掛けると、彼は、ふん、と鼻で笑った。
「何がそんなに面白いんだ?」
 私は言われたことがよく分からない、という風に首を傾げた。彼はまた鼻で笑って、「今、一人で笑ってたじゃん」と言った。
「ああ、見てたの」
 私は恥ずかしそうに頭をかいた。
「いや、ちょっと思い出し笑いしちゃって」
 私が照れ笑いを浮かべたのに、彼の表情は崩れなかった。後ろに手をやって、不機嫌そうに立ち尽くしていた。
 そして、私は悟った。彼は、何か気付いているのかもしれない。
「少し、引っ掛かってた。石川から話を聞いたとき、長期的にいじめを続けて、しかも本人どころか、他の誰にも見付からずに続けるのは、とても難しいんじゃないかって」
 彼の目は虚空を睨んでいた。私を見ずに、感情のない声で話していた。
「石川の気まぐれとか、あるいは学校には日直もあるし、テスト前には早く来て、勉強するかもしれない。登校時間を予測するのは、難しいはずだ」
 彼の言いたいことは、おおよそ分かった。推理で、私が犯人だと睨んだのだろう。
 でも、私はとぼけた振りをした。問題ないと思った。彼の推理は机上の空論に過ぎない。そうだ、証拠がなければ、いくらでも言い逃れはできる。
「でも、裕里の傍にいて、彼女の予定や性格、傾向を把握している人間だったら、それが可能だと考えた」
 思ったとおりの話だった。
 それにしても、彼を目の前にして思う。彼はいつもとどうも違う。それに、後ろに手を隠して、私に会ってから一度も前に出していない。何だか、不気味だった。
「犯人は、本当に今日集まった六人、石川を除いた五人の中にいたんだ」
 ドラマでありがちなシーンみたいだと思った。きっと、彼も犯人はお前だ、と言うのだろう。ドラマなら、それで事件はおしまいだろう。
 しかし、残念ながら終わらせるわけにはいかない。ドラマでは、犯人のその後は描かれないけど、私には先がある。
「犯人はお前だ、吹石」
 私は待っていましたとばかりに、顔を歪めて、嗚咽を漏らし始めた。
「ひどい、なんてこと言うの。**君、ひどいよ。私が裕里にあんなことするわけないじゃん」
 私は嘘泣きには自信がある。涙も、ちゃんと一滴、頬を伝っていく。
 彼は動揺して私を慰めにかかるだろう、と思っていたが、彼が次に取った行動は私の予想をはるかに超えていた。
 彼は私の腹を思い切り蹴ったのだ。お腹に激痛が走る。堪え切れず、しりもちをつく。スカートの中が丸見えになって、慌てて隠したが、このとき、そんなことをしてないで、早く逃げるべきだった。
 怒りを目に宿らせて、私を冷たく見下ろす彼の手には、包丁が握られていた。
 私は何とか言い繕おうと思ったが、口は震えるばかりで、言葉が出てこなかった。
 殺される、と思った。このままじゃ、殺される。彼は本気だ。
「嘘つくな。お前しかありえない。おれは見たんだよ。さっき、六人で教室に集まって、石川が話を切り出したとき、一瞬、お前だけ薄笑いを浮かべてた。ほんの一瞬だったけど、確かにおれは見た」
 彼はゆっくりと近付いてきた。早く逃げろ、と自分に呼びかけるが、金縛りにあったみたいに、体は動いてくれなかった。動いたとしても、彼からは逃げられなかったかもしれないが。
 そのとき、「親友」の笑顔と、彼女と今も仲睦まじくしているのであろう彼の顔が浮かんだ。これが、走馬灯というやつだろうか。じゃあ、私は本当に死ぬのか。
 だとしたら不思議だった。真っ先に浮かんだのは、裕里や雪絵、あるいは家族ではなく、彼らだった。
 私はもしかしたら、本当に彼を好いていたのかもしれない。「親友」とずっと親友でありたかったのかもしれない。あの二人に憧れていたのかもしれない。
「被害者ぶるな。不幸を背負い込んでる気になるな。お前みたいなやつが一番むかつく」
 私は強い驚きとともに、彼を見上げた。彼は、どこまで私のことを知っているのだろう。内面的なことまで、読み取れるのだろうか。
 しかし、彼は私を睨み付けていたが、そのようなことは言っていなかったようだ。つまり、今聞こえたように思えたのは、私の内から溢れてきた幻聴だったのだ。それこそ、自覚していなかった本音かもしれない。
 彼の目は、恐ろしい憤怒の思いに燃え盛っていた。そしてその目に、私は、中学時代の「親友」たちを恨む私の目を重ねた。
 一緒だ。目の前の彼も、裕里を好きだったのだ。
「――死ね」
 私は勢いよく迫ってくる包丁を無抵抗で受けた。彼は刺さった刃を抜いて、もう一度私に突き刺した。何とも形容できない痛みが、声にならない叫び声を生んだ。
 私は、薄れ行く意識の中で泣きたくなった。泣いて、誰かに甘えたい衝動に駆られた。
 私は、誰よりも現実に期待していたのかもしれない。そして同時に、恐れていたのだ。
 甘ちゃんは、私だ。

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