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あの日、僕は(七)

 六月は結婚の多い頃。あるいは梅雨時、晴れ間の容易に窺えない頃。ジメジメとした空気の中で、春に抱いた明るい気持ちは次第に鬱屈としていく。
 そんな感情の低気圧をどこかへやるように、勇のニコニコ顔はよく張りついていた。前向きなだけかもしれないが、それを裏打ちする出来事がこの頃に舞い込んでいた。
 勇は小絵と男女の仲になっていた。人知れず二人で会う機会が増え、親密度が増すとともに、自然とより関係を深めた。有り体に言ってしまえば、ようはやることをやったというわけだ。
 二人とも誰にも喋らなかった。それぞれに言いふらしたり、見せつけたりするつもりが微塵もなかったことと、それから、サークル内の雰囲気がなんとなく歓迎しないだろうと読めたから。
 そうなっても、勇はみんなで集まりたかった。小絵にもその望みを幾度となく伝えていた。
 サークルにはいくつかのグループができている。積極的に誰にでも絡んでいける歩美と勇は特定のどこそこに所属する必要はなさそうなものだが、心のうちはまた違う。一方、風花と小絵はすっかり仲好しになって、二人で行動することがほとんど。亜衣は同期の女子と一緒にいることが多いけれど、少し距離を置いてしまうきらいがある。達也と悠に関してはいざ知らず。
 特に、勇が躍起になって彼らを結びつけなくても、それぞれの居場所で心安らかに生きていた。だけど、小絵も勇の考えには賛成だった。いつも一緒にいられるなん人か、それはきっと長い目で見ても、大切な結びつきをもたらす可能性を有している。なにより、風花がいるのなら。
 六月の終わり、夏が待ちきれずにその半身を覗かせていた。暑くて気分が開放的になるのを利用するみたいにして、勇はついに声をかけた。就職活動の動向がはっきりしていなかった達也と悠、それに幹事長の仕事にそれなりに追われていた歩美には遠慮して、小絵、風花、亜衣を誘って集まった。
 場所は風花の住まう街、雉町。

 新幹線であっという間に静岡駅に到着する。達也はホームに降り立ち、遠くに目を凝らした。雨が降っていた。灰色の空。それでも、日本で一番大きな山がぼんやりと見える。
 達也は自分が雨男であると認識していた。どこかへ行こうと思い立つとき、必ずと言っていいほど雨が降る。雨の多い季節とはいえ、今日もちゃんと視界を濁らせた。
 雨は好きだ。地面に打ち付ける音が、部外者の訪れをそっと許容してくれているような心地がする。傘を傾ければ、容易に自分の表情を隠すことができる。そんな考え方だから雨を引き寄せてしまうのかもしれない。
 私鉄に乗り換えて、揺られる。突発的に、それも一人で静岡に来ようと思ったのは、たんに気分転換がしたかったからだ、と己に言い聞かせている。就職活動の疲れから、精神面でのリフレッシュを求めた。
 就職活動は芳しくなかった。出版社に勤めたいと大学入学当時から願っていたため、その望みに従って活動に励んでいたものの、やはりそこは狭き門。いいところまで行っても、内定まで至っていなかった。
 でも、狭き門だとか、入学当時からの夢だとか、それらすべては後付けの理由だ。ほかの企業を受けられないのも、出版社への就職をバシッと決められないのも、それが実力であり、努力が足りないからだ。分かっている。分かっていても、現実はどうにもならない。これではいつまで経ってもサークルに顔を出せないし、それはつまり、風花と向き合うかつての日常が相変わらず遠ざかるということだ。
(ふうちゃん――)
 久しく会っていない。彼女に思いを馳せてしまったら、改めて馴染みのない土地で孤独に佇んでいる状況を思い知らされた。振り払うように首を振って、強い歩調で歩き出す。
 悠は就職を決めたらしい。彼は達也と違って、いろんな人に就活に関する愚痴を漏らして、早く終わらせたいと嘆いていたそうだ。試験や面接を重ねるうちに、彼は雇ってくれる会社を見出した。
 達也にはそういう部分もなかった。誰かに相談できない。今まではそれでもなんとかやってこられたのかもしれないが、こと就職についてはそれではだめなのだ。そのことも頭では分かっている。だけど、やっぱり誰にも話せない。勝手に焦燥感に駆られて、こんなところまで足を伸ばしてしまった。
 雨は止まない。むしろ、強まるばかり。
 小さな駅を降り立ってから気の向くままに歩いていた。予定は立てずに来た。そんなに遠くないところで、旅行気分を味わいたくてここを選んだ。看板の表示で、この先に県立の美術館があるらしいことが判明する。美術館なら一人でも行きやすいだろう。達也はそこを最初の目的地として定めた。
 緩やかな坂を上っていく。横断歩道が少なくて、車が行き交う中、反対側の歩道へ渡るのに難儀する。近くに小学校があるのだろうか、生徒たちが列をなしている。課外活動かしら。みな元気で、声高にしょうもないことを叫んでいる。あの頃はあの頃でそれなりに大変だったつもりだけど、やっぱり子どもは気楽なものだな、と達也は感じた。
 県立の大学の駐車場に迷い込む。しかし、地図を確認するとそのすぐ隣に美術館はあるらしい。大学のキャンパスは広大で、都内の私立大学とはスケールが違うと思い知らされた。ここに通っていた人生もあった。でも、今は今を生きている。
 美術館があった。チケットを買えば常設展と特別展どちらも見られるようだ。それに大学生は一般料金よりやや安値。存分にその恩恵にあずかった。
 しばらくして、満たされた気分のままに出てきた達也を迎えたのは、雨の気配が少しだけ残るまっさらな青空だった。手を伸ばしたら届きそうな空だ、なぜかそんな風に思った。

 メールを送ったのにしばらく返信はなかった。悠は真っ黒なスマートフォンの画面に映る自分の顔を捉え、その顔が首を傾げた。勇は比較的――たとえば達也や風花と違って――返信の早い方で、こんなに待っても来ないのは不思議だった。
 悠は無事就職活動を終え、残りの大学生活を満喫するだけ。しておきたいこと、行っておきたい場所を思い浮かべ、自然と胸が弾む。
 まずはと、愚痴を聞いてもらっていた後輩に報告し、あわよくば遊びの約束も取り付けようと考えていた。
 夜遅くになってからようやく勇のメールを受け取る。なんでも、サークルの何人かとごはんを食べに行っていたらしい。そのメンバーは風花、小絵、亜衣を含めた四人で、違和感ないようでいて、少し意外な気がした。
 勇は男子校出身のわりに、というと変な言い方になるが、あまり異性に対してがつがつしたところが薄く、むしろさっぱりとしていた。そういう態度が滲み出ているからか、普段から親しくしている異性は少なくない。四人で食事と聞いても楽しそうだと羨むけれど、妬むことはないわけで。
 だけど、楽しそうは楽しそうだ。混ざりたい。
 次はその会合に呼んでくれよと文面を返すと、今度は即座に答えが来る。案外にも前向きな言葉をもらえた。そのつもりです、今回もお声がけするかどうか迷っていました、とかなんとか。
 悠は嬉しさを覚えるというよりも、ちょっとだけ戸惑った。勇にはなにかが見えている? 彼はなにかを作ろうとしているのではないかな。今はまだ見当もつかないけれど。

 静岡を去ってくれたと思った雨雲は東に流れたようで、東京に戻ってきたらまた降られた。どうしようもない雨男だと、達也は諦めるように苦笑した。
 それでも電車に乗ってしまえば傘をさす必要もない、窓の向こうを流れるたくさんの線を恍惚とした思いで眺める。
 外の光景をぼんやりと見つめていると、思い出すことが一つあった。大学のキャンパス内を移動しているとき、やはり雨に降られて、達也は傘を携帯していなかったため、仕方なく濡れた。
 そんなときに、誰かが傘を差し掛けてくれた。親切な者がいたものだと持ち主を確かめたら、小絵だった。柔らかく笑んで、こちらを捉えている。入りますか? そう問われたから、情けなくもただ頷いた。そして、いつかこんな風に女性を自分の傘に入れてあげられる男になりたいと願った。
 小絵はかわいげのないビニール傘で、語弊があるかもしれないが彼女らしいと感じた。小絵にはそういうところがある。見た目のままの内面ではなく、「自分」をしっかりと持ち、その意志に則って生きている。そして、誰にでも愛想笑いを浮かべる軽薄な部分がまるでなく、それでも心を許した人にはこうして優しさを施せる。
 親しくなればなるほど、その魅力に気づいていく不思議な存在。風花が仲好くなりたいと望んだ胸中も理解できるというものだ。

 蛍光灯を換え忘れたことを悔やんだ。部屋を明るくしようとスイッチに触れても、室内は暗いまま。外はすっかり夜の空気を纏っている。亜衣は細く息を吐いて、目が慣れてくるまで立ち竦んだ。
 ぼんやりとベッドが見えてきた。若草色の掛布団に座り、再び頭の中を空っぽにした。さっきからなにも手につかない。
 戸惑ってしまうくらい、持て余すくらい、誰かを好きになる瞬間があると聞く。そんなの物語の世界だけの話で、そうじゃなかったとしても自分には縁のない話だと亜衣は思っていた。でも、どうやら違ったらしい。
 なにがきっかけだったかもう一つ思い出せない。亜衣は商学部で、キャンパスが分かれている関係で――とはいえ、徒歩数分の距離だけれど――文学部の彼にはめったに会えない。サークルの部室に立ち寄ったとき、あるいは活動のある日、出くわして話せる日もあれば、遠くから姿を確認して終わる日もあった。どちらかといえば後者の方が圧倒的に多かった。
 だけど、その少ない関わりの中で、亜衣は静かに惹かれていった。穏やかな喋り口に、こちらを安心させる笑顔に、確かに。
 勇に誘われて、なんの考えもなしに雉町に出向いたら、風花、小絵を含めた四人で夕食をともにした。勇がどんなつもりでその会を設けたのか掴めないけど、ただそれが舞い込んできた僥倖だと感じたのは、次回、悠と歩美――それから達也も呼ぼうという話になったから。
 そして、つい先ほど。意外な人物から連絡がきて、亜衣は瞳を瞬いた。指を震わせるようにして返答を送り、それからこんな調子だ。
 次の集まりを企画したのは達也だった。他者に対しては遠慮しがちな彼にしては珍しい限りだが、それだけにこんなことは二度とないだろう。亜衣ははやる気持ちを抑えるみたいに時間差をつけて了承の旨を伝えた。
 当日、果たしてどうなるのかしら。今から想像が膨らんでしまってしょうがない。どんな服を着ていこう、どんな言葉を交わそう、ちゃんと笑えるかな。
(クールじゃないぞ、亜衣……)
 それはきっと想うゆえに――。

 完全にけしかけられた形になったが、不本意ではなかった。
 普段消極的な達也が企画し、誘ったことで、それぞれの反応はよかった。小絵、悠、勇、亜衣に声をかけ、全員から快諾を得られた。まあ、小絵と勇は達也をけしかけた当人なのだけれど。
 勇がやけにグループを作りたがり、その中に達也を入れたがった。みな、気の置けない人たちだから嬉しいのだが、しかし、無理に集まろうとしなくてもいいのでは、と思わなくはない。
 それでも、大学生活最後の一年も半分を経過した。このまま無理のない日々を送っていては、もしかしたら後悔の念が残ってしまうかもしれない。たまには、自分らしくないことをしてみるのも一興かな、それくらいの気分だった。
 そう考えていたら、小絵にキャンパスで会った。小絵はほんとにいいタイミングで現れる。まるで狙いすましていたかのように。いくつか言葉を交わし、勇と似たようなことを言われて、これは自分が動くしかなさそうだと、勝手に自らを追い詰めた。
 風花は誘わなかった。意図的に、と言えばそうだが、なんとなくとも言えた。たぶん、次になにか企画が立ったときには誘うだろうし、達也が誘わずとも別の誰かが誘うはず。
 歩美も誘わなかった。それは、風花よりも意識して誘わないように気をつけた。達也はまだ就職先が決まっていない。まだ絶望するには早すぎるけれど、しかし、前のめりの性格の彼女なら、おそらく根掘り葉掘り尋ねてくるだろう。訊かれたら素直に答えるつもりだが、そもそも訊かれるのを避けたかった。
 相変わらず就活は上手くいっているとは言えない。今も、面接を受けるために某メーカーの本社に向かっている。これで何度目の面接か。だんだん数えられなくなってきた。それだけいろいろな種類のものを経験してきた、だが、どれもこれも内定には結びつかなかった。
 どうせ、今回も――そんな風に思い始めている自分がいて、少し危惧する。
 諦め気味だった達也の読みとおり、その面接もまた上手くいかなかった。はじめは受け答えにしっかり答えていたのだが、途中から声が出なくなってしまった。目を見開いて、無様に口をパクパクさせる。
 息を吸っても吐いても、胸に掌を当てても、脳裏に言葉を浮かべてみても、どんな抵抗も達也を喋らせてはくれなかった。周囲の人間が心配そうに取り囲むが、意識は遠のくばかりだった。どうしてここにいるのか分からなくなってくる。どうして知らない学生と隣り合って、知らないおじさんたちと向き合わないといけないのか分からなくなってくる。なにも、なに一つとして分からない。
 達也が唯一予感として抱けるものがあったとすれば、きっと二度と面接という形で誰かと向かい合うことはできないのだろう、それだけだった。

 夏に入った。外を歩くのを極力避けたくなるような日差しが街に降り注いでいる。眉根を寄せながら、悠は周囲をまた見回す。約束の時間よりかなり早い。遅刻の多い悠にとって、ちょうどよい時間に到着することがなにより苦手なのだ。早く来てしまった場合、長い時間待たされる。
 達也に誘われて、深く考えずに快諾した。慎重な達也らしく、その企画は予定日よりずいぶん前に立ち上げられ、忘れそうになっていた頃になって当日が訪れた。
 不思議なメンバーだ。でも、居心地は好さそうだ。どんな話が中心になるのか分からないが、とにかく、たくさんとりとめのない話をしよう。
 把握しているメンバーは五人。ほかに勇、小絵、それに亜衣。この中で唯一苦手かもしれない人を挙げるとすれば亜衣かな、と思った。クールな性格にはだいぶ慣れたけれど、それでも、まだ親しくなったという感じはない。以前からもっと仲好くなりたいと願っていたから、今回は一つのいい機会だろう。
「え、悠」
 突然呼びかけられて顔を上げると、笑みを浮かべた達也が立っていた。その目に驚きの色が差している。
「久しぶり」
 会うのは数か月ぶりだった。連絡はたまに取り合っていたけど、就活のせいでずいぶん没交渉気味になっていた。
「お前がこんなに早く来てるなんて。雪が降るんじゃないか」
「真夏に雪が降ってたまるか」
 しかし、そう言われてしまうことが日頃の遅刻の多さを物語っている。悠はちょっとだけ申し訳ない気持ちを覚えた。
「さて、二人はまだかな」
 待ち合わせ場所は都内有数の繁華街・黄樹、駅前の喧騒に包まれて立っているのは落ち着かない。全員そろったら即離れたいところだ。
「二人? あと三人いるんじゃないのか?」
「いや」達也は首を横に振る。「勇と小絵ちゃんだけだ。亜衣ちゃんは、急用ができたそうで、来られなくなった」
 そうなのか。悠は落胆した。せっかくお近づきになるチャンスだったのに。
「キャンセル料とかは大丈夫?」
「ああ、お店は決まってるけど、この人数だから予約はしなかった」
「そうか」
 しばらく並んで待ちわびていた。ぽつりぽつりと互いの近況報告をするが、どちらも就職については話題にしなかった。どうやら達也は触れられたくないらしいと察し、悠も敢えて口にしないことにした。
 それから、どのくらい佇んでいただろう。待ち合わせ時間ちょうどに勇と小絵が揃って現れた。――二人一緒に来たことを不思議に思ったけれど、それもまた敢えて口にしないでおく。

 大学からの最寄り駅である半田駅の高架下に、それほど大きくない公園がある。大きくはないけれど半分が金網フェンスで囲われていて、球技ができるようになっている。
 勇は左手にはめたグローブで野球ボールを受け取ると、ボールを右手に持ち替え、相手に向かって投げ返した。球の勢いを伝えるみたいに小気味いい音がして満足する。
「勇、いいボール投げるな」
 達也が声を上げる。こちらを褒めてくるわりに、そのキャッチングには余裕がある。野球経験者同士のキャッチボールは思いの外楽しい。
 ボールが行ったり来たりを繰り返す合間に電車が音を立てて通過していく。その音に会話が中断されたり、少し影がよぎったりはしたけど、人の少ないここは最適な環境だ。
 先日、黄樹で集まって、気づいたら達也と野球の話をしていた。二人とも高校は陸上部に所属していたのだが、勇は小学校から中学の終わりまで、達也も同じ頃から中学の途中まで野球チームに入っていた。文化系のサークルの人たちではなかなかスポーツをする機会もない。同志を見つけた嬉しさで、すぐにでも野球がしたくなった。
 そして、今日に至る。
「少し休むか」
 秋は遠い。二人とも汗だくになっていたが、動いているうちはそんなに厭わしくなかった。近くのベンチに腰掛け、あらかじめ買っておいた清涼飲料水を喉に流し込む。いつもよりもおいしく感じる魔法。
「結局、真夏の雪は降りませんでしたねえ」
 黄樹の日のことを話しているのだろう。「そりゃそうだ」
「悠さん、あの日に限って早く来てましたよね」
「そんなに言ってやるなよ」
 四人での会合は恙なく終わった。話はそれなりに弾んだというか、よく一緒にいる顔ぶれだから特別なものはなにもない。料理もお酒も、界隈に詳しくない達也が選んだにしてはよかった。
 最後まで勇の意図は分からなかった。もしかしたら、ほんとは意図なんて存在しないのかもしれない。なんとなくでも彼なら動き出せそうだ。
「でも、小絵ちゃん、女子一人だけにしてしまったな。次回はバランスも考えたいところかも」
「いや、小絵さんはそんなの気にしませんよ。すごく楽しそうだったじゃないですか」
 確かに、彼女が一番笑っていたように思う。明るい娘なのだと改めて感じた。
 女性で誰か誘うとしたら、急用で来られなかった亜衣、雉町のときには参加していた風花、あるいは歩美とか、かな。
 足下に咲いた花を見つけた。風に揺れる花は強い――いや、勁い。その日、桜井達也は打ち明けられない心の弱さに打ちのめされそうだった。

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