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女子高校生の憂鬱と愛情

松浦理英子「最愛の子ども」を読んだ。

彼女が紡ぐ言葉には、私が言葉に表せない感情や、心の奥底にしまい続けてきたような、無理やり「思い出」にした記憶を想起させる力があると思う。久々にフィクションの中で、自分の現実に向き合う経験ができた。

万人が共感できるようなものではないと思うし、自分はだいぶマイノリティだと自覚しているので、みんなにわかってもらいたいと思って書いているわけではない。けれど、届く人には届くかな、と思って書いてみる。

女子校(女子クラス)で生活する真汐(ママ)、日夏(パパ)、空穂(王子・子供)という疑似家族にフォーカスを当てたこの物語。フィクションなのに、女子校育ちの自分でも全く同じような経験をしたというわけでもないのに、何故かどうしようもない親近感を感じてしまうお話。

多分、現実世界で一言にまとめろと言われたら女子高生同士の淡い恋物語、なのだけれど、彼女たちがお互いに抱いていた感情は「love」ではなく「affection=愛情」だった。(引用参照)それは小さい子供や、大切なぬいぐるみに向けるような感情。そこに愛はあったはずなのに、何故か大人になるにつれ失われていくようなもの。それよりも男女で恋愛しなさいと言われ、その後には結婚、出産が求められる。子供の時はタブーと言われ教えてくれなかったことを、大人になったらそれが普通だから、と放り出される。

この間空穂の家に泊まった時、日夏がわたし(真汐)の頬を指で軽く叩いたあの動作、単語帳に乗っていたのだけれど英語ではPatというらしい。もっと詳しくニュアンスが知りたくて英英辞典を見てみると、解説文中のa sign of affectionという記述が目を惹いた。(中略)ある辞書にaffectionは「(こや妻に示すような)愛情。優しい思い」とあり、loveよりも限定的な愛情を示すらしいことがわかった。それからはsign of affectionという語句を思い出すたびに、いくらかの照れ臭さとともにふわふわとしたいい気分になる。(松浦理英子「最愛の子ども」、140P)

本文のこの場面、印象的すぎて書き留めておきたくなった。というのも男女共学はまた別の話かもしれないが、女子校だと中学や高校までこの「愛情」を他人に抱くことが赦されていたからだ。男女、というヘテロの恋愛が日常的に行われることはまずないので、ヘテロ的な恋愛観も特に生まれない。好きになった人に愛情を示し、示されることが幸せで、それでよかった。そこに肉体関係はあってもなくても、どちらでもよくて、別に相手のジェンダーとかも関係なくて、今思うとセクシュアリティ最先端社会だったんじゃないの、なんて思ったりする。

だって、今わたしたちが生きている日本のシスヘテロ中心社会では、男女が付き合い、そこには必ず肉体関係が含まれなきゃいけなくて、30近くなるとその先には結婚と出産を考えなきゃいけない。その条件から一つでも脱落してしまう人は、「マジョリティ」から外されるのだ。

何故、子どものころに抱いていた、そして抱かれていた「affection」は社会に出たら愛だと認められないんだろうか。何故異性間で抱かれるような愛より下に位置付けられてしまうのだろうか。家族に対する愛情なんかもそうだ。大きくなったらなんだか恥ずかしいものとして扱われる気がして、自立してない人間として見られる気がして、大人になったら存在が薄くなっていく。

日夏たちの高校卒業後は、本の中には描かれていない。文中にもあったけれど、女子クラスだけで他には何も必要ない「完結していたコミュニティ」が崩壊する時、一体何が彼女たちを待ち受けていたのだろう。例えば、何もかもヘテロ的な価値観に埋め込まれて、彼女たちが互いに抱いていたそれは恋愛感情じゃない、と言われてしまう。そして必死に社会に順応しようと、全て過去のことだと忘れてしまう。そんな感じだろうか。

この物語はフィクションだけれど、私にはあまりにもリアルに映った。そして、まさに前述したような順応を試みた私にとって、フィクションで生きる日夏たちには、ちゃんと一つの愛の形として、認識しておいて欲しいと願わずにはいられなかった。そしていつか、現実でもそれが可能になるような社会を、ずっと、ずっと私は探し続けているのかもしれない。


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