『罪と罰』-ソーニャ-Ⅱ

ソーニャは目の前のラスコーリニコフが老婆とリザヴェータを殺した人物だと悟る。そして彼女の前にいるその男こそが、今まさに世界で一番不幸な状態にあると確信する。

 「もういつからか経験したことのない感情が、彼の胸へ波のようにどっと押し寄せて、みるみる彼の心をやわらげた。彼はもうそれに逆らおうとしなかった。涙の玉が二つ彼の両眼からこぼれ出て、まつげにかかった。」
………………
  「ふん、なに、物を盗るためさ!もうよしてくれ、ソーニャ?」


 「知らない……ぼくはまだ腹が決まっていなかったんだ―その金を取るか、取らないか」

  強盗殺人ではないのだろうか。ソーニャは困惑する。「ふとソーニャの頭には『気ちがいではないだろうか?』という考えがひらめいた。」

 「ぼくはナポレオンになりたかった、そのために人を殺したんだ……さあ、これでわかるかい?」

 次にナポレオン願望。しかしそれも核心には至らない。「あなた、それよかありのままを話してくださいな……たとえ話なんか抜きにして」

 「だって、ぼくはただしらみを殺しただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、けがらわしい、有害なしらみを」

 今度はしらみだ。「だが、もっとも、ぼくはでたらめをいってるんだよ……ソーニャ」彼女はまた困惑する。

 「<…>頭脳と精神のしっかりした強い人間は、彼らの上に立つ主権者なのだ!多くをあえてなしうる人間が、群集にたいして権利を持つんだ!より多くのものを無視しうる人間は、群集にたいして立法者となるのだ!だれより最も多く敢然と実行しうる人間は、それこそ最も多く権利を持つことになるんだ!これは今までもそうでったし、これから先もずっとそうだろう!ただ盲目にはそれが見わけられないんだ!」
<…>
 ソーニャは、この陰鬱な教典が彼の信仰となり、法律となっているのを悟った。
<…>
 「権力というものは、ただそれを拾い上げるために、すすんで身を屈することのできる人にのみ与えられるのだ。そこにはただ一つ、たった一つしかない―すすんでやりさえすればいいのだ!(中略)で、ぼくは……ぼくは……それをあえてしたくなった、そして殺したのだ……ぼくはただあえてしたくなっただけなんだ、ソーニャ、これが原因の全部なんだよ!」

 ここにきてラスコーリニコフの口から真実が述べられる。彼の告白は余蘊ない。

 「<…>ぼくが自分で自分に向って、おれは権力をもっているかどうか?などと自問したり反省したりする以上、つまり、それを持たないわけだということが、ぼく自身にわかっていなかったのだなんて、まさかお前、そんなことを考えやしないだろうね。それから『人間はしらみかどうか?』などという問いをみずから発する以上、人間はぼくにとってしらみじゃない、ただこんな考えを夢にも頭に浮かべない人にとってのみ、なんら疑問なしに進みうる人にとってのみ、初めて人間はしらみであることを、ぼくが知らないと思っているのかい?<…>ぼくはそのとき知りたかったんだ、少しも早く―自分も皆と同じようなしらみか、それとも人間か、それを知らなければならなかったんだ。おれは踏み越すことができるかどうか?身を屈して拾い上げることを、あえてなしうるかどうか?おれはふるえおののく一介の虫けらか、それとも権利を持つものか……」
<…>
 「<…>あのときは悪魔がぼくを引きずって行ったのだ。そして、悪魔のやつ、あとになってから、『お前はあんなまねをする権利を持っていなかったんだ、なぜって、お前もみんなと同じしらみにすぎないのだから』とぼくに説明しやがったんだ!悪魔がぼくを愚弄したんだ。<…>じつはね、あのとき、ぼくがばばあのとこへ行ったのは、ただ試験するために行ってみただけなんだ……それを承知しといてもらおう!」
 「そして殺したんでしょう!殺したんでしょう!」
 「だが、いったい、どんなふうに殺したと思う?殺人てものは、あんなふうにするものだろうか?ぼくが出かけていったように、あんなふうに人を殺しに行くものだろうか……<…>いったいぼくはばばあを殺したんだろうか?いや、ぼくは自分を殺したんだ、ばばあを殺したんじゃない!ぼくはいきなりひと思いに、永久に自分を殺してしまったんだ……あのばばあを殺したのは悪魔だ、ぼくじゃない……もうたくさんだ、ソーニャ、たくさんだ!ぼくをうっちゃといてくれ」
 
 殺人の理由が彼の口から詳細に語られている。彼の犯罪理論は砂上の楼閣であった。そもそも彼自身、その初めから己の空想には全面的に信を置けなかった。馬鹿馬鹿しくて、愚にも付かないような妄想であったはずのものは、種々の要因によって彼の意思を超えて彼を観念の虜とさせてしまったのだ。彼は強迫観念に支配され、自分の思想がどれほど危ういものであるかを確かに実感していたはずであったのに、想念の傀儡となり、悪魔の僕となって、斧を外套の内側に掛け七百三十歩の道程を歩いていくこととなる…。

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