『罪と罰』ソーニャ-Ⅲ-

 告白は終わった。全てを聞き終えたソーニャは大地に接吻し罪を認め、苦しみをその身に引き受けるように諭す。しかしラスコーリニコフはそれに従わない。彼の心にはまだあの醜い獣的な欲求、純動物的なエゴイズムがある。

「いったい、ぼくは、やつらになんの罪があるんだい!なんのために自首に行くんだ?やつらに何をいおうってんだ?(中略)……ぼくは行かない。それにいったい何をいうんだい?人を殺したが、金をとる勇気がなく、石の下へ隠しました。とでもいうのかね?」

 ソーニャはもはや気がついている。こんな言葉は彼にとって空疎でしかないことを。彼自身がこのエゴイスティックな振る舞いを自嘲していることを。ラスコーリニコフは自分の理性ですら制御することができない分裂を抱えている。精神的な崩壊が始まっている。アイデンティティーが幾重にも重なった観念に糊塗されてもはやその存在を誇示することができなくなっているのだ。彼の心に潜んでいる純粋な動物的本性―それは彼のエゴイズムに本能が従属しているということ―は、彼に必死の抵抗を促しているが、自己を見失った彼にあって、そんな足掻きは嘲笑と自己嫌悪をもよおさせるものでしかない。ソーニャは寛大であった。彼女の慈悲全ては今、彼に注がれていた。

「だって、いっしょに苦しみに行くんですもの、いっしょに十字架を負いましょうよ!……」
……
 
 「いっしょに十字架を背負いましょう」。ソーニャの声がラスコーリニコフの胸中に反響していた。その残響は彼を自白の道へと誘っていくこととなる。悪魔の声は彼を絶望へと導き、そして今ソーニャの声が彼を復活へと導いていく。ソーニャの部屋に入ったとき「太陽はいつしか西に沈み始めた。」夕日が二人を照らす。

 「ぼくはね、ソーニャ、どうもそうしたほうが得らしいと考えたんだよ。それには、一つの事情があって……いや、話せば長いことだし、また話したってしようがない。ただね、何がぼくのかんにさわるかといえば、ほかでもない!あの愚劣な畜生づらをした連中が、たちまちぼくをとり巻いて、目を皿のようにして、まともに人の顔をじろじろ見ながら、愚劣な質問をもちかけて、それに答弁を強いたり―うしろ指さしたりするかと思うと……それがいまいましいんだ。」

 ソーニャはただ黙ったままである。その沈黙の眼差しは裁断する者の無言の圧力などではなく、彼の全てを理会し、彼の全てをありのままに受け入れる慈愛の聖母のそれである。

 「ソーニャは無言のまま、箱の中から糸杉のと真鍮のと、二つの十字架を取り出した。そして自分も十字を切り、彼にも十字を切ってやった後、その胸へ糸杉のほうをかけてやった。」

 ソーニャは糸杉の十字架を彼にかける。それは十字架の苦しみを共に受けようとする彼女の献身と愛を示している。十字架のモチーフは、民間信仰における儀式に由来するという。古くから十字架交換の儀式は心の連帯を象徴するだけでなく、血縁なき同一性ともいうべきものを表すのだという。

 「これはつまり、ぼくが十字架の苦しみを背負うというシンボルだね、へ、へ!まるでぼくが今までに、苦しみかたがたりなかった、とでもいうようだね!糸杉のは、つまり民間に行われるものなんだね。そして真鍮のほうはリザヴェータので、それを自分で取るんだね―どれ見せてくれ!なるほど、これがあの女の胸にあったんだな……あの時?ぼくはこれと同じような十字架を二つ知ってる、銀のと、肌守りの聖像と。ぼくはそれをあの時、ばばあの胸に投げつけて来た。いっそぼくは今あれでもかけるよかったんだがなあ、まったく、あれをかけるとよかったんだ……<…>」
 
 ソーニャは糸杉の十字架、民間で行われる儀式の十字架を彼に渡した。それは彼がそれをかけることによって民衆(世界)に回帰することを強く願っていたからだ。ラスコーリニコフは世界から離れ、そして孤独の荒野を彷徨った。その苦しみは人が民衆を離れては決して生きていけない事を彼に痛切に実感させるものであった。その大地から生命の根をもぎとられてしまった彼の浮遊状態の生の空白が齎す絶望をソーニャはわかっていた。ソーニャも自らの身を滅ぼした人であったから…。だが、彼女はそれでも民衆と共に在ろうとし続けた。カペルナウーモフ家の同じ屋根の下で、主人のびっこやどもりの家族と触れあい、リザヴェータと一緒に聖書の朗読をしたりしていた。それは彼女の罪の意識を拭い去る事はできなかったかもしれないが、確かに彼女は民衆の一人として民衆と共に生きていたのだ。
 ラスコーリニコフはソーニャを同じ踏み越えた者といったが、彼女は真に踏み越えてはいない。この表現が適切さを欠くならば、ラスコーリニコフ的な踏み越えなどしていない。
 彼女は身を滅ぼし、自分で自分を殺した神の掟に背く離反者であった。だが、彼女の信仰の内実は神から全く隔意していない。彼女はラスコーリニコフが願い求めたような、「権力者」「新世界の神」などという立場は露程も望んでいない。彼女の踏み越えはそんな彼の権力志向に基づいているのではない。
 ラスコーリニコフは間違っている。彼は自分が「法を犯した」、その一事でもって世間から悪人として糾弾されることに屈辱をおぼえ、また同時にそんな自分を甘受しなければならないという己の弱さ、存在に恥辱を感じていた。彼は物事の表面しか見ようとしない人間達が我慢ならなかった。しかし、彼もまた同様の誤謬に陥っている。彼もただ「踏み越えた」、その一事でもってソーニャを自分と同じ立場に引きおろすが、彼と彼女では踏み越えのないように大きな懸隔があるのだ。その事に彼は気がついていない。ソーニャはその身を犠牲にしたが、彼女の生は民衆からは決して離れていなかった。
 ソーニャはラスコーリニコフの悶えに悲しみを感じていた。だからこそ彼がまた世界へ、それはつまり民の下へ戻るよう願いながら彼に糸杉の十字架を手渡した。そして自らは真鍮の、リザヴェータの十字架をかけ、リザヴェータの苦しみをその身に担おうとした。
 ラスコーリニコフはソーニャのもとを去った。大地から離れた彼がまた民衆のいるこの地へと還ってくることを願い贈られた糸杉の十字架をかけ、彼はその足で警察署へと歩く。センナヤへはいった。広場の真ん中まできて、突然彼の方寸に衝撃が起こった。それは彼の全神経を領してその全存在をとらえつくした。

 「彼は急にソーニャの言葉を思い出したのである『四つ辻へ行って、みんなにおじぎをして地面に接吻なさい。だって、あなたは大地にたいしても罪を犯しなすったんですもの。そして、大きな声で世間の人みんなに、<わたしは人殺しです!>とおっしゃい』この言葉を思い出すと、彼は全身をわなわなとふるわせ始めた。この日ごろ、ことにこの四、五時間の、出口もないような悩ましさと不安は、すっかり彼を圧倒しつくしたので、彼はこの新しい、充実した渾然たる感情の可能性へ飛び込んで行った。それは一種の発作のように、とつじょとして彼を襲い、彼の心の中で一つの花火をなして燃えあがり、たちまち火災のように、彼の全幅をつかんだのである。そのせつな、彼の内部にあるいっさいが解きほぐされて、涙がはらはらとほとばしり出た。彼は立っていたままその場も動かず、地面へどうとうち倒れた…… 彼は広場のまん中にひざをついて、土の面に頭をかがめ、歓喜と幸福を感じながら、そのきたない土に接吻した。彼は立ちあがって、もう一度身をかがめた。」

 私達はここでラスコーリニコフが大地と、民衆と和解したのだと思う。だが実際彼の苦難は存続する。民衆との和解はまだ先にあるのだ。しかし、この大地接吻が彼にとっての復活の曙光であったことには疑いない。神から離れ、盲目のなか終わることのない果て無き道を彷徨ってきた彼の蒙は啓かれる。瞑目されたまなこが開かれたとき、その眼に映ったのは一つの幻。
 
 「途中、ある一つの幻がちらと目にうつったが、彼はべつに驚きもしなかった。それはもうそうなければならぬと、予感していたのである。」

 この幻影はキリストの姿である。自首をし苦しみを受けに行くラスコーリニコフの眼に、ゴルゴタの丘を登坂するキリストの魂がリンクしたのである。今、人類の罪を引き受けて十字架に処せられるキリストの姿は流刑地へといくラスコーリニコフに重ねられている。

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