『罪と罰』-ソーニャ-

  『……リザヴェータ!ソーニャ!ふたりともつつましい目をした、つつましいかわいそうな女だ……やさしい女たち……なぜ、あの女たちは泣かないのか?……なぜ、うめかないのか?……あの女たちはすべてを与えながら……つつましい静かな目つきをしている……ソーニャ、ソーニャ!静かなソーニャ!……』
 
 ラスコーリニコフはソーニャのもとへ向かった。彼をして彼女のアパートに赴かせたものとは、彼らが同じ、「自らを滅ぼして踏み越えてしまったもの」であるという連帯意識であった。そのときの描写に次のようなものがある。

「ラスコーリニコフはいきなりその足で、ソーニャの住まっている濠ばたの家をさして行った。それは緑色に縫った古い三階家であった。」

 ドストエフスキーの作品においては様々なディテールが象徴的な意味を担っている。緑は清浄のシンボルを表す。ソーニャは緑を纏う存在である。緑色のショールに身を包むソーニャは救済するものである。

 
 「カチェリーナ・イヴァーノヴナは肺病です、しかもたちの悪いほうです。あの女はまもなく死にます」
<…>
 「いいえ、違います、違います、違います!」
<…>
 「だって、そのほうがいいじゃありませんか、なくなったほうが」
 「いいえ、よかありません、よかありません、けっしてよかありませんわ!」
<…>
 「だが、子供たちは?もしそうなったら、あなたは、どこへ子供らをやるつもりです、あなたのところでないとすると?」
 「ああ、わたしもうわかりませんわ!」とほとんど絶望の調子でソーニャは叫ぶと、いきなり両手で頭をかかえた。察するところ、この考えはもう幾度も幾度も、彼女自身の頭にひらめいたもので、彼はただそれをまたつっつき出したのにすぎないらしかった。
<…>
 「ポーレチカもきっと同じ運命になるんだろうな」と彼は出しぬけにこういった。
 「いいえ!いいえ、そんなことあるはずがありません、違います!」とソーニャは死にもの狂いの様子で、まるでだれかふいに、刀で切りつけでもしたかのように叫んだ。「神さまが、神さまがそんな恐ろしい目にはおあわせになりません!」
 「だってほかの人にはあわせてるじゃありませんか」
 「いいえ、いいえ!あの子は、神さまがまもっていてくださいます、神さまが!……」と彼女はわれを忘れてくりかえした。
 「だが、もしかすると、その神さまさえまるでないのかもしれませんよ」
<…>
 ふいにソーニャの顔には恐ろしい変化が生じ、その上をぴりぴりと痙攣が走った。言葉に現わせない非難の表情で、彼女はじっと彼を見つめた。何かものいいたげな様子だったけれど、ひと言も口をきくことができないで、ただ両手で顔を隠しながら、なんともいえぬ悲痛なすすり泣きを始めた。
 「あなたはカチェリーナ・イヴァーノヴナの頭がめちゃくちゃになりかかっているとおっしゃったが、あなたご自身の頭だって、めちゃめちゃになりかかってるんですよ」しばらく無言の後に、彼はこういった。
<…>
 …とつぜん彼はすばやく全身をかがめて、床の上へからだをつけると、彼女の足に接吻した。ソーニャは愕然として、まるで相手が気ちがいかなんぞのように、彼から一歩身を引いた。じっさい、彼はまるっきり気ちがいのような目つきをしていた。
 「あなたは何をなさるんです、何をなさるんです?わたしなんかの前に!」と彼女は真っ青になってつぶやいた。と、急に彼女の心臓は痛いほど強く強く締めつけられた。
 彼はすぐ立ちあがった。
 「ぼくはお前に頭をさげたのじゃない。ぼくは人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」

 ラスコーリニコフは自分がさっき母や妹のまえで、ルージンなどソーニャの小指一本の値打ちもないと言ってきたことを彼女に伝えながらさらに続ける。

 「ぼくはお前の不名誉や、罪悪にたいして、そういったのじゃない、お前の偉大なる苦痛にたいしていったのだ。ところで、お前が偉大なる罪人だってことは、そりゃそのとおりだ」と彼は感激にみちた調子でいいたした。「お前が罪人な訳は、何よりも第一に、役にも立たぬことに自分を殺したからだ、売ったからだ。これが恐ろしいことでなくてなんだろう!そうとも、それほど憎んでいるこのどろ沼の中に住んでいて、しかも同時に、ちょっと目を開きさえすれば、こんなことをしていたって、だれを助けることにもならないし、どんな不幸を救うことにもならないのを、自分でもちゃんと知っているんだもの、これが恐ろしいことでなくてなんだろう!それに、第一、ききたいことがある」

 ラスコーリニコフの朗々たる弁は澱みない。そして彼の狂気じみたその調べはひとつの切実な疑問をともなってソーニャの前に響き渡る。

 「どうして、そんなけがらわしい卑しいことと、それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう?いっそまっさかさまに水の中へ飛び込んで、ひと思いにかたづけてしまったほうがずっと正しい、利口なやりかたじゃないか!」 
<…>
 ことによったら、彼女はもう幾度も絶望のあまり、どうしたらひと思いにかたづけることができようかと真剣に考えたのかもしれない。<…>このあさましい恥ずべき境遇を思う心が、もう以前から、悪夢のようにはげしく彼女を苦しめ、さいなんでいたことは、彼も十分に了解した。今日の日まで、ひと思いに死のうという、彼女の決心を控えさす力を持っているのは、はたしてなんであるか?それを彼は考えた。と、その時はじめて、あの哀れな幼いみなし子たちと、半気ちがいのようになって頭を壁へぶっつけたりする、あのみじめな肺病やみのカチェリーナが、彼女にとっていかなる意味をもっているかを悟ったのである。
<…>なぜ彼女があまりにも長い間、こうした境遇にあまんじていられたのか?身投げすることができなかったとすれば、どうして発狂せずにいられたのか?これはなんといっても彼には疑問だった。もちろん、ソーニャの位置は不幸にして、唯一の例外とはけっしていえないながらも、ともあれ社会における偶然の現象である。その点は彼も了解していた。けれども、つまりこの偶然性と、彼女の受けた多少の教育と、彼女のそれまで送ってきた生活などは、このいまわしい道へはいる第一歩において、ただちに彼女を殺す原因となりえたはずである。いったい何が彼女を引き止めているのか?
<…>
 『彼女の取るべき道は三つある』と彼は考えた。『掘り割へ身投げするか、気違い病院へはいるか、それとも……最後の方法として、理知をくらまし心を化石にさせる、淫蕩のただ中へ飛び込むかだ』
<…>
 『いや、今まで身投げから彼女を引き止めていたのは、罪という観念だ。そしてあの人たちだ……もし彼女が今まで気が狂っていないのなら……』
<…>
 滅亡の深淵のふちに―もうそろそろ自分を引きずり込みかけている臭い穴の上に立って、危険を警告されているのを聞こうともせず、手を振り、耳をおおっているなんてことが、いったいまあ、できるものだろうか!ひょっとしたら、何か奇跡でも待っているのじゃなかろうか!

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