泉鏡花論Ⅲ『夜叉ヶ池』

 中上健二が鏡花との精神的血統を覚え忸怩たることなく高らかにその血脈の紐帯を謳ったように、私も三島から薫陶を受けた。それは、彼の文学で顕在されている美の形象に対し私が相接していることを示す。同時に、美に於いて、芸術に於いて、世界に於いて着想する際、それらが善的な対象として彼のなかで「美なるもの」となって鋳造されるその思想を私も飲み込んでいることを意味している。
 三島の私への影響は、「鏡花論」として評した彼の鏡花作品における女性観を読んだ私にある種の狭窄的な見方を強いた。しかし、如何なる評言も鏡花作品を通して感得される世界像においては憂き目を見てしまう。批評という名で世にでている一定の固定化されたイメージは、鏡花作品に登場する女性、その聖なる存在者に心奪われたとき、女人達への熱烈な懸想の念に対して思慕の炎を消失しうる程すべはない。
 

                       

Ⅰ 鏡花の汎神論的自然観に基づく水の形象―女性と水の関わり―
 
 「水は、美しい。何時見ても……美しいな。」

 『夜叉ヶ池』冒頭、萩原晃(以下晃と表記する)の弁である。鏡花作品では水のモチーフは重要であるが、この作品において水は、この世とあの世、此岸と彼岸、ソドムとマドンナといったアンヴィヴァレントな位相の、その境界として存在するのみならず、世界の秩序を司る神的な存在者としても描かれているが、それはさながら近世オランダの哲学者バルフ・デ・スピノザの提唱した汎神論の思想を喚起させる。彼の哲学は、当時のユダヤキリスト正教からはとても異端的な、自然=神とする「神即自然」という概念でもって現わされた内在神論である。ここで最初に彼の汎神論哲学の外延を簡明に概略してみよう。鏡花作品における水のエレメントは、スピノザの主張するような「自然の内に神が存在する」とみる彼の哲学体系と密接に関連していることがわかるであろう。
 彼の思想の要諦は以下のようなものである。まず、「神即自然」の概念だが、これは無限なる自然が万物の唯一実態であり、他の全ての存在物はこの唯一無二たる自然の実態から派生して変容した様態であるとみる意味として、「自然」が「即」ち「神」であって、その神=自然からあらゆる事物が発生したと捉えることである。自然を超えるもの、つまり自然の外部にたつものは何も存在せず、無限な自然を存在の淵源として把握し、その自然を全体としてみるときそれが神なのである。
畢竟するに、世界にあまねく遍満している個物は神である自然の無限の力を分有しながら、其々独自の形態でもって己が存在を定立させているというわけである。
 立ち返って晃の文言を再び眺めてみれば、彼は「水は美しい」と言っている。テクストでは「綺麗な水だよ。」と晃に二の句を継がせているが、鏡花が作品冒頭にこうした言葉を布置したのは勿論偶然でも気紛れでもない。この(作品)世界が美しい水によって司られていることを鏡花はまず初めに示しておきたかったのである。水は妖怪たち魑魅魍魎の住まうあの世の世界と琴弾谷の村民、つまり人間の暮らすこの世の世界を分かつ境界であり、双方の世界の均衡を保つ神であるが、人間であり、この世の側であるはずの晃と百合は、実はあの世の秩序によって選別され、既にその半身を「あちら側」に埋没させた選ばれた人間である。そのことを何よりもまず示唆せしめる言辞として、晃の言とそれに応える百合の会話は作中冒頭に置かれなければならなかった。
 さてスピノザ的汎神論の思想と水との連関であるが、これは鏡花作品において水がまるで神の如くに意思を持ちながら人間の生殺与奪を決定し、水=神に選ばれた女性がその恩寵を受け世界の創造者、調律者たる存在として作品上に屹立しているところから私はその着想を得た。これに関して『新文芸読本 泉鏡花』所収の論文中で種村季弘は次のように指摘している。「<…>しかもかならず水のほとりに、一人の女性が現れて主人公を慰撫してくれる、というお定まりがあるのである。<…>誘惑する水辺の女は<…>ときとして男を呑みつくしてしまう恐ろしい魔性をあらわにする、両義的な存在なのである。それに応じて水そのものも、鏡花の世界では洪水のように破壊的な作用を及ぼすか、この世ならぬ隠れ里に通ずる恩寵的な水路の役を果たすかの、いずれかになる。」ここで種村は、鏡花作品の女性がまるで異界の住人であると述べるが、その感慨は正しい。女性は水という神に選ばれる超俗的な存在者として、まるで超越なる神の思し召しを受けた巫女のようにこの世に座しているのである。私がここで言う「水」とは、広義的な意味として使用している。即ち、水とは自然の一部であるということであり、ここに水=神=自然の公理-スピノザ的汎神論思想<神即自然>-の前提式が定立するわけである。『夜叉ヶ池』では水に住まう眷属の宰領たる白雪姫の加護によって百合は魂の救済が為されるが、これも水による神―汎神論的自然―(作品ではその具体的的顕現として白雪姫がいる)の福音である。
 かかる水と女性の有機的関連性を見事に看取した評として笠原伸夫の見解を紹介したい。彼は鏡花的美意識の基層に水と結びついた女性像を見出している。「鏡花の女たちはどうやら水に映えるものらしい。いや鏡花にとっては幻妖もまた、といわねばなるまいが。ではいったいなにゆえに水なのだろう。華やかな彩色と艶めく輪郭をもつ、この世のひと、あの世の人の多くが、その作品において溢れでる水とともに顕われるのは、<泉>という性をもつこの作家の、未生以前の宿命でもあったのだろうか。それにしても水に映える女人は、夢でも現でも、その混融する処でも、優しく美しい。いや正確にいえば美しいからこそ水に映えるのだともいえる。」(『泉鏡花―エロスの繭―』国文社 一九八八)

Ⅱ 鏡花の女性に見られる聖性とリアリティ

 前章において水が内在的な神として鏡花作品に顕在しながら、その水=自然にスピノザ的な汎神論思想を読み取りつつ、神による自然と女性との関わりについて見てきたが、本章では抽象的で観念的でない、具体的な存在者としての女性を通して、鏡花が描く女性像が如何なる人格性を付与しながら小説中において生動しているかを眺望してみたい。ここでは鏡花の描破する女性の肉感的なエロティシズムにまで肉迫することは出来ないが、『夜叉ヶ池』を通しその外皮だけでも触れるよう、俯瞰的な視座から論じていければと考えている。
 さて、先述した笠原伸夫だが、彼は別の著書で鏡花の女性に対し次のように言っているが、ここでは私は彼の論に必ずしも賛同できない。彼によれば鏡花世界の女性たちは「類型的・没個性的」であり、彼女らには「顔がない」という。その理由として彼は、鏡花が女性を創造するときには既に彼の中でその理想形が存在しており、その彼の求むる理想的な造型から逸脱するような女性像は彼によっては決して招来されないからだという。(注 彼はこう述べた後、このような類型によって鏡花独自の女性像が描き出されていくと、その手法を絶賛しており決して鏡花批判はしていない。詳しくは笠原の論を参照されたい。)「つまり生活者としての存在感覚をなまなましくてらしだすことはほとんどないのだ。皮膚の荒れやううぶ毛などを描くことはない。いうなれば内部にしつらえられた美の範型にそわぬ部分はすべて截り落としてしまうのである。(注 強調は引用者)」(『泉鏡花―美とエロスの構造―』至文堂一九七六) 
 確かに彼の論旨は説得的である。何故ならば実際に鏡花のこうした女性への憧憬は確実に作品上に表出されているからであり、それこそがまさに序論でも俎上に挙げた「永遠の女性」像に向けられる彼の甘美なる夢想そのものに他ならないからである。そしてまた私自身も(恐らく三島由紀夫も)彼の描くこの「鏡花的美の具象としての女性」に恋慕とカタルシスを覚えるからこそ、こうして矢も盾もなくなって彼が創出する女性の肖像に光を照らすことに駆り立てられるのである。しかし笠原が指摘するような女性は観念的に過ぎると言わざるを得ない。実際、鏡花作品は観念小説だと言われる所以にはかかる作者の作中人物に対する過度な思い入れ―つまり理想的存在として作品上に登場するということ―があるが、これはそのキャラクターが作者の客体として留まり、主体的存在者として小説世界で跋扈することがない-つまり笠原の言う「生活者としての存在感覚」が存しない-ということを決して意味しない。むしろ鏡花の紡ぐ女性の形象には理想的で観念的であり、この世の秩序や論理からは超脱したような異世界の人間たる神のごとき女性であっても、それら女性に確かな肉感、艶かしさやいじらしさ、そういう人間としての女性が放つエロティシズムの芳香が確実なものとして感知されるのであり、読者はその懸隔した二つの相貌を持つ女性像に対して魅力を感じるのである。ここが泉鏡花という作家の本領であり、人口に膾炙した彼の文学における「幻想性」なる指摘も、その特性の一端はこの女性の観念性とリアリズムの実に見事な融合、その渾然一体とした幻惑の統合に存している。『夜叉ヶ池』の学円と百合の会話をここで見てみよう。

 百合  先刻は、貴客、女の口から泊りの事なぞ聞くんじゃない。……その言について、宿の無心でもされたらどうするとおっしゃって。……最う、清い涼いお方だと思いましたものを、……女ばかりいる処で、宿貸せなぞと、そんな事、……もう、私は気味が悪い。
 学円  気味が悪いな?牡丹餅の化けたのではないですが。
 
 百合  こんな山家は、お化けより、都の人が可恐うござんす、
     ……さ、貴客どうぞ。

 学円  これは、押出されるは酷い。(不承不承に立つ。)
 
 作品を通読すれば、百合が可憐な女性であることがわかる。それこそ鏡花文学におけるところの理想的観念的な形象、非俗で聖なる存在者である。こういった場合、往々にしてその女性の人間的な魅力は希薄になりがちである。小説を始めとする創作においては、キャラクターを生み出す際、或る人間を読者が求めるであろうとするところの理想的な境地に近づけさせればさせるほどに、その人物は読み手が希求するようなある種の願望を充足させることには成功するであろうが、その代償として人間が人間であるがゆえに蔵しているはずの人としての不完全さを喪失させてしまいがちであり、かかる帰結として、その理想的人物は読者の共感と渇望の下に望まれ産出されたにもかかわらず、「完全さゆえの非人間的気質」という完璧さによって、リアリティの消失した「彼方の人」として、私達の世界に存在する実在の人間から隔絶してしまうというジレンマがある。尤もこれは私の感想では漫画やアニメに多くみられ、人間の感情の機微を文字による圧倒的な情報でもって描き出すところの小説では相対的に少ないと思われるのだが、それでもそういった錯誤に陥ってしまう作品は事実存在している。(少なくとも私は見てきている。)
 その事を踏まえて件の箇所を眺めてもらえれば、この百合の台詞にはそういった理想と現実の鬩ぎあい、相克が既にこの作品序盤の百合と学円との遣り取りのなかで解消されているのがわかる。一見すればなんと言うことはない場面にも思えるかもしれないが、百合の人間的滑稽さが垣間見られる。
 百合は学円が彼女の慕う晃を訪ねてきた都会の人であり、彼のおとないの目的は晃を連れ戻さんとしていると学円の心中を忖度していた。それだからこそ彼女は彼を出し抜けに立たせて急いで帰らせようとするのである。
 このシーンを私は秀逸に感じる。普通、百合を聖女として仕立て上げようと試みるならば、彼女は物語中において常に完全であるように造型されるはずだ。それは彼女が誰にでも等しく優しくて、慈愛に満ち、人々を助けるためであれば迷うことなく己の命を差し出すような精神的完全さである。そういった人物は確かに崇高で尊いが、人間的な共感を読者に抱かせるようなリアリティに欠けてしまう。その人物は面白みに欠け、そして可愛らしさを損ない、さらには官能的でもないのだ。百合という女が方寸を掴んで離さないのは、彼女の気高き自己犠牲の愛があまりに可憐で純粋無垢で、そして儚く、そのリリカルな淡い生の軌跡がロマン的美を現出させているからであるが、それだけでは彼女は宗教的な領域に限定されるような神秘劇のヒロインの相を逸し得ない。それは絵画的な不変の美であり、そこでは身体はある象徴として記号化された精神の従属物なのである。百合を唯物的な肉体のある一女人たらしめているものは、彼女の些末な日常風景のなかに存する人間的感情の発露なのである。これはいくら強調しても強調しすぎることはない。このことを最後に主張しながらこの章を終えたい。

Ⅲ 世界を律するものとしての女性

 近代になって世界はその様相を大きく変えた。神は死に絶え、実存主義的な理性による人間観があらゆる価値を相対化させ、また拝金主義による貧富の拡大が弱肉強食の社会と我欲に塗れた人間を生み出した。それはさながらニーチェの超人の如くに優勝劣敗の価値観を私達に蔓延させたのだ。(注:「泉鏡花論Ⅱ」参照。)
 そして彼の近代に対する嫌悪は俗物的なる人間の蔑視となって作品上に表れている。彼は権力を求め、他者を蔑ろにし、弱者を虐げるような社会が罷り通る近代社会を痛罵し、対蹠的に弱者として虐げられるもの、自己犠牲的な精神でもって他者を救わんとするものを鏡花世界のなかでは、選ばれしものであり救済されるものとして登場させた。
 『夜叉ヶ池』では、百合は世界から選ばれたものである。澁澤龍彦は「もともと鏡花の作品は、小説でも戯曲でもすべて、俗世間と選ばれた人間との対立を契機として動き出し、最後には選ばれた人間が妖怪(それは美女である場合が多い)の庇護によって救われるか、あるいは霊界に蘇生するといったパターンのものが多いので<…>」と述べるが、超自然的な力でもって世界を変異させ、人間の運命すらも決定させてしまうような半妖の類には、確かに澁澤の言うように女性が多い。
 こうみると、鏡花文学においては女性こそが世界に開かれた存在であり、神によって愛された存在であるように私には思えるのだが、これは飛躍に過ぎる見解であろうか。Ⅰ章で水のエレメントが神の似姿として登場していると述べたが、その水の神たる竜神の化身として具現化された白雪姫は、実はかつて村に住み、村民のために人身御供となった末夜叉ヶ池に身を沈めたという凄愴な過去をもっていた。彼女は近代的なこの世の論理が支配する人間界では村人という強者によって虐げられた弱者のはずであったが、彼女が悲愴のうちに夭逝し、後に妖怪となって世界=共同体としての村を司るようになった背景には、弱きもの、虐げられしものこそが神の恩寵に浴し、そして自らもまた神となって世界を調律せんとする鏡花の反近代性がその萌芽としてある。

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