ドストエフスキー『悪霊』概説

 豚の中に入った悪霊どもが湖に落ちて溺れ死に、悪霊を取り除いてもらった者はイエスのもとに座して救われる。「ルカ福音書」をエピグラフとして用い、西欧の近代思想に溺れ、とり憑かれた革命家たちが悲劇に見舞われ、残ったロシアの人々は浄化されキリストと共に生きるという明確なヴィジョンの下に重ねられているが、内容はドストエフスキー五大長編の一つだけあり、そう単純な図式で創出された作品ではない。
 かつて日本赤軍は自分達の仲間を疑念から射殺した。二十世紀ではオウム真理教がカルト的でファナティックな思想を反社会的な虐殺という行為で示した。これら事件は『悪霊』と通奏低音をなしている。故にドストエフスキー評者はこの『悪霊』を現代の預言書と言及した。
 ドストエフスキーが生んだ最も深刻なニヒリストともいえるニコライ・スタヴローギンが最重要人物と言える。(ニコライ・スタヴローギンという名はギリシャ語で「十字架」を意味する「スタヴロス」からとられている。)

  この小説には、二人の「神々」が登場します。すべてを可能ならしめる地上の神ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーと、一切を沈黙したまま見下ろす天上の神ニコライ・スタヴローギンです。二人に共通するのは使嗾する権力です。地上の神は現実の「変革」を志向するのに対し、天上の神は暗示によってフィフティーフィフティーの可能性に賭ける。(中略)そしてこの使嗾とは、じつは革命が必然的に抱え込まなければならない力学の本質なのです。(後略)
亀山郁夫『ドストエフスキー父殺しの文学 下』NHK出版

 亀山氏の論は、『悪霊』のモチーフを端的に表している。ピョートルはあくまで「地上的」な存在に終始しており、その生き方はあくまで俗的である。テロルによる政府転覆を標榜する彼の根底には虚無的、退廃的世界像に過ぎない。その行動の本質には革命を唆し地上の秩序を破壊せんとする子供じみた精神がある。
 一方スタヴローギンはあくまで「天上的」な存在である。ピョートルをして「あなたがいなければ私はガラス瓶の中の蝿です。ガラス瓶の中の理念です。」と言わしめる彼は、そのピョートルをはじめ様々な人物に影響を与えていく。シャートフは彼の思想の中にロシア民族の誇りと世界平和を賛美の心を見出し、その考えに打ち震えながらも、彼の中にある虚無を発見し絶望する。
 キリーロフは彼の無神論に惹かれ、神が存在しないなら自らが神にならねばならないという独自の形而上学的哲学を掲げては、「苦痛と恐怖を征服した人は自ら神となる」とし、それを証明するために自殺する。彼もまた殺されたシャーとフ同様悲劇的な人物である。
 ピョートルが現実的で革命に向けて実際に奔走していきながら人々を扇動していくのに対し、スタヴローギンはあくまでそういう地上の出来事一つ一つを高みから見下ろし、事件を促しを啓蒙、啓発していく存在として描写されている。(たとえばキリーロフに関しては、スタヴローギンは思想を吹き込み破滅へ導く者であるが、ピョートルは自殺遂行の場で「早く死ね。」と直接的に促す。)
 かかる傲慢な神、十字架を背負いながらその十字架そのものを侮蔑する神スタヴローギンこそ『悪霊』の神髄であるだろう。

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