三題噺【セピアレター】

『いきあたりばったり』からの収録です。

【色褪せた手紙、コーヒー、文庫本】
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拝啓
※※※様。
お身体の方はいかがでしょうか。
私は、特にかわりもございません。
そちらはこちらとはずいぶん勝手が違うでしょう。
慣れないこともあると思いますが応援しております。
さて、今回筆を執りましたのは
ほかの何でもない、あの事です。
そう、あの事なのです。
あなたに隠していた、あなたが気づいていたであろう、あの事。
もったいぶっていても仕方がありませんね。
お話ししましょう。
私が、高校生の時
あなたと出会う少し前に
私はある男性とお付き合いさせていただいておりました。
坊主頭に下がった目じり。
ひと懐っこそうな外見通りのお方でした。
私にはとてもとてももったいない、お方でした。
しかしあなたもご存じのとおり。
そのころはまだ、『お家』の考え方の強かった頃でしたので
この関係は人生で最大の秘密だったのです。
———秘密!———
その字が表すとおり、秘められた蜜はひどく甘美でございます。
私はたちまち、その魅力に飲み込まれてしまいました。
意識すればするほど、隠し事というのはボロが出るものでございます。
まず気が付いたのは、友達でした。
最近様子がおかしいと、問い詰められたのです。
ほおっておいてくださいと何度もお願いをしたのです。
ですが、噂は風より早く広まっていきました。
そしてあの方のもとにも、秘密にしようといってくださった、あの方の耳にも
このことが伝わってしまったのです。
特別怒りもなさりませんでした。
ただ、一緒にいて、ひどく心苦しかったのです。
お互いをつないでいた『秘密』という糸が、ひどくか弱く見えたのでした。
この時点で気が付くべきだったのです。
二人の間に、愛が消えていたことに。
甘美な秘密でしかつながっていなかったことに。
別れは唐突で、劇的でした。
先方に、縁談の話が来たそうです。
あなたもご存じのとおり、親の、戸主の命は絶対でございます。
あの方は、淡々と別れを告げると
私の前からその一切を消してしまったのです。
まるで、過ごした日々が嘘であったかのように。
私はまだ幼く、愚かでございました。
そのあとあなたと出逢っても
あの方のことを忘れませんでした。
ずっと、胸の奥であの方を想いました。
それは、あなたにも伝わっていたのだと思います。
あなたは、幾度か、私にお尋ねになりましたね。
そのたび、私ははぐらかしました。
でも、あの時と同じ。
私は嘘が下手なのでしょう。
あなたはある時からぷつりと
このことをお尋ねにならなくなった。
安堵したのを覚えています。
でもそれは、あなたが気づいてしまったからなのですね。
今の私になら
自分がいかに愚かであったかわかります。
もっと早くに気づきたかった。
私は、愚かです。
あなたはそんな私をも、温かく包んでくださった。
私はその温かさに甘えました。すがりました。
覚えていらっしゃいますか。
あなたが、私の二十の誕生日にくれたもの。
私のイニシャル入りの、万年筆。
それほど裕福でないあなたの財布から
買ってくれた万年筆。
ほしいものは何かと聞かれて
文房具と、つっけんどんに返したのに
あなたは私のほしいものをわかってくれた。
あなたが寝静まった後、どれほど泣いたことか。
あなたに
忌まわしい赤の紙が来たとき。
私はどれほど
いかないでと
逃げましょうと
言いたかったことか。
あの紙を見てあなたは
何を思ったのでしょうか。
あなたが行ってしまう前の日に
私たちは、そんなに多くを語りませんでした。
あなたと、表面の話などしたくなかったのです。
あなたとともにある空間を
大切にしたかったのです。
優しく私の名前を呼んで
いってくる。
とおっしゃいました。
私は
家は任せてください
と答えました。
その時見せたあなたの顔は
今でも目に焼き付いております。
憤怒というには優しすぎ
悲哀というには物足りぬ
そんな表情をされていました。
危なくなったら
家なんてものは、見捨てなさい。
家なんてただの入れ物だ
中に人がいて、初めて成り立つものだ。
おまえがいなくなっては
家なんてものに意味はないのだ。
いいか。
何かあったらこんな家
すぐに見捨てなさい。
周りが何と言おうと。
私と、約束してくれまいか。
あなたの言っていたことが
一言一句違わず思い出せるのも
あなたの心が
胸に響いたからです。
あなたは戻らぬかもしれない。
それが、そのことが
やっと理解されたのです。
落ちる涙を眺めながら、もう一度
いってくる。
と、おっしゃいました。
私は
必ず、生きてください。
私も、生きますから。
と、答えました。
そして、翌朝。
あなたは行ってしまいました。
時が経ち。
平和な世が訪れ。
あなたの居場所もわからず。
家もなくなり。
私は、下働きで生をつないでいました。
ある日、皿洗いの日雇いに行った喫茶店で。
また、出会ってしまったのです。
あの方と。
あの方は、私の仕事が終わるまでお待ちになって
一杯の珈琲を、ごちそうしてくださいました。
たくさん、話をしました。
これまでのこと。
これからのこと。
奥さんを亡くし、子供を亡くし。
もう独りだと
お嘆きになられていました。
もし、あなたも独りなら
一緒にならないか。
私は、即座にお断りしました。
考えるよりも先に、首が横に振られていたのです。
そうか。
そう呟きになられると
あの方は笑顔で行ってしまいました。
どんな言葉も
あなたの言葉の前には
詭弁のように思われました。
その日。
私は自分の家のあった場所へ
足を向けました。
やはり私たちは
繋がっていたのでしょう。
そこに佇むあなたを見たとき
私は、泣きませんでした。
あなたも、泣きませんでした。
ただ、一言。
ただいま。
おかえりなさい。
あなたの知りたかったことは
これですべてなのです。
これ以上もこれ以下もないのです。
私ももうすぐあなたのもとへ伺うことになるでしょう。
そのときもまた
抱きしめてくださいね。
敬具

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