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過去に生きる男

 ある男は、ひどく打ちひしがれていました。それはもうけちょんけちょんに、いや、けちょんけちょんはなにか明るく跳ねるような語感がありますのでこの男にふさわしくありません。けしょん……けひょん……そう、へひょんへひょんに、打ちひしがれていたのです。
 男はこれまで献身的に実母の介護をしておりました。しかし、実母は男をまるで拷問官のように思ったまま、死んでしまいました。男には、男にとって唯一無二なパートナーと、それは愛らしい子どもがおりましたが、些細な、犬も食わないような諍いで、離別してしまいました。男には兄弟もありませんので、天涯孤独の身でした。男の父親? そんなものは、ありません。
 男は、死ぬつもりでした。もうこの世に籍を置いていたとしても、しかたなく、途方に暮れてしまうだけでした。男は、長く長く続いて愛されてきた大型のデパート――もうぼろくさくなって近傍のショッピングモールにお客をとられてしまいましたが――の屋上から飛び降りることにしました。
 このデパートの屋上には、遊戯場がありました。コインを入れればガタガタと揺れ動く動物型の機械とか、大人が簡単に動かせる小さなすべり台とか、アイスの自販機とか、そういったものが、がちゃがちゃと置かれていました。今はもう、閉鎖されてしまいましたが。
 屋上に続く階段には立入禁止の小さな看板が引っかかったロープがかけられているだけで、人の気配はありません。男はロープを少し持ち上げて階段を登りながら、幼い頃、母に連れられて何度か屋上遊戯場で楽しいひとときを過ごしたり、近所の悪ガキどもと内緒で遊びにきたりしたことを思い出していました。夏の夜にこっそりと忍び込んで肝試しをし、結局おかしなことは何も起こらず、親教師から怒られる方がよほど怖いと学んだこともありました。しかし、男に、あの頃の懐かしい気持ちは、もう微塵もありません。のそのそと階段を登った先に、かつて太陽の光を透かしていたガラス張りのドアが、汚くくすんでありました。男はドアを押しました。ドアは、音も立てずに重く開かれました。
 屋上遊戯場は、昔の匂いをたっぷり含んで男を迎えました。動物の機械は錆がこびりついていましたし、自動販売機は色褪せて購買意欲を減退させていました。すべり台は……記憶にある場所と、位置が少しズレていました。
「――――」
 すべり台の影から人の声が聞こえてきました。男は急な人の気配に狼狽しました。きょろきょろと辺りを見渡し、咄嗟に、豚だか猪だかわからなくなってしまった動物の機械のわきにしゃがみ込んで身を隠しました。
 男がこっそりとすべり台の方を見ると、白衣のようなものを着た人物が、何か小さいものを持って首をかしげていました。その人物は、どうも医者には見えませんでしたので、男は心の中で「博士」と呼ぶことに決めました。
 博士は、手に小さな時計を持っていました。そしてぶつぶつと、こんなことを呟いていたのです。
「どうも、時計は、おかしくなってしまったらしい。いや、それはいいのだけれど。ただの時計がワープ装置に耐えられるはずがないだろうし。しかし……止まっていないのは何故だろう。現在から未来へ向かう方向と逆行したのだから、進行するはずがないのに。出口の未来であるこの穴から落としたのなら、時計は過去へ向かうか、装置の入口に戻ってくるか、それしかないと思っていたけれど……。ううむ、どうも状況がわからない。研究室に戻った方が良さそうだ」
 博士は、時計をポケットにしまって、すべり台をずるずると移動させました。そうして博士は、男が隠れている動物の機械の前を
「ううむ。研究室を入口、ここを出口と定義して、未来へ移動することはできたのだから、ここから落ちていった時計は過去に移動したんじゃあないかなあ……」
などと言いながら通り過ぎて、男が入ってきたドアから出ていきました。その時、カチャンと、施錠せられる音が聞こえてきました。
 男は、身を隠したまま、ぼんやりと博士の言葉を考えていました。未来とか過去とか、なにやら壮大な研究が、ここで行われているようでした。男は小難しいことはよくわかりませんでしたが、あのすべり台の下に何か秘密があることはわかりました。男は立ち上がって、ドアのほうをチラチラと見ながら、すべり台の前までいきました。
 どこか新しくみえるすべり台は今は記憶通りの場所に収まっていました。男は、すべり台を手で押してみました。すべり台はいやに簡単に動きました。すると、すべり台の下に、ぽっかりと穴があいていました。
 その穴は、マンホールくらいの大きさで、平均的な成人男性がすっぽりとはまるくらいの広さでしたが、まさに奈落と呼ぶのにふさわしいような、そんな深さと不気味さを持っていました。男は思わず、生唾を飲み込みました。男は、先ほどの博士の言葉をよくよく理解はしませんでしたが、未来とか過去とか入口とか出口とか、そういうワードから、この穴が未来へワープする装置の出口であり、ここから飛び降りれば、どうやら過去へワープできるようだ、と考えました。男は、原理も何もわかりませんでしたが、この穴の不気味さから、これが過去につながっているという非現実を、生々しい現実として、受け止めることができたのです。
 男は、穴の前に足を放り投げて、考えました。男は、死ぬつもりで、この屋上遊戯場までやってきました。しかし、今目の前に、過去につながる穴があります。こんなことは想定していませんでした。あまりに大きな想定外です。男は、突然目の前に現れた選択肢をじっと見つめていました。
 この穴から、過去に行けたら。
 男は、これまでの人生を思い返していました。女手一つだというのに明るく元気で、いつも誰よりも自分のことを心配してくれた母親。こんな自分をよくよく理解し、そして一緒になってくれたパートナー。愛らしく無償の愛を注いでくれた子ども。もし、過去に行けたら。母親の最期をもっといいものに変えられるかもしれない。離別の原因になったあの喧嘩も、今ならもっといい解決方法が無数に湧いてくる。子どもの、あの笑顔がもう一度自分に向けられるのなら。
 男の人生は、幸せで満ちていました。ただただ、終わりだけが、いつも、悪い方向に行ってしまうだけなのでした。戻りたい。男はそう思いました。どうせ殺す命だ。今更、物怖じしないさ。
 男は、立ち上がりました。穴は、男が考えている間も変わらず、不気味さをたたえていました。男はセピアの空気で肺を満たして、幸せな思い出で胸を満たして、えいやっ、穴に飛び込みました。
 穴の中は見た目よりも狭く、男は直立の姿勢から動けなくなりました。頭上の光が、徐々に遠のいていきます。落ちていく感覚が体を満たしていました。不思議な感覚です。円筒型のすべり台を滑っているような、エレベーターの下降の瞬間を永遠に味わっているような、そんな感覚でした。
 どれくらい落ちたのか、わかりません。光の届かない真っ暗な空間が、頭上にも足下にも広がっていました。最初感じていたあの不思議な感覚も、慣れてしまったのか、感じなくなってしまいました。そこには何もありませんでした。
 そこには、何もありませんでした。

 博士は、デパートの中を足早に歩いていました。博士は、先ほどの不思議をずっと考えていましたが、己の未熟な思考では堂々巡りから抜け出せません。早く、地下にある研究室に戻らねば。その一心でした。デパートの中では、みなさんもご存知の通り、白衣は目立ちますので、脱いで手に持っていました。
 しかし、地下の惣菜コーナーで、博士は白衣を着た女性を見かけて、足を止めました。博士の後ろにいた御婦人がぶつかります。
 博士は、御婦人への謝罪もそこそこに、白衣の女性の元へ駆け寄りました。
「何でここにいるんですか、博士」
 博士は小声で、白衣の女性にそう話しかけました。白衣の女性は、博士を見て、悪戯のバレた子どものような顔をしました。
「あぁ。いや、君の帰りが少し遅いから、どうしたものかと様子を見に行こうと思って、研究室を出たんだよ。そしたら、このかぐわしい香りが漂っていたものだから、これを無視することは動物としての本能に抗うことになるが、その、何も抗う必要のない本能にまで抗うことはなかろうと、ね」
 白衣の女性は、手に有名店のロゴ入りの袋を持っていました。博士は、自分の遅れたのが原因と聞いて、少し気まずい思いをしましたが、気を取り直して、白衣の女性を率いるように、歩き出します。
「続きは、研究室で聞きますよ。博士」
 二人は、惣菜コーナーの端にある薄暗い階段の方に移動しました。階段は上に続くものしかありませんでした。この階が、最下階だったのです。博士は、ポケットから鍵を取り出して、階段の横にある『関係者以外立入禁止』とのプレートが貼られているドアの鍵穴に差し込みました。
「博士、お願いしますから、せめて白衣は脱いできてください。とても目立ちますから」
 博士は、早口にそういうと、ドアを開いて、白衣の女性に入るよう促しました。白衣の女性は、するりと博士のわきを通り抜けて、はあい、と気の抜けた返事をしました。
 ドアの先には、十段くらいの短い階段と、エレベーターホールがありました。照明は少なく、全体的に陰気な雰囲気です。
 博士はドアを閉めて鍵をかけました。白衣の女性は階段を降りてエレベーターのボタンを押しました。音もせずエレベーターが開いて、白衣の女性と博士がその中に身を収めます。エレベーターは、下へ下へ降りていきました。
「博士。ご報告したいことがございます。まず、先ほどの実験は成功です。私も、六分三秒先の未来へ移動できました」
 博士は、手に持っていた白衣を着ながら、そう言いました。白衣の女性は、一瞬だけ、少し安堵したような表情をしましたが、すぐに満面の笑みを浮かべて、うなずきました。
「ですが、出口から出てきたとき、こんなものが私の体に引っかかっていたのです」
 博士は、屋上遊戯場で持っていた時計を白衣の女性に見せました。白衣の女性は、その時計を受け取ってまじまじと見つめていました。
「これは、前の実験の時、穴に落としてしまった時計だねえ。これが、君の体に引っかかっていたのかい?」
「はい。前の実験から、もう時間が経っていますし、何しろ装置の中にあったのですから、壊れてしまっているだろうと思っていたのですが」
「動いているねえ。でも、今の時間とはだいぶずれているような……」
 時計をまじまじと眺めていた白衣の女性は、はっとして、博士に尋ねました。
「ねえ君、前回の実験の時間は覚えているかい?」
「時間ですか? 研究室の研究ノートを見ればわかりますが……」
 博士がそう言うと、白衣の女性は、はああ、とわざとらしくため息をついて、
「助手とはいえ、君もこの壮大な実験のメンバーなのだから、実験日時くらいは覚えていたまえ」
と言いました。
 そうです。我々が「博士」と呼んでいた人物は、博士ではなく、助手だったのです。そして、白衣の女性こそが、博士だったのです。
 博士、いや助手は、拗ねたような顔をして、すいませーん、と小声で謝りました。
 何分経ったでしょうか。エレベーターは止まって、ドアが開きました。その先には、無機質で近未来的な空間が広がっていました。
「じゃあ、ノートを持ってきてくれ」
 白衣の女性が、助手にそう言うと、まっすぐ進みながら首からぶら下げていたパスケースを壁にかざして、開いた壁の中に入っていきました。助手はその後を追いかけました。壁の先には、いかにもな研究室が広がっていましたが、一番奥の壁の真ん中に、大きな穴があいていました。
 助手はノートを見ながら、白衣の女性、いや博士のもとへ移動しつつ
「前回の実験は、◯月△日の午前十時ちょうどに始めています」
と報告しました。
 博士は、助手に向かってさらにこんな質問をしました。
「では、前回時計を落とした時間はいつだい?」
 助手も答えます。
「午前十時十分でした」
 博士は、なるほど、と呟いて、時計を机の上に置きました。
「君が今回実験をした時間から考えると、この時計は、前回落としてしまった時間で止まっていて、君と共に穴から出てきた瞬間にまた動き始めたと考えるのが、妥当だろうね。そう考えると、時間の辻褄が合う」
 助手は、先ほどの疑問を博士に問いかけてみることにしました。
「でも博士。この装置は、物質を未来に送るために、莫大なエネルギーを常に抱えているではありませんか。こんな普通の時計なんて、粉々になってしまったとしても普通じゃありませんよ。どうして、壊れずにいられたのでしょうか」
 博士は、ふうむと少し考えてからこう言いました。
「これはあくまで仮説でしかないけれどね。この装置は、この研究室の穴を入口、屋上の穴を出口としたタイムマシンだ。ただし、未来に行くことしかできない一方通行の、ね。この装置では、まだ過去に行くことはできない。どうしてだか、わかるかい?」
 助手は、急な問いかけに戸惑います。その様子を見て博士は、話を続けました。
「いいかい。我々は、何もせずとも未来へ移動しているのだよ。人類は、今、この瞬間を生きていると思っているかもしれないが、我々は、常に、今この瞬間から、次の瞬間へ移動しているというのが正確なのだ。だとすれば、未来へ移動するためには、今まさに我々がしていることの、単位時間あたりの移動の距離を伸ばしてやればいい。つまり、一を増幅させてやればいいだけなのさ。この装置は、そういう原理で動いているし、莫大なエネルギーは、この増幅のために費やされている。
 しかしね、過去に行くというのは、こんな具合にはいかない。未来は存在しているが、過去は存在していないからだ。我々は、未来があるのだから過去もあるはずだと、安易に考えているけれど、過去は、我々の脳内にしか存在していないのだよ。文字を書く、書いた文字が紙の上にある、だから『文字を書いたという過去』が存在していると、そう考えてしまうけれど、我々の脳内に『過去、紙に文字が書かれた』という認識がなければ、その文字は、『今』存在しているに過ぎない。その文字の過去は、少なくともこの世には存在していない。だとすると、存在しない過去に行くためには、まず過去を作り出さなくてはならない。零を一にしなくてはならないから、この装置に使われている原理は、通用しないのさ」
 博士は、一息にそう話し終えると、カップを口元に持っていきましたが、そこには珈琲の残り香だけがありました。博士は、カップを置きました。
「しかし、我々は、この研究所の穴を『入口』、屋上の穴を『出口』と定義したね? この時計は、『出口』から入ってしまった。この装置は『今』から『未来』に移動するためのものだから、この時計は――もし時計に意思があるなら、だけどね――全力で『今』に移動しようとしたはずだよ。先ほども話したように、物質は、何をせずとも『今』から『未来』へ移動しているから、それに抗うには莫大なエネルギーが必要になるだろうね。この時計が壊れなかったのは、この装置の莫大なエネルギーを、時計自身の『未来』から『今』への逆行に費やされたから――と考えるのも、まあ理屈は通るんじゃあないかな」
 助手は、こんがらがる頭を必死に整理しながら、恐る恐るこう尋ねました。
「しかし……今、博士は、過去は存在しないとおっしゃいましたが、我々から見たら、この時計は、過去にあり続けたことになりませんか。この時計は、過去、この時計が落ちた時間からずっと動かずにいたのですから」
 博士は、ふっと力なく微笑んで、助手と正対しました。
「そうだね。時計からすれば、きっとずうっと『今』にあり続けたのだろうけど、我々からすれば、この時計はこの装置の中でずっと過去にあった、ということはできるかもしれない。ただ、我々が『出口』からこの装置に入ったとしても、ただ『今』にあり続けるだけだろうね。それを過去にあったといえるかどうか……はあ、また色々考えなくちゃいけないね。どうだい。とりあえず、腹ごしらえをしようじゃないか。まだほんのり温かいからね」
 助手は、簡易キッチンの方へ、スープの用意に行きました。

 男は、落ちているのか落ちていないのかもわかりませんでした。体は、動かせません。どれほどの時間が経ったのかも、わかりません。お腹もすきません。喉も乾きません。トイレに行きたいという気持ちさえ、湧いてきません。そもそも、男は思考ができているのかどうかすら、わかりませんでした。
 男は今も――我々の世界でいう今ですが――過去に、生きているのでした。


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