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自分らしく生きる、その力を養うのが教育

こんにちは!りょーさんです。

国連から日本の特別支援教育について、普通学級と特別支援学級に分けるような教育は、分離教育であり、通常の教育を受けにくくしていると言う「強い懸念」が出たという記事を読みました。
「あんたの国、インクルーシブ教育※になってないよ!なんとかしなさいよ!」っていう国連からの強いメッセージってことでしょうか。「それもそうだよなー」って。

これを受けて、Twitterでは「特別支援学級があったから自分の子供はスクスク育ったんだよー」という趣旨の発信もあり、「それもそうだよなー」って。

僕が思うに、日本の特別支援学級と普通学級に分けるシステムは、なんというか次善の策というか、苦肉の策というか。

インクルーシブ教育とは、多様性を尊重する教育、障害のあるなしに関わらず、分け隔てなく、共に学ぶための教育のことです。インクルーシブとは、「包摂」と言う意味を持ちます。
ただ、通常学級に障害や発達の凸凹がある子供たちを混ぜることをインクルーシブ教育とは言いません。

「日本の通常学級、インクルーシブにするには、予算確保難しいし、カリキュラムや学校の指導や配置構造の改革にとんでもなく時間かかるだろうし、親たちのスティグマ(偏見)の解消大変だし、人材確保も養成も大変だからさーーー大きく変えるの難しいんだ。だから「分ける!」…これしかなんだよね」っていう感じの声が聞こえそうな気がします。残念なことですが。

ただ言えるのは、今の通常学級のまま特別支援学級に所属している子供たちを戻すのは困難だってことです。日本が学校や教育をどう変革していくか?を問われているわけです。これは考えて経緯を見ていきたいきたいなー。

さて、自己決定について、僕がこれほどこだわるのは上記の話とちょっとだけ繋がっていると思っています。


社会を生きる僕たちを取り巻く、拭えない疑問

僕のそもそもの疑問は、
・なぜ子供たちが自分らしくいることを許されないのか。
・なぜ子供たちがこれほど学びを忌避するのか。
・なぜ子供たちが未来に対して希望を持てていないのか。
・なぜ教育によって子供たちが傷つけられるのか。
・なぜ志のある教員がどんどん離職していくのか?
・なぜ働くことは労苦なのか?
・なぜ大人は人生を早々に諦めているのか。
・なぜ学校や会社はこんなに人を不幸にしているのか。

なぜ?を問い始めるとキリがないのですが、どうしても上記のことが拭えない…


疑問を生み出したたくさんの実体験

原点は父親です。
大企業の中間管理職だった父は、人間関係で悩み、「辞めさせてくれ!!!!」って苦しそうに母に伝えていたことがあります。一生懸命働いていたのです。
家族を守る中間管理職の悲哀…高校生だった僕は、それを目の当たりにし「大企業のサラリーマンって嫌だなー」って思ったんです。
(育ててくれて大学まで行かせてくれたのは大感謝なんですよ!)
だから何か手に職つけて自分でできることやろうって思っていました。職人になるか会社を一人でやるか。結果会社をやることになりました。一人ではないけど。

大人になって、自分もサラリーマンやってみて思いました。
「このままここに一生いたらダメになるなー」って。
できない自分を責めたり、空気を読んで合わせながら笑っている自分が嫌でした。
受け身であることを責められて、やったらやったで怒られるだろ!って思って小さくなっていた時期もあります。まあ力不足も多々ありました。
何やってもうまくいかないなーって思って、蕁麻疹出てきて、最終的には続けられなくなりました。

人生、二転三転して、塾で働き始めました。
子どもたちと関わることになりました。そこで思ったんです。
こんなに恵まれていて、勉強ができているのに、なぜこれほど自尊感情が低いんだ!って。
いい高校入って、いい大学入って、そこそこの会社に入ってサラリーマンになっているんです、言葉の節々にそんなニュアンスを感じます。その子たちはそのつもりなのです。将来に全然ワクワクしていない!
持って生まれたものも恵まれた環境も、諦めるために使うのか!?って僕は思ってしまったのです。
もちろんそれはそれで幸せならいいし、その人らしい生き方なのかもしれないけど、やっぱりなんかスポイルされてしまっているのではないかな?って思ってしまう。自分の人生を生きて欲しいのに。

フリースクールで働いたり、放課後等デイサービスっていう制度を知ったりする中で、それどころじゃない子どもたちも見てきました。
不登校、発達障害、ひとり親家庭、親が鬱、虐待、生活保護…。こういった子たちは、「学校によって」「社会によって」、意図せざる形で傷つけられていることも多々あります。
何だろう?この子たちが生きる世界が、そもそもこの子たちを否定している。

少なくなったとはいえ、特別支援教育の子たちが、古い教育観によって、ひたすら反復的訓練の中に適応させられることもまだあります。
「その子らしさ」は置いておかれ、その人ができるところだけ、「これならできるでしょ」という眼差しの中で、型にはめられ、訓練され、そこに主体性は求めない。その人の人生は支援者が握る。そう感じざるを得ない指導があったのはじじつです。特別支援教育って何だ?って思ったこともあります。
(繰り返しますが、こういう教育はとても少なくなってきたと思います。特に若い先生たちは子供たちを理解しようとしていること、肌感覚で感じています)。


「自分らしく生きる」ことの否定

これらの話、共通点があると思うんです。
どれも「自分らしく生きる」ってことを否定されている。
家族を守るサラリーマンを演じることによって、会社の間違った文化に合わせることによって、優秀さの期待に応えることによって、そもそも尊厳を認められる環境に生まれなかったことによって、スティグマによって。
どれも別事象だけどつながっている。
それって「僕らの想像力のなさ」とつながっていって思うんです。

なんか間違っているんじゃないかな?って思います。
どこかでボタンを掛け違えているんだけど、でもそれが当たり前になって、掛け違えたボタンを掛け直す、そんな発想もないまま、今ある現実を受け入れて、その現実に適応するために一生懸命になる。

それが「当たり前」に求められる社会をみんな生きているんじゃないか。
そんな状況を「良し」とは思わないけど適応することで「仕方ない」って思ってしまっている。
そんなことをグルグルグルグル考えながら、僕は実践しています。


やっぱり自分の人生のハンドルは自分で握ること、可能な範囲で。

だから「自分らしく生きること」「自分の人生のハンドルは自分で握ること」
誰かに自分の車のハンドルを握られた人生は嫌だ。このハンドルはすなわち自分の尊厳であり自由です。それを誰かに握らせないってこと。

このハンドルは、みんなが握っています。
僕も僕だけのハンドルを持ち、誰もがその人だけのハンドルを持つ。ハンドルを誰かに握らせるな!誰かが誰かのハンドルをのっとるなんて何かが違う。

「自己決定が大事」っていうのは、もちろん時と場合によってはデメリットもあります。リスクもあります。
それでも、僕がそれを大前提に置くって言うのは、「自分の人生のハンドルを握りたい」っていう人間の、、、なんというかそもそも持っている欲求に応えることだと思えるのです。

冒頭の日本の特別支援学級が、僕にとって「次善の策」というのはこのことと繋がっていて、僕たちの教育において、「自分のことは自分で決める」「決めるまでのプロセスを徹底的に支える」「あなたの決めたことを徹底的に尊重する」ってことがどれだけできているのか?ってことと繋がっている気がするのです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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