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とあるINFJの自己紹介(趣味とか思想とか)



1.前置き


 初めまして、青和と書いて「はるちか」と申します。
 人名訓+人名訓ですね。読めませんね。
 「せいわ」と読んでいただいても結構です。 

 MBTI(16 Personalities)ではINFJ-T、エニアグラムでは5w4と診断結果が出る者です。

 MBTIについては比較的最近知りまして、面白くて役に立つ枠組みだと思っています。少なくとも自分の普段の生活では特に自己分析と他者理解の効率化に寄与しています。

 「人間をたった16に分類できるわけがない」

 そのとおりだと思います。けれど、多くの方は16未満の分類しかしていないのではと考えています。「仲間と敵」、「陰キャと陽キャ」、「賢者と愚者」、「成功者と失敗者」大体2つに分類したがる気がします。あとは血液型とか。

 他者の全てを理解することなどできませんので(というか自分についても無理)、憶測で蓄積された言動に意味づけしてパターン化するしか理解する術ははなからありません。そのパターン化をより正確に、先入観なく行うために、このような体系的な枠組みは有用だと自分は思っています。

 つまり、自分はMBTIに結構ハマっています笑
 記事についてもMBTIの記事を結構書くかもしれません。
 ええ、もちろん全て自分の独断と偏見です……。

2.趣味(読書中心)


 次に、趣味についてです。

 一番の趣味は読書で、一番読んでいて感情を揺さぶられる作家はドストエフスキーです。あれだけ、強烈な「分裂」、「共苦」、「原罪の意識」を描くことのできる人間は他にいないと思っていますし、現実よりもはるかに現実的な「不幸な人間」を表現できる作家も今まで出会ったことがありません(もしおすすめがあれば、教えていただける嬉しいです:) )。どの登場人物も大好きですが、『白痴』のムイシュキン公爵、『罪と罰』のソーニャ、『虐げられた人々』のネリー…………あ、好きな人物が多すぎとても列挙しきれませんね笑。彼の作品には本当に魅力的な人物が多いです。

 日本文学では泉鏡花が好きで、有名所ですが『義血侠血』『夜行巡査』『化銀杏』など、悲しい話が多いですが、すらすらと読める語り口、靄のかかったような幻想的な描写、信念故の破滅、そういった要素に自分は惹かれます。

 他の趣味としては、散歩が好きです。植物や野鳥についても図鑑とにらめっこしながら少しずつ知識を増やそうとしてます。河川敷等をぼーっと思索に耽りながら歩くのも好きですが、知識が増えるたびに季節の移ろいや新しい発見を楽しむことができて楽しいですね。近所の散歩でも自分の知識が増えるにつれて目に映る光景の解像度が上がっていく気がします。
 最近は建築や歴史の知識もあると、寺社仏閣を訪れたときにもっと楽しめるのだろうな、と感じています。なんかすごい、なんか神秘的も嫌いではないのですが、もったいない気がしてしまいます。
 あとは医学系の話も結構好きですね。私たちの思考が身体の影響を受けるのは否定できませんし、体を構成するシステム―社会を構成するシステム―地球を構成するシステム、その類似性も面白いなと思います。要は情報伝達あるところに心が生まれるのでは?と思ったりします。あ、脱線しそうなので終わります。

3.思想(というか考え方)

 自分の思想についてはショーペンハウアーの温度感が近い気がしています。基本的には「不幸値≠負の幸福値」かつ「不幸値の最小化>幸福値の最大化」(消極的幸福の優先)だと考えています。そのためのアプローチの1つとしての「反出生主義」を私は否定しません(ベネターの思想についてはあまり賛同しませんが)。というのも『虐げられた人々』のネリーや『カラマーゾフの兄弟』でイワンがアリョーシャに語る「折檻を受ける子ども」、そういった存在は実際に現実世界の至る所に蔓延しています。自分の力ではどうしようもない理不尽に苛まれる子どもや動物、彼らの悲劇が根絶されないのであれば、どれだけ幸福な人間が多い世界だろうと、自分はどうしても肯定することができないからです。「彼ら」の苦しみを取り除くことができるのなら、我々の幸福を投げ出すことになんの抵抗がありましょうか。

 自分は動物が好きです。特に猫が好きです。彼らの肉球をふにふにしながら抱きかかえて生きている温度を感じるのが好きです。仕事柄、牛や豚、鶏などの家畜に関わる機会もあります。彼らの温度を感じることがとても好きです。「かわいい」という言葉はあまり好きではなく、私にとっては「尊い」存在です。そんな彼らを我々は犠牲にして生き永らえています。それが人間です。もし人間に「原罪」があるのならば、その1つは「家畜化する知恵」を身に着けたことかもしれません。そんな罪に時々でもよいので思い馳せる生き方が自分にとっては快いです。かの救世主に自分が卓越を見るのは、彼が奇跡を起こしたことでも、人類の罪を贖って死んだことでもありません、ただ「自分を含む人類の罪を共に背負おうと試みた」その一点です。『罪と罰』でソーニャがロージャの罪を共に背負おうとした姿勢はこれに重なるはずです。私がドストエフスキーの作品を好むのは、まさにこの「共苦」の思想が彼の作品から滲み出るのを感じ取るためです。

4.対人関係との向き合い方

 以上のような価値観の人間ですが、普段の対人関係では心理機能でいうFe(外向感情)に振り回されてしまいます。

 なので、割り切って「最大多数の最大幸福」を行動原理に立ち振る舞うことにしています。自分をいかに使い潰して周囲の環境の幸福値を最大化できるかが一つのポイントですね。
 自分がこうありたいと思っていても、社会生活では他者の感情がノイズのように入り込んできてしまうので、結局中途半端になりがち。それでストレス溜まりがち。なので、もう割り切ったほうが楽という結論に達しました。
 (割り切ったと申しましたが、もちろん悶々としながら日々生活しております)

 あとは、対人関係でストレスが溜まりそうなときだけ「決定論者」になります。

「人間の性格が遺伝と環境という自分の選択とは無関係に決まるものであるのならば、あの野郎の行動にどんな罪があろうか」

 と思い込みます笑

5.さいごに

 ここまでの長文にお付き合いいただいた方につきましては、自分がどのような人間か、何となく察知されたのではないかと思います。もし、幾ばくかの面白みを感じ取っていただけたのならば幸いです。 

 今後も拙い文章を書き連ねたりすると思います。
 お目汚しですが、よろしくお願いいたします。

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