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tomato

私がトマトを育て始めたのが流産して3ヶ月くらいしてから。
子供が大好きな私には例えお腹の中の出来事だとしても耐えられなかった。

2月13日。世の中は赤く華やかに彩られて、どこへ行ってもみんな幸せそうに見えた。
病院の横は大型スーパーで、帰りに通るとチョコの香りと、赤い装飾が私の絶望を更に深い底へ誘っていた。
箱に入っているはずだから、チョコの香りなんてするはずないのに、私はそれからしばらくの間はチョコが食べられなかった。

長男の名前は私たちがつけたけど、娘の名前はお兄ちゃんがつけたので、娘には赤ちゃんの名前はつけていいよと言っていた。
毎晩寝る前に「名前はこんなんがいいんじゃない?」とはしゃぐ娘を見るのがとても嬉しかった。だからこそ、いなくなった事をどう伝えるか…怖かった。

子供たちには病院から帰ってきてから伝えたと思う。
もうその頃の記憶がない。
なんて言ったのか、どうしてたのか、とにかく食事はできなくなって、体重がみるみる減っていった。

ただ、子供が大好き。子供も私が好き。だから料理は作るけれど、子供といる時間でも涙が止まらなくなって、子供たちを困らせていたと思う。
そして世の中が色を失って、生きる事の意味がなくなった。

自分が生きているのか、死んでいるのかわからなくなって、今までどうやって笑っていたのかも、思い出せなくなった。

そんな時に、「自治会の畑が空いてるから一緒にやらない?教えてあげるから」と自治会の年配の方に誘われた。
仕事もしていないし、子供と一緒に何かやっていれば変わるかもと、虫嫌いで絶対植物を育てなかったけど、やってみる事にした。

やってみると、思ったよりも簡単じゃない事に気がついた。
家から200mくらいの距離を水のペットボトルや農具を持って、娘と行く。娘は当時3歳。家で留守番もできないし、なにより畑にはおもちゃやテレビがない。それに私にはやる気がない。

一番の問題は虫がものすごくいる事だった。
蚊すらつぶせないし、ミミズもダメ。
そこら中でとんでる蝶や、わけわからない羽虫ですら、絶叫しているほど。
でも、その声で近所から誰かが出てきてくれて、「来てると思って…」とおすそ分けの野菜を手に声をかけてくれて、娘の相手までしてくれた。

「ミニトマトは簡単だよ」
その言葉を聞いて、最初に植えたのがミニトマトだった。
娘はトマト姫と私や私の両親から呼ばれるほどトマト好きだったので、自分で作ったトマトはきっと美味しいに違いないと思った。

その中でも私が好きなアイコという品種。
皮が硬いがその分、お弁当を作る際にチューリップにカットして入れていて、赤と黄色で彩りがよくなるから選んだ。

芽かきのやり方や、追肥のやり方、水あげるタイミングなど、そこの畑に来ている数人の先輩方に丁寧に教えてもらった。

そして夏、初めて収穫した。
そして待ちきれないという娘に駄々をこねられ、そのままそこで食べると、太陽で温められたミニトマトは、私の流れる血の様に全身を駆け巡り、わぁ…と私はそこで崩れてしまった。

「生きてる」

一瞬で世界が色を取り戻したように鮮やかになり、セミの声や、鳥のさえずり、木々のざわめく音が聞こえてきた。
これが生きてるって事だ。

それから娘と、たまに学校から帰ってくると一緒に楽しんで手伝ってくれる息子、週末のみ重い腰を上げて手伝ってくれる旦那と色々な野菜を作り続けた。

バサバサという音が聞こえ振り向くと、巨大化したカマキリで腰を抜かしたり、収穫が終わったサツマイモの芋づるを片付けていると、下に大きいカエルがいたり…本当にあの頃は楽しかった。

子供が成長し、仕事も始め、畑から少しずつ遠のき、行くのは週末だけになっていた。
交通事故をきっかけに父に代打で行ってもらっていたが、畑の貸主の都合で、畑を返還しないといけなくなり、畑生活に終止符を打った。

我が家には車1台分の庭しかなく、日当たりが悪い。
だから、試行錯誤しながらプランターでミニトマト作りを始めた。
畑と違って、上に伸ばす事も難しいので、スパイラルに茎を巻いて育てる事にした。

あれから14年。
今年は二価鉄イオンを自作したりと、更に研究し、もう少しで収穫の時を迎える。
最初の房に30個以上のミニトマト。その上もその上もいっぱい実がなっている。

「よく頑張ってるね。」
私はこの声が出せない生き物に毎日毎日感謝している…

なぜに今回はこれを書いたかというと…
紹介状を持って行った先の医師から
「ヒステリーによる脱力」
「アレルギーでは日本一だけど、こんな微量なステロイドではアレルギーにならない」
「精神科でちゃんと治療して」
と言われた。

「ヒステリーはおこしません」といっても
「ヒステリー起こす人はみんなそう言うんだよ」と言い、
「アナフィラキシー起こした時の記録あります」といってもまったく見ずに「そんなの見なくてもわかる」と言い、
「精神科では異常なかったです」といっても、「治療はできるでしょ、なんでもいいから治療して」と言われ…
結局持っていった資料には目を通してもらえなかった。

そして…「こんなのさ、病名決まってないんだから、セカンドオピニオンでしょう。ちゃんとお金払いなさいよ。」と言われた。

自分で日本一だと言う人は、医者でもラーメン屋でも行かない方がいいと思った。
3割負担870円の医者。それが彼の本当の肩書だ。

私は怒られている間、ごっつええ感じの「世界1位の人」というコントを思い出していた。こうするしか自分を保てなかったからかもしれない。
このコントがあって良かったと、初めて心からダウンタウンに感謝した。

ただ、悪い事が99%あっても、1%の希望はあった。
「こんなの、さっさと周期性四肢麻痺で公費もらいなさいよ」と。

「私もそう思っているからこうして行動してるんです。でも誰も書いてくれず、遺伝子検査で周期性四肢麻痺に関係する部分にバリアントがあったのに、違うと言われ書いてもらっていないんです。先生書いてくれますか?」

「書かない」

「みなさん、そう言われるから、私は今も病名が決まらず治療も処方も、公的援助もなく、仕事もクビになって、生活が困窮してるんです。」

「ドクターG、あれすごいね〜あーいう所に行きなさいよ。セカンドオピニオンでお金払ってね。あ、でもお金ないんだったね。」

「先生、紹介状書いてくれませんか?」

「書かない。もう終診にするね。患者さんもいっぱい待ってるし、ちゃんとお金払って、自分で調べた病院に自分で電話して予約すればいいから。でも、そういう病院は予約とれないらしいよ。」

私はどうしてここへ来たのだろう。
何を期待したんだろう。

人生は絶望はあっても希望はない。
そう帰路についていると、ふとトマトの事を思い出した。

バトンはガランガランと音を立てて転がり、もう掴もうとする気力すらない。
だた、転がっている様子を見ているだけ。

6月8日朝日新聞の朝刊にこんな記事があった。
『「まれな難病かも」早く疑えていたら』
とある難病の患者さんへの聞き取りで判明したらしいが、
診断まで平均23年かかっているという事だった。

大阪大学の研究だったが、大学のポータルサイトに日本語版が載せられていて見たら、患者が病気に対して積極的に探求しなかったように書いてあった。「病気への慣れ」?そんな生易しいものではないでしょ。

もちろん、病院側にも問題はあるが、難病かもと医療知識もない患者が訴えた所で、私のように精神病扱いされて、自尊心が傷つけられ、もう病院へは行きたくない…そう思って遅れたんだろうと思ってしまった。

この話しを娘に話すと
「あと18年あるじゃん!」
なんとポジティブ。

そうだね。あと18年あるね…
今オギャーと生まれた子が「うぜーよ」と言うくらいの時間だから
あっという間だよね。

またスタート。
というか、もうゴールなのかも。
「異常なし」というゴール。

ちょっともう疲れたな…
元気はいつになったら出るのか…
来年も再来年もミニトマト、食べられるかな…

血圧も上がってきてるし、症状も良くならないし、
とりあえず、少しずつ終活始めます。

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