ミケランジェロゆかりの場所②とミケランジェロの手紙
2024年7月にローマ、フィレンツェ、スポレートなどを訪れました。
旅行の目的は上記タイトルの通りで、詳細は前回の①の記事の中で触れてますが、今回はその続きです。
前回の記事が思ったより長くなってしまったため、①、②と分けることにしました。
今回表紙の写真もどうしようか迷い、結局①の記事の終盤にも取り上げたヴェッキオ宮殿にある「勝利像」を、別角度から撮影したものにしました。
個人的にミケランジェロの作品の中で特に好きな彫刻の一つで、見納めと思うと、あらゆる角度から撮りたくなってしまいました😅
また下の写真は、ミニチュアがあったのが面白くて撮りました。
この頃ローマとフィレンツェを行き来していたミケランジェロには、ローマに溺愛する貴族の青年トマソが、フィレンツェには別のヤローがいました😅下記埋め込み表示しましたが、私が創作したその時のドラマです。私のイメージキャラでのフィクションですが、伝記や手紙などを参考にしてます。
ではこれからは今回の本題ですが、年代や内容が①と被ってしまうところもありますこと、ご容赦ください。
ミケランジェロの友人宛ての手紙とユリウス2世墓碑 1531-1545年頃
ユリウス2世墓碑の問題というのは、ミケランジェロの伝記では有名な話なのですが、これを詳しく説明するとなるとそれだけで終わってしまいますので、簡単に申しますと…。
故教皇様のユリウス2世の墓碑作成の依頼を受け、1520年に完成させるという契約だったのだが、周囲の思惑(ミケランジェロに他の大規模作品を依頼して来た)、戦争などの動乱、度重なる契約内容の変更などから完成できず、訴訟にまで発展。その解決・完成まで数十年の歳月がかかってしまったことです。
例えばサン・ロレンツォ教会のファザードの装飾を、時の教皇レオ10世がミケランジェロに依頼(1518年)。これもローヴェレ家(ユリウス2世の出身元で墓碑の依頼主)と対立していたため、墓碑の完成を阻むためとも言われてますね。
結局財政不足や大理石運搬の失敗などで着工されず、現在でも上の写真のように煉瓦むき出し状態です。
1532年からはユリウス墓碑と上の新聖具室の制作のため、ミケランジェロはローマとフィレンツェを行き来することになります。そしてローマで「運命の人」と出会うのですね(*'▽')
下記前回の記事で載せきれなかったミケランジェロの手紙で、その時の心情とかが面白いし、また墓碑に関わる内容もあり、私が現代風に訳してみたのを載せます。
*バルトロメオ・アンジェリーニ宛てのは、前半損傷がひどいようで「……」は不明箇所です。
このアンジェリーニさんとやらは、さっと読んだ限りミケランジェロが住んでいたローマの家の所有者で、フィレンツェから戻ったらずっとローマにいるつもりだから、その家に住み続けたいって言っているのが主旨ですかね。
で、その理由が「トマオなしには生きていけない。だから俺の魂と身体を一体にしてくれ~……どーと-かこーとか」(;'∀')
そういえばこの人、詩人でもあるんでしたね。
私なら難しい言い回しはわかりませんが、色恋沙汰を打ち明けられても「知らねーよ!」の一言で終わらせたいけど、アンジェリーニさんは、何て返事したんだろって考えると楽しい(*'▽')
とにかくミケランジェロは、惚れた腫れたを言いふらしたくて仕方ないように見えるんですけど。
(あと実はこの頃ミケランジェロは、メディチ家の仕事をしながら、その当主に睨まれていたので、命の危険を感じるほどビクついてもいた様子が、ノロケ話だけに見える中にも、さりげなく表れています)
次のセバスティアーノ宛ですが、セバスティアーノは私の創作の中でも登場させているキャラで、ミケランジェロより10歳くらい年下、友人兼弟子のような存在で、画家で修道士です。
言っている意味がよくわからないのですが、「すっげ―迷惑かけてるけど、どうか耐えてくれ~」っていうところはわかります。
セバスティアーノはずっとユリウス墓碑の訴訟でミケランジェロの代理人を務めていて、1527年のローマ劫掠(神聖ローマ帝国の皇帝軍がローマを襲撃した事件)も経験して大変な目に遭っているのに、その後引き続き代理人してあげてるんです。
↓比較のため、前回の記事に載せた手紙文の一部を、また載せました。
セバスティアーノの手紙にも、言いふらしてるのが見え見えだけど、報告もしろだと。
トマソ宛ての手紙には「愛してるんだ~💛」とか、さんざん言っていて(ミケランジェロの同性愛を否定する研究者もいる)もしそれが社交辞令とでもいうなら、さんざん世話になっているセバスティアーノにも言ってやればいいのに、それがひと言もないのよね、こいつ💢
セバスティアーノは優しいから、きっとわざわざトマオ君の家まで出向いて、(にやにやしながら?)手渡したんだろうな、報告しないとならないからね。
自分の画家や印璽職の仕事もあるのに、色々頼まれ引き受け、偉いよね、セバスティアーノは。
それで本人は別のヤローといちゃついてるだけかよ💢。
(注:想像含む よろしければ、「【創作】追憶の果て 番外編(パロディ)~」をごらんくださいませ😅)
あと余談ですが、この頃までこうやってさんざん世話になって、尽くしてくれているセバスティアーノと、この人は数年後大ゲンカするんですよね(史実です)。
こうやって色々行いを見てると、やっぱり頑固で偏屈だってわかってきますね~。
私の創作が進んだら、このケンカのシーンは、コメディタッチ、パロディ風にする予定です。
ところで下記「地球の歩き方」にコラムとして面白い内容が載っていたので抜粋します。
小説にも使えそうな内容ですが、シリアスに言い表すと、こんな風になるんですね。
「地球の歩き方」は昔は特に海外旅行の時は必需品。今も携えて行きましたが、実用的なことだけじゃなく、このように伝記創作の参考になるようなことも記載されていたのでうれしいです。
上記「逃げ出して」とありますが、このときミケランジェロはフィレンツェから逃亡していて、私の中断している創作ですが、ちょうどその時の模様で終わっています。よろしければ(^^;↓
ユリウス2世墓碑問題に話を戻しますと、ずっとこの間も引きずっていたのですが、1542年に時の教皇様が間に入って貰えたこともあり解決。
1545年に完成しました。
その他の彫刻作品と、ローマにおける建築設計 1550年頃まで
ではここから、上記の通り墓碑以外の作品や、ローマにて設計されたという建築など、見てきたものを纏めました。
*①でも申しましたが、バチカン博物館のシスティーナ礼拝堂は撮影禁止でしたので、代表作の壁画「最後の審判」は除きます。
このピエタは、G.ヴァザーリ著「美術家列伝 ミケランジェロ編」によると、ミケランジェロにとっては駄作で、何でも弟子のウルビーノが急かすから誤って(?)聖母の肘を切り取ってしまったという逸話があります。
正面からだと分かりにくいのですが…。
このピエタをミケランジェロは壊してしまおうと思ったらしいのですが、壊すなら自分が欲しいと、ウルビーノの後輩の弟子アントニオ・ダ・カステルドゥランテが言ってきたので残されたそうです。
この像を後世に残してくれたことが、アントニオ君の最大の業績ですね!
ミケランジェロは1534年から、生涯ローマに住み続けたのですが(一度逃亡してますが、その時の話は次の項目で)住み続けた家は(アンジェリーニさんから買い取った?)は「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」の建設のため取り壊されてしまったとのこと。
記念堂の正面で撮影することが念頭になく、忘れた…と思ったけど💧サンタンジェロ城からのがありましたので、下に載せました。
上の写真「小聖堂」は記載の通り、ブラマンテによるものなのですが、サン・ピエトロ大聖堂のクーポラと形がよく似てますよね。
ブラマンテというと、盛期ルネサンス時代の代表的な建築家として知られていて、その功績や評価に関する数多くの著書があるでしょうが、noteの記事でも拝読したことがあります。
恥ずかしながらミケランジェロのことを調べている私としては、ブラマンテと聞くとまず「ミケランジェロと仲が悪かった人!」と連想してしまうんですよね💧
何故ならG.ヴァザーリの「美術家列伝」でも、ブラマンテはミケランジェロがユリウス墓碑の制作を阻止するため、システィーナ礼拝堂の天井画を描かせるよう仕向けたという陰謀論を述べているし、さらに「ミケランジェロ伝」A.コンディヴィ著では、ブラマンテのことをめちゃめちゃ悪く、極悪非道の人のように述べられてます💧(コンディヴィはミケランジェロの言われるままに記述するよう指示された、当時の弟子)
でも研究者の著書を読みますと、この陰謀論はなかった説が有力だし、さらに色々ミケランジェロに関する著書に目を通すと、先ほどのコラムのような特性が見えて来るので、やっぱりずっと年上で実績あってバチカンでの地位を得た人に対しても、そういう態度だったんだろうなって想像しますけどね。
これもミケランジェロの伝記で有名な話ですが、1506年、教皇ユリウス2世から墓碑にかかった費用の支払いを拒まれたことで、怒ってローマから逃亡してフィレンツェに帰ってしまいました。
そのローマからの逃亡劇をミケランジェロは後年「ブラマンテがオレを暗殺しようとしてたからだ」と述べていたとか(知らねーよ)。
そんなに仲が悪くて憎たらしくて、恨みつらみをいつまでも覚えていたのに、自分がその同じ立場のサン・ピエトロ大聖堂の建築主任だかになった時、ブラマンテの設計案を持ち出してるんですよね、この人(個人的恨みと実績は別ってことね)。
↑ウィキペディアにもありますが、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノで「最後の晩餐」(1495-98頃)を制作していたサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の設計も手掛け、2人は親しかったということです。
人生最後の逃亡劇 1556年 ローマからスポレートへ落ち延びる
先ほども触れましたが、ミケランジェロは1506年にローマから逃亡、そして1529年のフィレンツェ包囲戦(皇帝軍と教皇軍の侵攻)の時もフィレンツェから逃亡。
そして最後は1556年にスペイン兵が攻めて来るってことで、ローマから逃亡しています。
人生で何度も逃亡してるから、この人はそれが得意とか、癖とか述べられている著書もありますが、初め私は戦争が絡んだ理由の時は「戦国時代って大変だったんだな~」と思っていました。
でも前述のコラムのように、逃亡した頃ってこの人は必ず何かしら人間関係でゴタゴタしているんですよね💧
ブラマンテの時もそうだし、フィレンツェの逃亡の時もコラムの通り。そして今回も、サンピエトロ大聖堂の構築のことで、故建築家のアントニオ・サンガルロの弟子たちや関係者と、年中ゴタゴタし通しだったようで。
その様子をG.ヴァザーリは、ミケランジェロは仕事を邪魔されて苦悩したとか、誹謗中傷を受けたとか、庇うような記述もあるけど、発端は相変わらず攻撃的な態度だったり、仕事に関して他人を受け付けなかったりっていうことも伝えてますね…。
そういうところはいくつになっても全く同じですね(直せるものなら、とっくに直っていただろうけど)。
まあ、私も仕事の人間関係がいくつになってもすっごく苦手なので、他人のこと言えませんが(;^ω^ゞ
いつの時代もどこの国にもあるのね、そういうのって。
1555年、25年間も務めてくれて可愛がっていた弟子のウルビーノが亡くなってしまい「オレも一緒に死ねば良かった~死にたかったんだ~」なんて泣き言ばっかり言い出す始末(本人の手紙より)。
泣き言を言うのも得意だったようですが、さすがに本人も80歳を越え、友人のセバスティアーノや親しくしていた侯爵夫人ヴィットリア・コロンナもとっくに亡くなり、それでいて相変わらずのゴタゴタ。さすがに気弱になったんでしょうね。
そんな最中の1556年、時の教皇パウルス4世が強硬なことをされたようで、スペイン兵がローマに侵攻する危機が訪れます。
おらおら、30年前のローマ劫掠と同じ兵じゃないかよ、これでお望み通り死ねるね、良かったね~と思いきや「やっぱり怖い、死ぬのは嫌だ、逃げるぞ~!」となって、ウルビーノが残した若い弟子のアントニオを連れて、さっさとローマから逃亡しました。
本人の手紙によると、ローマを脱出した正確な日は不明ですが、1556年9月ごろで、当初カステルドゥランテ(現在のウルバニア)に程近い、ロレートに行く予定だったとのことです。
電車もバスもタクシーもあるわけない当時、イタリアの人はどうやって旅をしたのか知りたかったので、色々読んだり当時の時代物のドラマを見たり、最後はChatGPTに訊いたりもしました。
さっさと逃亡…と一言で片づけましたが、ChatGPTによると「当時の人たちの旅の移動は、現在とは想像もつかないような過酷なものだった」ということです。
また、当時の移動手段は徒歩か馬。私は馬に乗ったことがないので「馬に乗る」ことがどれだけハードかも、恥ずかしながら実感がわかないのです💦
ミケランジェロはこれまでローマからフィレンツェの往復など、何度も長旅はしているけど、それを80歳過ぎて馬に乗って⁉️
自動車の運転をその歳で、どころじゃないですよねえ…ホント、スーパーマンだなとも思うし、この人なら生き抜くため何でもやっただろうなとも思ったりです💦
馬車ってあったの?という疑問もあったので、ミケランジェロの手記含め調べましたが、この時代長距離の旅で、馬車を使うことは難しかったようです。
但し「郵便馬車」というのがあってお金を払えば乗ることが出来、ミケランジェロはローマに戻って来る際はこれを利用したようです。
でも脱出の際は、同じ行動をした多くの市民たちで混乱していたでしょうから、きっと馬だったのだと推論しました。
ロレートに行くにはローマ街道の一つ、フラミニア街道を行くことになります。
現在のフラミニア街道は舗装された近代の道路で、日本の東海道のように旧街道とは位置も違うでしょうから参考になりませんが、ローマの北の方にミルヴィオ橋というのがあり、この橋自体は何百年も前に造られ、当時から変わってなく(付属の彫刻などを除く)ここに続く道が旧街道(舗装されてますが)だろうと推論しました。
このときの逃亡だけではなく、ミケランジェロがローマとフィレンツェを往復する際もこの橋を渡ったはずです。
今迄のローマの旅行でこんなところへ行こうなんて考えたこともなかったけど、創作の参考のため当時の面影を残す場所はここしかないと思い、市街地から離れ「地球の歩き方」などのガイドブックにも載っていないこの橋まで足を運ぶことにしました(ホント物好きだな(;'∀')。
ガイドブックのローマの地図なら、上の方に位置する「ポポロ広場」からさらに北に向かって3kmくらいですかね。
ローマ史では有名な橋の一つで、バチカン博物館の「ラファエロの間」にも描かれています。また、1527年5月6日のローマ劫掠では、ここが敵軍が襲撃してくることの囮にされたということです。
余談ですが、ローマの路線図ではここまでトラムが通っていることになっているのに通ってなくて、同じ番号のバスになってたのです💧当初それもわからず迷ってしまい、ここまで来てムダ足!?と不安もよぎり、何より7月は夕刻でも日本以上に猛暑!!😂
でも何とかバスに乗って辿り着きました!ちなみに橋まで続く道の名前は「ティッツイアーノ(ルネサンス時代のベネチアの代表画家)通り」ですって。普通の道路だったので写真はありませんが。
当時(16世紀)の様子がどんなだったのかなんて、橋ごときを見たって難しいかなと思ったけど、やっぱり難しいですね💦
橋自体は当時と変わらなくても、その周辺の装飾はいつのものかわかりませんし、何より周辺の道路は完全に現代のもので、中世やらルネサンスやらの面影もないし、車の往来や路上駐車がとにかくすごい!
そんな状況でしたので、この時はとても16世紀の想像の世界には浸れず…でした。
これらの写真を撮影しながら、疲労と暑さで、正直自分の行動がだんだんバカらしくなってきてしまいました~
こいつが若い男を連れて逃げて行った道なんて知るかよ~!他に観光するところはたくさんあるのに、なんで私こんな苦労して追っかけて、こんなところにいるんだ!?とか😂
夕刻で帰り道も心配でしたが、気力体力が消耗していても写真だけは撮らないとと思い、それをしてすぐ引き上げました。
大体「忘れたりしたら、食べることも忘れて即死しちまう~」ほど最愛の彼はどうしたんだよ!?この時生き残っている愛する人は彼くらいなのにね。結局いざって時は自分だけ助かりゃいいと思ってるんだな。
でも(自分含め)人間なんて、みんなそんなものなんですかね(^^;)。
彼もこういう頑固で偏屈で、さっさと自分だけ逃亡するような奴と何十年も付き合っていたら、さすがにその本性が見えて冷え切っていたのかな~とか想像もできます。
地図を見るとローマからロレートまでの距離は、フィレンツェと同じくらいなので、いっそフィレンツェへ帰っちゃえば良かったのに、とか。
それまでフィレンツェへ帰還するよう再三要請があったのに、高齢で帰る体力もないとか、サンピエトロ大聖堂の仕事があるからと、断っているんですよね、この人。
フィレンツェに帰ったらもうローマには戻れないから、やっぱりそれは彼がいたからかな、とか色々想像すると面白いです(^^)
創作するならそれらの想像を、いかに空想でもドラマチックに仕上げるか、ですかね。
ロレートに向かったミケランジェロたちは、途中街道が町の中を通るスポレートまで辿り着きました。
当時は地図も標識もなかった時代で、旅人が道に迷うことも普通だったようだけど、この時ロレートへの方向は間違っていなかったようです。
でもさすがに高齢のミケランジェロは長旅に疲れ、少しここに留まることに。
結局ここが気に入ってしまったのと体調もあってか、ローマから追手が来るまでの約1カ月、留まることになりました。
私もローマからスポレートへ向かいました。スポレートは2回目で前回はバス、今回は列車です。どちらも2時間ほどかかりましたが、かなり山の中を入っていきます。
町中には今も残る中世時代からの舗装された道ってあるけど、都心を離れた山岳地帯を馬や徒歩で行くことがどんなだったのか、想像つかないですね。
ではここからはスポレートの街並みを。
ここにはミケランジェロの作品はありませんが、フィリッポ・リッピの遺作のフレスコ画が見どころなので、載せます。
↑これらのフレスコ画をミケランジェロも見てると思うのですが、何も記録がありません。本人好みの絵じゃなさそうだから、関心なかったのかも(私は大好きです)。
没するまでの業績 ~1564年 とミケランジェロ本人の墓碑
では最後は1557年以降ってことになりますが、ローマで撮影した、ミケランジェロが没するまでの作品と、フィレンツェのお墓を載せます。
上の教会はテルミニ駅からも近く、電車の時間までに空いた時間がある時などに立ち寄れる最適な場所の一つです。
もともとローマ帝国時代の浴場の一部で、18世紀に内部は改装されてしまい、華やかな装飾が目につきましたが、建物の全体的な造りには名残が残っています。
ミケランジェロがこの門を手掛けたころ、一度自宅で意識を失って倒れ、弟子のアントニオが見つけ、トマソなどが駆け付けたそうです。
でもすぐ回復し、数日後には馬に乗ってこの現場に来ていたとのこと。
ミラノには行かなかったので、ミケランジェロが没するまで制作していて、未完に終わったという「ロンダニーニのピエタ」が見れるなんて思ってもいなかったけど、コピーでも目にすることが出来てラッキーでした!(^^)!
1564年2月18日ローマの自宅にて、トマソ・カヴァリエリなど数人の知人、友人に見守られながらミケランジェロは永眠。
ジョルジョ・ヴァザーリによると、その後、駆け付けた甥のリオナルドによって遺体は秘密裡にフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ教会に埋葬されたということです。
研究者の中には、ヴァザーリの述べる「秘密裡に運ばれた」ことが大げさだとか、秘密ってことはなかったと唱える説もあるようですね。
研究者でもない私の個人的な解釈…としては、まともに甥がバチカンにそれを申し出たりしたら、絶対ダメだと拒否されたと思うので、そういうことはせず、黙認された形だったと思います。
当時は亡くなったら、その土地で埋葬されるのが通例で、例えばフィリッポ・リッピもたまたま亡くなった時の場所がスポレートだったので、スポレートで埋葬されています。
のちに息子のフィリッピーノが父親の遺体をフィレンツェに戻そうと引き取りに行ったのだけど、叶わなかったそうです。
ミケランジェロはとっくにローマ市民だったし、これだけ偉大な人のお墓があること自体がシンボルになりますからね。
そのままローマで埋葬されることを望み、フィレンツェに帰ってしまったことを残念に感じた方もいたのではないでしょうか。
実は今回の旅で、サンタクローチェ教会の外観の写真を撮り忘れておりました💧載せているのは20年以上前の「写ルンです」か何かで撮ったものです、これしか見つからなかったので。
ホントに安物の昔のネガ写真だと、劣化もしてるし写りが悪いので、当時教会内でいただいたパンフレットがあったのでそれを載せてみました。
こちらの方がくっきり見えますね。
長い記事をご覧いただき、ありがとうございました。