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ある日突然母から「母さん余命3ヶ月だって…」と言われた

人一倍元気な母がまさか病気になるなんて夢にも思ってなかった。

母が39歳の時に私を産んでいるから私が物心ついた時には、肩が痛い・腰が痛いなんて言うのは日常茶飯事。
年齢的なものもあり血圧がやや高めで薬を飲んでいたが、それ以外はすこぶる元気な母だった。
以前にも「車イスの私よりも目立つ母親」という記事で、母の事をちょっと紹介したのですが、母は、ジッとしていられないタイプで常に何か動いていないと気がすまない人。だから常に周りの人からは「はるちゃんのお母さんいつも元気で明るくてパワフルだよねー!はるちゃんいるの気がつかなくてもお母さんいるのわかるわー!」なんて言われる事も多く、私はそんな母をちょっとだけ恥ずかしくもあり嫌だった。

私が高校2年生のある日、母からいきなりこんな事を言われた。


「母さん検査入院するわ」

話を聞くと何やら普段かかりつけの内科の血液検査で少し数値が高かったらしい。念の為検査入院した方がいいと言われたのだと言う。
母もそこまで重大な感じでは話していなかったから、私はきっと大したことではないんだとこの時は思った。
私は、まさかこの検査入院が大変な事になるとは、この時夢にも思ってなかった。

母が入院するという事は、私の面倒をみる人がいなくなってしまうという事だ。
この当時は私の生活の事を大半が母が行っていた。ヘルパー制度も使ってはいたが週に何回か数時間お願いする程度。
母が検査入院で家からいなくなってしまうと私は生活出来なくなってしまう。
そこで母は入院する病院の小児科にお願いをして、母が検査入院している間だけ私も入院させてもらう事になった。
この病院の小児科には私もかかっていたから、なんとか許可が下りた。
そこからすぐに入院生活が始まった。

入院して2週間くらいが経ったある日の夕方、突然母が私の病室に来て
「今から外泊するから。帰ってから話あるから」
といい、今まで見たこともないくらい険しい表情で私の荷物をまとめ始めた母。
話って何?と聞いても、帰ってから話すからとしか言わなかった。
母の慌てているような動揺しているような切迫した表情を見て何かあったのだとすぐに思った。
だけど私はまだこの時も大したことはないと軽く考えていたのだった。

家に戻りすぐに母の話は始まった。

「母さん余命3ヶ月だって…はるかごめんね…母さんガンになっちゃった…」
と泣きながら言われた。
何を言っているのかわからなかった。頭が真っ白になり、理解出来なかった。いや、あまりの衝撃に理解したくなかったのかもしれない。
後3ヶ月で母さんが死ぬ?いやいや!元気じゃん。
絶対ウソでしょ…
気がつけば私も泣いていた。でもちゃんと話を聞かなきゃと思い必死に母の話を聞いた。

母は、肺がんのステージ4と診断されていた。
肺がんは自覚症状が無く進行していきこの時すでに、ガンのステージ4は末期だという。
胸水にも水が溜まり、その水にもガン細胞が入ってしまっているため手術をしても助からない。このまま何もしなければ余命3ヶ月ほどしかもたないと宣告をつい先ほど受けたという。

具合悪いとか無かったのにいきなり肺がん?しかもステージ4?末期とか何?
高校2年生の私にはこんな重い宣告を受け入れるなんて出来なかった。本当は私以上に母が動揺していた。たぶん母は、はるかまだ高校生だし障害があるこの子を置いて死ぬ訳にはいかないと思ったのだろう。
私はなんて母に声をかけたのかも覚えていない。ただ訳もわからず泣いていたような気がする。
ひとしきり泣いた後、母はこう言った。
「あんたが成人するまで母さん死ねないわ。だから効果があるかはわからないけど抗がん剤治療しようと思う」

医師から少し時間をあげるから治療するのか、それともしないとその時を待つのかじっくり考えて来なさいと言われ外泊してきたようだ。その上で母は治療すると選択をした。

私は抗がん剤治療に一縷の望みをかける事にした。
きっとこの人は強いはずだ。3ヶ月では絶対に死なない!
そんな風に私は思う事にした。

話の最後に母が、治療を始める前に旅行に行きたいと言い始めた。治療を頑張るために、あんたと旅行に行きたいと言った。
普段あまり自分からどこか行きたいなんて言わない母。
よし!行こう。すぐにパソコンで宿を検索し予約した。
次の日母と2人温泉旅行に出かけた。

この旅行が2人で行った最後の旅行となった。

サポートしていただけたら嬉しいです😭コロナが明けたらディズニーランドに行きたいです。よろしくお願いします🙇🏻‍♀️使い道はnoteで紹介させていただきます。