間に合わなかったメロスのその後の話②
メロスの敗北 第2話(全6話)
第1話↓
●●2
日没からさらに時間が経った。
メロスはいよいよ抜け殻のようになって、座り込んだまま放心状態で地面を見つめていた。
フィロストラトスもまたずっと傍で押し黙って立っていたが、あるとき意を決して口を開いた。
「メロス様」
メロスは答えなかった。
「帰りましょう。私達の家に来て下さい。食べ物もありますし、寝床もあります。今はまずその身体を休めなければ」
私が、友の家に行けると思うのか。
殺した友の家に、殺したその夜に上がり込んで、そこでものを食べて眠れというのか。
メロスは何も言わずゆらりと立ち上がったかと思うと、おぼつかぬ足で歩き出した。
「メロス様、お待ちください。どこへ行くのですか」
「どこにも、行くところなどない」
かすれた声でそう呟き、歩き続ける。
フィロストラトスが後ろで何か言ってきたが、それ以上メロスの耳には入らなかった。
空は濃い群青色だ。人々の顔もほとんど判らないくらいになっていた。
メロスは背を丸め、腕をだらりと下げたまま、焦点の合わない眼で歩いた。
盲人のように心もとない足取りで、ふらふらと彷徨い続けた。
王の暴政でかつての活気を失ったこの街は、人も灯りもまばらでまるで死んだように静かだ。
メロスはどこも目指さなかった。ただ灯りのない暗い方へと歩いた。どんな小さな灯りにも照らされたくなかった。
誰にも見られたくなかった。
僅かでも人の姿や微かな灯りが見えると、避けて通ったり、引き返したりした。
空が真っ暗になった。月もなく、人も建物も夜の闇に溶けて判らなくなった。
もう歩けないほどに身体は疲弊しきって、今にも倒れて眠ってしまうような状態だったが、友を死なせた事実が眠ることを許さなかった。眠らずとも、この現実が悪い夢そのものだった。
頭も身体もひとたび立ち止まってしまえばこの悪夢に押し潰されてしまいそうで、歩みを止めることができない。
ほとんど誰が歩いているのか解らぬという感覚でメロスは歩いた。夜の闇で心を塗り潰してしまいたかった。
だがどうしてもそれができなかった。
シラクスに来てからの記憶が、歩いている間中ずっとメロスの脳裏に流れ続けていた。
覇気のない住人たち。暗い表情。言い淀む老人。辺りをはばかる低い声。
高い城壁、叫ぶ警吏たち。引き倒され地面に打ち付けた顎。懐をまさぐる警吏の手。
手首に食い込む縄の痛み。王の蒼白な顔と眉間に刻まれた皺。くぐもった嗤い声。挑発の言葉。
友の驚いた顔。事情を聞き強ばっていく顔。抱きしめた時伝わった微かな震え。縄打たれ牢へと連行される姿。
暗い夜道。生ぬるい空気と草の香り。満点の星空。弾む呼吸。
故郷の村人たち。羊の番をする妹。赤らむ頬。
土砂降りの大雨、陽気な歌。家中満ちた熱気。妹の顔。婿の顔。
夜明け前、肌をなでる小雨。ぬかるむ地面。
破壊された橋に猛り狂う濁流。押し流される身体。遠ざかる対岸。飲み込んだ泥水。重くなる手足。
しがみついた木の幹。失った水と食料。
現れた山賊。両腕を掴む太い腕。振り下ろした棍棒。頭を打つ鈍い音。
背後からの追跡と叫び声。喘ぐ呼吸の音。日照りの中、乾ききってはりついた喉。
めまい、朦朧とする意識。倒れ伏した身体、土の臭い。
諦めと無関心。うたた寝。湧き水の流れる音。喉を潤した清水。
全身をちりちり照らす斜陽。傷だらけの身体。破れかかった服。悲鳴を上げる筋肉。張り裂けそうな胸。
驚く人々の顔。若い石工。遠く見えるシラクスの塔楼。
刑場の群衆。揺れる視界。潰れかかった喉。友の叫び声。土埃。つき立てた歯の感触。遠ざかる周囲の声。
表情を無くした友の顔。苦悶の跡。虚ろな目。胸を貫く槍。流れる血。かすかな体温。
破れた拳の皮と血。潰れた喉。土をかけられ、見えなくなっていく親友の姿。
もしも私が、あの朝もっと早く目覚めていたら。
もしも、大雨で橋が流されなかったら。
もしも、あの山賊たちと出会わなかったら。
もしも、あの場でもっと早く湧き水があることに気づいていたら。
もしも、後ほんの少し刑場につくのが早かったら。
もしも、あの時、ちゃんと声が出せていたら。
友は死ななかった。
わずかな、わずかな時間が足りなかった。
ほんのすぐ近くに友が助かる道があった。
今も自分のすぐそばに、友の生きている世界が垣間見えるような気がする。
だが、届かない。もう取り戻せない。間に合わなかった。
間に合わなかったからこうなったのか?
……違う。違う。すべては私が自分で起こした災いではないか。何もかも、ぜんぶ私が引き起こした。
私は、私はいったい、何ということをしたのだ。
王城に乗り込んだとき、何の迷いもなかった。思い上がった暴君に目にもの見せてやることしか頭になかった。
深く考えることもなく、怒りに身を任せて、無二の友を人質にした挙げ句、放ったらかしにした。
王になんと言った。自惚れているがいいと。
妹になんと言った。お前の兄は偉い男だと。
花婿になんと言った。メロスの弟になったことを誇ってくれと。
いったいどの口がそんなことを言えるのだ。自惚れていたのは私だ。乱心していたのは私だ。
何がもしもだ。何が間に合わなかっただ。そもそも、やる必要のない無意味なことだった。
こんなことなら、最初から何もしないでいるほうがよかった。友も死なず家族とも別れずに済んだ。
私が何もしなければ、私の大切なものは何ひとつ失われなかった。友は殺され、家族には合わせる顔がない。
すべて、無駄だったのだ。濁流を泳ぎきったことも、山賊を退けたことも、死力を尽くして走ったことも、すべて。
そこになんの深遠な意味もなかった。
残ったものは何もなく、あるのは災いだけだ。
私自身がもたらした災いだけだ。
もうこの結末を覆すことはできぬ。
どれだけ苦悩しても、泣き喚いても、この現実を変える事などできぬ。
私はなんという呪わしい人間だ。なんと許されざる罪にまみれた人間なのだ。
メロスはこの身が暗闇の中に散り散りになって消えてしまうよう願った。もう何も感じたくなかった。
ゆらゆらと、いつまでも亡霊のように歩き続けた。
どれほど時間が経っただろうか。いったいどこをでたらめに歩いたのか。
「メロス様」
我に返り、足を止めて振り返った。
少し離れた暗がりの中にうっすらと人影が見えた。ゆっくりとこちらに歩いてくる。
フィロストラトスだった。
なにか逃れられない運命が、自分を捕えにきたように感じた。
メロスはがっくりと膝を折った。再びその場にへたり込むと、力のない目でこの若い男を見上げた。
フィロストラトスは側までくると、メロスを見下ろした。
暗がりの中、どんな顔で自分が見られているのかよくわからなかった。
メロスは耐えられずに切り出した。
「私を殺してくれ」
返答はなかった。
「頼む、私を殺してくれ。お前も、私を許せないだろう。どうか」
そのとき、頬に大きな石で打たれたような衝撃が走った。頭をしこたま揺さぶられ、メロスはたまらず仰向けに倒れ込んだ。
フィロストラトスの拳だった。
彼は、痛みと目眩で起き上がれずに倒れたまま顔を歪めて呻くメロスをじっと見ていたが、やがて握りしめた拳から力を抜くと、深く深く息を吐いた。
それからメロスの側で身を屈めて、顔を近づけるとメロスをまっすぐに見据えた。闇の中、間近にその顔が浮かんだ。
「私の怒りは、もうこれきりです」
ゆっくりと、はっきりした迷いのない声でそう告げられた。
フィロストラトスは続けた。
「メロス様、あなたは生きなければならない。そのような形で命をなげうつことは決して許されません」
メロスは仰向けに倒れたまま、弱々しくセリヌンティウスを見た。その顔には本当に怒りなどないように見えた。
「私は」
メロスは堰を切ったように思いを吐露した。
「私はどうすればいいのだ。友を殺した。私などのために死なせてしまった。人を信ずる心も王に示すことができなかった。私が命を捧げてそれを証明するはずだったのに、できなかった。友は死んだのに、私などが無意味に生き残ってしまった。私はいったい何なのだ。私はこの上どんな顔をして生きていけばよいのだ」
「胸を張って生きてくれメロス。君はけっして臆病者ではない。卑怯者ではない。誰が何と言おうと私だけは君が何者かを知っている。私が死んだ後もずっと君の無二の親友だからだ」
力強い声だった。
メロスはあっけにとられてフィロストラトスを見た。
「先生のお言葉です。死ぬ前にあなたへ遺言を残した。あなたにすべて伝えるよう命じられました。メロス様、あなたが生きていられるのは親友を犠牲にしたからではありません。本当なら先生だけでなく、メロス様も殺されていました。しかし先生があなたの命を助けたのです。日没までに刑場に来させないことによって」
メロスは驚きに目を見開いた。
「いったい、どういうことだ」
フィロストラトスは、この3日間に起きたできごとを語った。
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