何度目の魂か
2年ほど前から信じてることがある。
生まれ変わること。 すべて自分で選んでること。
生まれ変わるというよりも、魂がめぐる
たとえば、いまわたしが文字を打ち込んでいるこの指も、地面に向かって突き立てている足も肉体であって私ではない。
どういう意味かといえば、いまここにあるこの身体は今世の魂にとってのおうちにすぎないということ。ちょっと失礼って場所を借りてるだけ。
と、まあ断定しておきながら感覚としては曖昧な部分はある。
たとえば、ひとがこの世を去るときに、
肉体だ。と頭でわかっていたとしても、涙はこぼれ、すごくすごく悲しいのである。
だからそんな簡単に割り切れる話でもないんだけど、それでも身体がなくなるだけで、魂はまためぐっていくと信じている。
それはなにか証明できるわけでも、わたしが特別に何かを知っている存在だというわけでもない。
2年前くらいにみた1本のドキュメンタリー映画からおもに影響をうけ、
その後出会った本や、話で肉付けされた観念である。まったく論理的ではないし、馬鹿にする人もいるかもしれない。
それでも、すっと私に染みてきたのだから、私はそれを信じて生きたいと思っている。
人は選んでいる。らしい。
すべて。生まれる前から。
どの時代、どの場所、誰のおなかの中に入るのか。
たとえば、本当に、選んできたのであればあまりに残酷な生い立ちの人だっている。わたしには知り得ないようなことだってきっと。
あなたが幸せだからそんな風に思えるのよ。って思う人もいると思う。
それでも魂がそれを選んできてる。
その魂にとって今世越えるべき壁の高さがそれ。
魂はめぐり、何度も壁を越えて向上する。成長する。
何度目の魂なのか。
それは今世の試練。
その試練に耐えられなかったら、たとえば投げ出してしまったら、その壁を越えられるまで魂は成長することを続けるのだと勝手に思っている。
わたしの身近なひとが、ふいに、この人は何度目なんだろうね。といったことがある。
それから、新しそうな人と何度も繰り返してそうな人がいると言っていた。
どれくらいの何を感じて口に出したことなのかわからないけれど
やっぱりそうだよなぁとおもった瞬間だった。
よくあることだと思うが、人と話していて、年齢だけが判断基準ではないなと思うことがある。
経験は関係あると思うし、取り組んだ年数、回数などは影響することも多い。
それでもそれとはべつの。そこもまた魂なのか。
ここにいるわたしの魂は何度目だろう。
みて感じることはそれぞれなので。
ぜひにどうぞ!
わたしのおすすめは2016年バージョンなのでなかなか見れないです。
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