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10年という月日に寄せて


東日本大震災から、今日で10年。

東京に住むわたしすら強い恐怖を覚えるほどの地震だったし、黒く濁った津波が街を飲み込む映像はこの世のものとは思えなかった。呆然とテレビを見つめるしかなかったことを思い出す。

祖父はのちに帰還困難区域となる福島の富岡という街に住んでいて、震災後は東京のわたしの実家で暮らし、ついに福島に帰ることなく亡くなった。生活も、きっと人生も変わってしまっただろう姿をそばで見てきた。わたしたち家族の在り方も変わった。

わたしは震災を決して忘れないよう胸に刻まねばと静かに誓った。


それでも、最初の数年はなかなか被災地に行くことができなかった。今思えば実際に行って何かを感じて帰ってくる、それだけでもよかったのに。
震災から3年経って、初めて東北を訪ねることができた。その直前に行った広島平和記念資料館で見たノートの言葉が、わたしをやっと被災地へと向かわせたのだ。

福島から来ました。
広島のなしとげた復興を福島も必ずなしとげます。


そこでは、想像などとてもできなかった現実が待っていた。
学生だったわたしは半年ごとに東北へと足を運び続けた。


一番印象的なのは5年目に福島で過ごしたときのこと。
ラジオ福島に勤めている知り合いの方からご縁を繋いでいただき、大和田新さんというフリーアナウンサーの方の被災地周りに同行させていただいた。

そこで目の当たりにしたのは、ニュースで流れてくる漠然とした数字なんかではなくて、その土地で生活を営み、日常を愛し、そして突然身近な人を亡くした、わたしと同じふつうの人たちだった。
みんながみんなそれぞれ、家族や、友人や、知り合いを亡くしていた。5年の月日が経とうと、いやこれからどれほどの時が経とうとも、その傷が癒えることなどないのだという当然の事実がそこにはあった。

わたしはよく、"もう"5年と表現していたけれど、被災地で出会った方が「"まだ"5年なのね」と呟いていたのにはっとした。自分と被災地で暮らす方々の時間軸に歪みが生じていることを初めて知った。
震災は過去になどなっていなかった。そこにはもちろん語り継ごうとする方々の努力もあるし、それに加え福島で車を走らせると目に入る除染土の入ったフレコンバッグや、あちこちに供えられた新鮮な献花も、否応なしにその日を思い起こさせた。

これまで震災の教訓を伝えようと奮闘される方に多くお会いしてきたが、現地の方の中にも様々な意見があるということも知った。例えば津波の被害にあった学校を震災遺構にしようという動きと、嫌でも思い出してしまうから取り壊してほしいという思いが対立することもあるそうだ。
すべての人の願いを叶えるのはきっと難しい。でも、それぞれの思いが取り残されてしまわないといいなと思う。

被災地周りでは数えきれないほどの花を手向けた。お会いしたことのない方々だとしても、ご遺族からお話を伺ううちにその姿がありありと想像できて、胸が締め付けられるばかりだった。
帰ってこないご家族を思う横顔は、あまりに痛ましく、あまりに愛で溢れていた。家族や知り合いが犠牲になっていない人などいないような状況で、今も多くの人が悲嘆の中にあるのだという当然のことが、その時初めて実感をもった。

その日一日、朝から晩までずっと泣いていた。体中の水分という水分がすべて、言葉にできない感情の代わりに涙に変わっていった。
ほとんどトラウマになるくらい、深い悲しみに暮れた一日だった。



帰ってからしばらく、何ができるのだろうか、どうしたら忘れないでいられるのだろうかと考えていた。きっと被災地の方々が望むのは、心を寄せ続けること、語り継ぐこと、学び備えること、、、
そんな中福島の子どもたちの保養ボランティアの存在を知り、お手伝いをさせてもらうようになった。

子どもたちと関わるのが楽しくて、わたしの方がはしゃいでいたと思う。どんどん慣れ親しんでくれて、関係ができていって。そのうち話の節々から、原発事故にも長く悩まされている福島での生活が垣間見えるようになる。移住を考えるご両親もいたし、癌になった人が身近にいるとも。
放射能の影響がどれほど関係あるのかはわたしにはわからなかったけれど、話を聞く限り人を不安にさせる要素はいくらでもあった。
子どもたちも福島では、外で遊ばないように、土や草に触れないようになどと言われていて、それはなぜかを理解していたのが切なかった。



就職してからはなかなか東北へ足を運べていない。仕事が忙しいと言い訳をしているけれど、自分では理由はわかっている。あまりにあの被災地周りの一日が苦しかったからだ。
逃げてはいけない、向き合わなければと思えば思うほど、また次にしようと先延ばし今日になってしまった。

震災から丸7年の3月11日、尊敬する友人が綴ってくれたnoteは、そんなわたしを少なからず救ってくれるものだった。

一番良くないのは、忘れちゃいけないと自分自身を脅して、呪いをかけて、前に進めないように縛り上げてしまうことだった。
・・・
忘れることなんてできないから、
もう「忘れるな」なんて言わなくていい。

忘れられるわけなかった。
お子さんを2人もなくしたご家族、自らを犠牲にして他の人の命を救った男の子、最期まで職務を全うした警察官の方、自分の生きる街を愛す時計屋や理髪店や食堂の方々、保養で関わった愛おしい子どもたち、、、

どうしても東北に足が向かないことに罪悪感があって、行けない期間が長くなるほどそれは膨らむばかりだった。
でも、わたしにはわたしの向き合い方がある、ペースがある。
また行こうと思う日は絶対に来るとそれだけはわかる、だからきっと大丈夫だと思えるようになった。

なぜならわたしは、愛情深い人々がゆったりと暮らす、自然豊かな東北での時間を、いつしか恋しく思うようになっていたから。



今日は、"何百人何万人"という漠然とした数字なんかではなくて、今まで出会った方々の顔を思い浮かべながら祈りたい。
それぞれの向き合い方で、それぞれのペースで、震災や大切な人や東北の地に向き合える、穏やかな一日になりますようにと切に願って。


これがわたしの10年、わたしの3月11日。



会いたい 会いたい 会いたい 会いたい
君に会いたい 会いたい 会いたい
話したい 触れたい 抱きたい 見つめたい
これを超える気持ちが今も生まれない

僕は生きてるよ 君のいない世界で
たまに笑ってみたり 何か夢中になったり
だけど君がここにいなくてもいい理由
なんかどこにも見当たらないまま10年
君が吸うはずだった酸素は今ごろ
どこの誰の中を彷徨ってるんだろう
なんてさ なんてさ なんてバカ真面目に
思ったりするのさ

会いたい 会いたい 会いたい 会いたい
君に会いたい 会いたい 会いたい
聞きたい 撫でたい 怒りたい 嗅ぎたい
これを超える気持ちが今も生まれない


あいたい/RADWIMPS