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名作\森鷗外『舞姫』勝手読み2

今回は、高校3年生になると必ず習う森鴎外『舞姫』を「勝手読み」します。例年質問が多く、高校生には文体や内容が難解に見える作品ですね。実は文学史的にも重要な作品です。「没理想論争」や「舞姫論争」を経て、文体や内容による浪漫主義的作風の実践を示した作品と言えます。「勝手」とは言いながら、高校生の皆さんにとって、授業に役立つように構成します。ぜひ一読を。


第2回
3 森鷗外『舞姫』
目次
⑴ あらすじ
⑵ 高校授業ノート
⑶ 定説紹介
⑷ 勝手読み

森鷗外

⑴『舞姫』あらすじ


「げに東(ひんがし)に帰る今の我は、西に航(こう)せし昔の我ならず、…我と我が心さへ変はりやすきをも悟り得たり。」――日本に帰る今の私は、ヨーロッパに出発したころの昔の私とは違う。自分の心が変わりやすく、頼りにならないことを思い知らされたのだ。小説『舞姫』は、主人公の太田豊太郎が船で日本へと向かう場面から始まります。5年間のドイツ赴任を終えた若き官僚の豊太郎は、自分を変えてしまった出来事について回想として書き記していきます。ドイツに赴任して3年後、豊太郎に転機が訪れます。日本とは違うその自由な校風に触れるうちに、自分の生き方に疑問を抱き始めます。「ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが」。親や国の期待に応えるためだけに生きてきた、自分は受身な人間であったと豊太郎は悟ったのです。そんなある日の夕暮れ、豊太郎は、教会の前で泣いている一人の少女に出会います。「我が足音に驚かされて顧みた面(おもて)、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。」――私の足音に驚いて振り向いたその美しい顔立ちは、詩人の才能がない私には伝えるすべがない。少女の名前はエリス。貧しい彼女は、父親の葬儀を出すお金がなく、途方にくれていました。豊太郎はその費用を工面します。彼女は劇場で働く踊り子でした。豊太郎はエリスの純真さに魅かれ、しばしば逢うようになります。エリート官僚と貧しい踊り子。二人の交際のうわさはたちまち留学生仲間に広がり、誤解を生みます。「彼らは速了(そくりょう)にも、余をもつて色を舞姫の群れに漁(ぎょ)するものとしたり。我ら二人の間にはまだ痴がい(ちがい)なる歓楽のみ存じたりしを。」――彼らは私が踊り子たちを相手にする遊び人だと早合点してしまった。二人のあいだには、清純な愛しかなかったのに。やがて、そんなうわさ話が豊太郎を追い詰めます。踊り子に会うため公務をおろそかにしている、その噂を真に受けた上司によって、職を解かれてしまいます。失意の豊太郎を支えたのは、エリスの愛情でした。二人は一緒に暮らし始めます。「エリスと余とはいつよりとはなしに、あるかなきかの収入を合はせて、憂きが中にも楽しき月日を送りぬ」。友人の紹介で新聞記者として働き始めた豊太郎は、エリスと、貧しいながらも幸せに満ちた月日を送ります。やがてエリスは新たな命を身ごもります。エリスと子どもを抱え、これからどうすればいいのか、豊太郎は見通しの立たない自分の将来と向き合うことになります。そんなとき、親友のエリート官僚、相沢健吉が、ベルリンに大臣と共にやってきます。豊太郎の才能を惜しむ相沢は、大臣のために働くよう勧めます。そして、大臣の信用を得るためにはエリスと別れるべきだと強く言います。豊太郎は思わず相沢の提案に従ってしまいます。「我が弱き心には思ひ定めん由なかりしが、しばらく友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。」――私の弱い心では決断できないが、とりあえずは友の提案に従って、エリスと別れる約束をした。この軽率な一言が、後に大きな悲劇を招くのです。豊太郎はエリスと別れる決心のつかないまま、大臣のために働き始めます。その働きが認められ、ついに大臣から一緒に帰国するよう促されます。「もしこの手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉を引き返さん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり。」――この機会を逃せば、国や名誉を失ったままベルリンの街に埋もれてしまう。不安に襲われた豊太郎は、帰国を大臣に約束してしまいます。エリスを裏切った自分の弱い心を責め続ける豊太郎。雪の街をさまよううちに意識を失います。「豊太郎が帰国する」。そうエリスに伝えたのは、見舞いに訪れた相沢でした。それを聞いたエリスは叫びます。「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか」――愛する豊太郎さん、これほどまでに私をだましていたなんて。信じきっていた豊太郎に裏切られたエリス。その心は打ち砕かれ、二度ともとには戻りません。心を失ったエリスとお腹の子どもをベルリンに残したまま、豊太郎は帰国の途につきます。悔やみきれない思いが胸に刻まれたのです。(NHK 10min.box 現代文から引用 )

⑵高校授業ノート


 石炭をば早はや積み果てつ。
欧羅巴は、すでに時間的物理的に遠く離れた世界となり、過去の出来事もすべて終わったことである。

 独逸ドイツにて物学びせし間(ま)に、一種の「ニル、アドミラリイ」の  気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
独逸で学問を修めていた間に、「ニル、アドミラリイ」=無感動な気持ちを持っただろうか。これは独逸でとてもつらい人生経験をしたからだ。

 げに東ひんがしに還かへる今の我は、西に航せし昔の我ならず
かつては、官命による洋行で立身出世に胸を躍らせ、見るもの聞くもの学ぶものすべてに情熱を傾けようと決意していた。しかし今故国日本への東方へ向かう船上では、船室に籠り、人知れず恨みに苦しめられている。

 これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
人知れずある恨みを宿して懊悩しているから。

 余は模糊もこたる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽 (たちまち)この欧羅巴ヨオロツパの新大都の中央に立てり。
ついに欧羅巴に到着し、当初の希望を叶えるべく、名を成し、家名を興そうと決意している。 

あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮さへぎり留めたりき。
誘惑に負けずに、初志を貫くためにあらゆる外物、いわば害物を防ごうとした。

 かくて三年(みとせ)ばかりは夢の如くにたちしが、
初志を貫くための日々を過ごし、三年の月は瞬く間に経ってしまった。

 たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが
ただ父の遺言と母の教えのままに、神童と呼ばれ、官長の激励に励まされ、ただ言われるままに過ごしてきた人生ではないかという疑念が芽生えた。

 既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらは れて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。
独逸や欧羅巴の自由な思想や生活風土に触れているうちに、これまで我知らず抑圧してきた父母のため国家のために学問を修め、貢献できる人材になるという初志に対してむしろ批判的な意思を持った。

 余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜よろしからず、また善く法典を諳そらんじて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。
余はただ言われるままに受動的に政治家や法律家に成るのはふさわしくないと悟った。

 我母は余を活いきたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん
母はただ知識だけの受動的人間にしようとし、長官は、ただ条文に忠実なだけの創造性の無い人間を望んだ。

 官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐いだきて、人なみならぬ面おももちしたる男をいかでか喜ぶべき
 彼(か)の人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
長官は、受動的で機械的な官僚を作ろうとしていた。自主独立の思想を持ち、人波で範囲人材など望んではいない。
同僚とは不安定な関係にあり、嘲り合い、嫉み合うことに異議を唱える気概もない。

声を呑みつゝ泣くひとりの少女をとめあるを見たり。
我足音に驚かされてかへりみたる面おもて、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず
『』といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるに呆あきれたり
モンビシユウ街の僑居(けうきよ)』に帰ろうとしていた時、遺跡の寺門に美しい少女が泣きながら立っていたのを見つけた。小心者の余が意外に大胆に声をかけていた。

〈エリスの泣いていた理由〉
父親の葬儀を出したいのに、その費用が無く、座頭が愛人になることを条件にお金を工面すると言い、母親も同意していたから。
〈豊太郎が時計を私お金を工面した〉


 この時を始として、余と少女との交まじはり漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了そくれうにも、余を以もて色を舞姫の群に漁ぎよするものとしたり。われ等二人ふたりの間にはまだ痴馬矣(ちがい)なる歓楽のみ存したりしを。
 その名を斥(さ)さんは憚(はゞかり)あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡(しば/\)芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許もとに報じつ。さらぬだに余が頗すこぶる学問の岐路(きろ)に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。
豊太郎とエリスとの交流は健全だったにもかかわらず、同郷人が官長に豊太郎が不健全な交流をしていると讒言し、官長も激怒し、豊太郎を免官してしまう。
 一は母の自筆、一は親族なる某(なにがし)が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書ふみなりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運はこびを妨ぐればなり。
免官してしまい、その失意の中でさらに母の死までを知る。

公使に約せし日も近づき、我命めいはせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。
彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長へんしふちやうに説きて、余を社の通信員となし、伯林ベルリンに留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。
 豊太郎の窮状を知り、職を手配し、現在の帰国の手配までしてくれたのが帰国の船に同乗している親友の相沢謙吉だった。

我学問は荒すさみぬ
大学の講義よりも、新聞の原稿を書き、活溌々な政界の運動、文学美術の新現象の批評をしている。

 エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶たすけられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻つはりといふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覚束(おぼつか)なきは我身の行末なるに、若し真(まこと)なりせばいかにせまし。
 こんなすさんだ生活のなかでエリスが妊娠してしまい、自分の未来によぎる不幸を実感し、どうすればいいのか悩み始めた。

大臣は既に我に厚し。……されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟(か)。……今は稍(やゝ)これを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々しか/″\といひしは、大臣のかく宣のたまひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん
 
相沢の手配で大臣に同行し、評価された豊太郎は、帰国後も官吏として取り立てられる手筈になった。さらにエリスとの決別も相沢と約束していた。

 我 我心はこの時までも定まらず、故郷を憶(おも)ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一刹那(せつな)、低徊踟蹰(ていくわいちちう)の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭かしらは我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
 豊太郎の心は定まらず、曖昧なままで、エリスへの愛情を望郷の念と立身出世の初志が制圧しそうなときに、これまでの「彽徊」趣味な傍観的態度が無くなり、つい相沢を抱きしめ、涙を流した。決定はしないままだが、心が帰国と復職を無意識に望んでいた。

若しこの手にしも縋すがらずば、本国をも失ひ、名誉を挽(ひ)きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝ついて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承うけたまはり侍はべり」と応こたへたるは。
 同行の翻訳の仕事を評価した大臣が、一緒に故国日本に帰国し、有能な能力を発揮してほしいと言い、独逸に係累、家族が居ないのも、相沢に確認済みだと言われた。そこで、豊太郎も故国を失い、名誉の挽回の機会の無いまま、欧羅巴の路傍で死ぬことを恐れ、大臣の申し出をそのまま受け入れてしまう。「嗚呼、何等の特操なき心ぞ」とは、何らの拘りや後悔の無い心だったのかと、今帰途にある豊太郎が嘆いている。

 余は答へんとすれど声出でず、膝の頻しきりに戦をのゝかれて立つに堪へねば、椅子を握つかまんとせしまでは覚えしが、その儘まゝに地に倒れぬ。
 帰国の事実をエリスに直接話せず、その緊張の中で卒倒してしまう意気地のない豊太郎。

「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵たふれぬ。
 卒倒した豊太郎を献身的に看病するエリスのところへ、豊太郎を見舞いに来た相沢が来て、秘密をすべて暴露してしまう。それを聞かされた妊婦のエリスは、気がふれ、「パラノイア」といふ病にかかり、おしめをして徘徊している。

 嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡なうりに一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。
 帰国の途にある豊太郎自身が、帰国の労を取ってくれた親友相沢に感謝しながらも、エリスに自分の言葉を勝手に言った相沢への恨みと、そのためにエリスの心を失わせた自分の、償いようのない慙愧の念と後悔の綯い交ぜになった複雑な心情を抱き、小説冒頭の人知れず恨みを抱いた態度とつながる。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html


定説1

いわゆる作家論として、豊太郎と鷗外を同一視する観点からの説です。鷗外もドイツに留学しており、現地でエリスのモデルとされるエリーゼと恋仲になりました。しかし、舞姫同様、鷗外がエリーゼを捨てて帰国したので、後にエリーゼが来日したという主張です。実際明治23年の『舞姫』発表以降は、そのエリーゼ事件で医官としての立場に窮した鷗外が、翻訳以外は発表しなくなります。後年軍医の最高位に就いた後の明治40年代になって、『半日』(42年)『青年』(43-44年)『普請中』(43年)を発表します。つまり、一般的な定説としては、豊太郎と鷗外を同一視し、同様の窮地に立ちながらも、当時の国家的近代化政策の中で個人的な心情との葛藤に苦しむ近代知識人像として定義されます。同じく近代知識人の葛藤を前期後期三部作(三四郎/それから/門)(彼岸過迄/行人/こころ)で表現した夏目漱石と並び称されます。つまり、国家と個人との関係を論じる説です
 
「舞姫」を発表するや否や、世間でも非難囂々。新帰朝者ともあろうものが、異国で日本人の恥をさらした。そういった批判に鷗外は晒される。
 実際、軍部はそうした批判を重視して、鷗外に文学活動の停止を命じる。以後、鷗外は後に軍医総監という最高の地位に上り詰めるまで、小説を書くことができなくなった。その代用として、様々な翻訳作品を発表することにはなるが。
僕の推論はこうだ。
 おそらく鷗外は異国の地で自由になりえたと思ったことがすべて錯覚だと思わざるをえなくなった。家族全員に説得され断腸の思いでエリスを追い返した。愛してもいない人間と結婚させられた。
 すべてが家のため、国家のためと呑んできた。
 でも、一点の恨みだけはどうしようもなかった。そこで、「舞姫」を発表。それは自分の自由を奪い取ったすべてのものに対する恨みの告白だったはずだ。(出口の文学鑑賞)

http://www.deguchi-hiroshi.com/bungaku1/bungaku1-5bu-1.html


定説2

いわゆる明治23年の石橋忍月との舞姫論争を前提にした「想実」の二元論です。坪内逍遥との「没理想論争」(明治24-25年)で、逍遥が「事実を重視する客観主義」を主張したのに対し、鷗外は、事実だけではなく、理想が必要だと主張した。これが「想実論」を発表した忍月とも論争となり、「人事(現実)よりも想(理想)を芸術は優先すべきで、趣向や人事を優先することを非難する」忍月と対立しました。逍遥とは違い、忍月とはその理想的人物像のあり方の違いで対立しました。しかし、定説になると「恋愛か国家的仕事か」と二元化されてしまい、当時の女性よりも国家という女性蔑視の思想を短絡的に結び付け、豊太郎の人物像を説明します。

 鷗外はともかく、少なくとも豊太郎はまだ封建人だったんだ。
  明治の知識階級は江戸時代にはその殆どが武士階級で、個人よりも家や国家の方が大切だった。
 恋愛はあくまで個人のもので、相沢謙吉に言わせれば、一個人の私情に縛られてはいけないとなる。
 当時の価値観で言えば、恋愛よりも家や国家の方がはるかに重たい。ましてや、鷗外は新帰朝者で、当時の明治国家を背負っている。
 家族全員でそう説得されたなら、鷗外は断腸の思いでそれを受け入れるしかなかった。
(出口の文学鑑賞)

http://www.deguchi-hiroshi.com/bungaku1/bungaku1-5bu-1.html

 明治社会の封建制に衝突する新時代の青年の悲劇を描いた。豊太郎は周囲に順応して生きる俊敏な本能ともいうべきものを備えて、彼の恋愛は外部の社会よりむしろ内心の本能に闘って破れるのです。自分の意志によって恋を喪い、そのことが自分で許し得ない豊太郎は、自分の卑しさをよく知る現実順応家です。要するに名声安逸、家族など、要するに幸福の外的条件にはすべて恵まれたとしても、彼の内心の暗黒は、ますます広がっていくだけでしょう。(中村光夫『日本の近代小説』岩波新書)

鷗外は同時代の知識人の誰よりもはるかに深く、西洋というもの、近代というものの、本質を知っていた。だからこそ、あるべき近代を目指して、あえて啓蒙的な発言を行った。鷗外の発言は文学と医学の両面にわたった。文学では「しがらみ草紙」を舞台とする評論活動、、なかでも明治二十四年から五年にかけて、坪内逍遥と応酬を交わした没理想論争がもっとも有名である。現実の模写をよしとする逍遥のリアリズムに対して、ロマンティズムの立場からイデー、ないしは理想の復権を文学に求めた論争である。……いうくまでもなく、鷗外の批評原理は、西洋を規範とする近代社会ないし文化の獲得にあったわけだが、鷗外はそうした路線の選択をドイツ留学時代にすでに終えている。……しかし鷗外は、精神の深層で西洋に対して醒めている。少なくとも、西洋の浸襲を許さない一点を残している。……ドイツでの鷗外は、二つの言語世界を往復していた。ひとつは〈公〉の人として生きるドイツ語の世界であり、同時に昼間の生を生き直すための、〈私〉の文体としての漢文体の世界がある。
(三好行雄「「反近代」の系譜」『日本の近代文学』NHK叢書」)


勝手読み

そもそも「想実論」自体が「国家と個人」「立身出世と恋愛」という二元化を生む。豊太郎の内面に「西洋と日本」「公私」の区別が意識的に分別されていたのかが疑問である。「滅私奉公」という封建制の時代背景を勘案すると、当時の知識人はすべてこの葛藤にあったという説明になる。ここに夏目漱石がいう『文学とは如何なるものぞと云へる問題』がある。文学とは単に文学にすぎず、ミシェル・フーコーによれば「文学とはたかだか十九世紀に確立された「歴史的」な観念にすぎない。つまり時代が生んだ一表現様式に過ぎない。だからそこに「理想も現実」もない。ただあるのは、その作者や時代が望む虚構化された物語である。たしかにその「新しい」表現技巧により、「理想」や「現実」を物語風に描く上で、「現実そのままのリアリティがあり、その上理想的でもある」という感心を持つことは許されるだろう。しかし、それをさも絶対的な「解釈」であるかのように作家や研究者が強制し、読者もそれを鵜呑みにするところには、純粋な文学鑑賞はありえないのである。あるのは単なる技巧と操作である。今作の『舞姫』は、鷗外のドイツ留学体験に基づく「青春の挫折とそれによる実社会での成功」を「回想形式」で自慢した「告白」文学としてしか私は評価できない。「成功体験談の陰にある秘められた辛い経験」は、現代の中年以上の特におじさんが他にも多く散見される。


つまり、勝手読みの結論をまとめると、『舞姫』という作品とは、現代人も誰もが持っている公私の葛藤を、とくに明治期特有の、明治のインテリ、エリートが抱える「殖産興業、文明開化」という国家事業と、青春の情念との葛藤として設定し、国家事業と家名のために犠牲になった青春の蹉跌を表現した成功者の回想の物語である、となる。その葛藤そのものをそのまま再現する本当の意味でのリアリズム文学的な面は、夏目漱石の『こころ』の「先生」により、実現されたと考える。

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